キタイとブルガール —二つの牧農帝国—

 前回は通史として、ブルガールの興亡についてかいてみたが、今回は「最初?」の征服王朝ブルガールと伝統的な中国史においては「最初」の征服王朝とされる遼朝、イェケキタイオルンとを「経済」「軍事」「文化」の三側面から比較してみようと思う。

 

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 ドナウ・ブルガールから第一次ブルガリア帝国(以降、両政権を併せてブルガリアと称する)にかけての国内経済は都市部を除いて、全体としては自給自足的な貨幣も市場も存在しない状態であった(Browning 1995:148)。一方で、ブルガリアに南接するビザンツの経済においては、すでに国内においては貨幣経済が定着し、国際的にはビザンツの生産する商品は、イスラーム・ネットワークに受動的に依りつつも、北欧、西欧に存在する需要によって常に一定の貿易の利益を得ることができる立場にあった。

 経済においてブルガリアは全くビザンツよりも発展途上の状態にあり、同時代の西欧諸国がそうしたように、自国の通貨を鋳造し、国内市場の創出を目指すよりも、ビザンツと直接交易を行うことによって、すなわち経済的にはビザンツ帝国に組み込まれることによって支配階層の需要を満たすという方法で、自らの経済を成立させた。

 また、ブルガリア経済においては、セルディカ(現在のソフィア)を経由する街道などを通過する交易から上がる関税とビザンツからの貢納が重要な立場をもっていたことは十分に予想されることである。しかし、ブルガリアの関税システムはビザンツのそれと比べて、下級官吏が存在しないこととあいまって精緻なものであるとはいえず、(Browning 1995:151)貢納についてもビザンツ側からしばしば打ち切られることがあり、これらは国内から上がる現物収入と比べると不安定な収入源であった。

 このようにビザンツに経済的に従属しつつもブルガリアが独自の立場を保持しえた理由として、彼らの卓越した軍事力が挙げられる。徴兵によって構成されたビザンツの軍隊とは異なり、ブルガリアの軍隊は装備の整った強力なブルガール人の常備軍、碑文によると「扶養された者達」を中核とし、適宜動員されたブルガール人軽騎兵とスラブ人歩兵によって構成された。(Browning 1995:180)ブルガリアの軍事力は、その強い力に比して、補給を現調達に依存するなど、遊牧民的要素を強く持っていた。また、クルムのコンスタンティノープル攻撃に準備された膨大な攻城具などに示されるように、兵器の生産はブルガリアにおける重要な課題であり、これはブルガリアに経済において大きな比率を占めていた。(Browning 1995:150)つまり、ブルガリアの軍事力はビザンツから独立を維持するために、あるいは自国の経済を維持するために、必要不可欠な要素であり、ブルガリアビザンツの間の関係の基調は以上の理由によるのである。

 このブルガリアの経済的な特徴を比較的に考察したのち、中世バルカン半島の交易の様相とそこから明らかになるブルガリアの世界交易システムにおける位置づけをすることを目的とする。

 以前指摘したように、ドナウ・ブルガールの特徴は農牧の二重性にあり、その国家的性質は「征服王朝」と呼ぶべきものであるという点を考慮した際、ブルガリアと比較するべき対象として挙げられるのは、「征服王朝」として本来位置づけられた遼・金・元といった王朝があるが、今回は特にその中でも遼に注目して相互の比較を行うこととする。

 まず、両者の国家体制を比較する。

 島田(2014:50)によれば、遼の官制の特徴として「「国制を以って契丹を治し、漢制を以って漢人に侍す」と、『遼史』百官志の序にあるように北面(契丹人以下の遊牧民に対す)・南面(漢人渤海人などの農耕民に対す)の二元制をとったところに特色がある。しかしその基底には、国家の枢機や軍国の大事は、これを契丹人(北面官)の掌中ににぎり、漢人(南面官)には参与させないという、契丹人による一元主義が基調となっていた」とし、このうち、南面官については基本的には漢人の伝統的な統治体系、すなわち三公六部など唐制にならった形態をとり、建前としては「漢人漢人」を治めるというような制度設計がなされていたが、島田(2014:65) の指摘によると、実態としては重要な決定に関する役職には契丹人がついており、実質的に契丹人による一元的支配がなされていたことが明らかになっている。

 このような農牧双方を本来の方法で一元的に支配するシステムは、一方で中世ブルガリアにおいても存在していた。Browning(1995:170)は「ブルガリアでは一種の二重の行政構造が生じたと思われる。それは一方ではハーンと彼のブルガール人貴族が貢納と保安に係わり、他方ではスラブ人小領主と村長が彼らの同胞の日々の生活を扱うといったものであった」と言及し、これはすなわちアスパルフが現地のスラブ人首長たちとブルガール人が領土の保全と北方のハザールとの戦いを、「スラブ7部族」が西方のアヴァールとの戦いを、スタラ・プラニナに居住するセベレイス族がビザンツとの戦いを担当するという条約を結び、ブルガール人とスラブ人による国家を建設した、というブルガリア成立の事情と密接に連関するものである。

 しかし、ブルガール人とスラブ人の関係は条約関係通りの対等なものではなく、少なくともクルムの時代におよぶまでブルガール人優位であった。つまり、大ブルガリア以来の政治的伝統から中央集権をすでに確立したブルガール人と、部族制社会を構成し一体的なまとまりをもたなかったスラブ人の間の力関係は、クルムのスタラ・プラニナ以南の征服によって、ビザンツ化し中央集権制度のうちに適応していたスラブ人がブルガリアに取り込まれることによって、集権的統治に適応したスラブ人の比重が増し、彼らを政権に組み込むための統一法典に象徴される同化政策、すなわちブルガリア化政策が行われるまでは、ブルガール人の優位にあり、基本的にはスラブ人とブルガール人の複合国家であるブルガリア国家のイニシアチブは遊牧民的なブルガール人が一元的に担っていた。

 これらの点をかんがみるに、統治における農牧二元制と軍事に代表される国家の枢機における遊牧民による一元制の支配という特色において、クルム以前のブルガリアと遼朝において共通する要素がある、ということがいうことができるだろう。

 

 ついで、軍事システムについて比較する。

 遼朝の軍事システムは皇帝直轄の「御帳親軍」と契丹人の部族ごとに編成され有事には主力として動員された「衆部族軍」、各州県の治安維持を基本的には担い、特別の有事には戦列に参加した徴兵された農耕民による「郷兵」からなっており、軍事力の根幹は契丹人以下遊牧民によって構成されていた(島田 2014:67-70)。

 一方で、ブルガリアの軍事システムもまた、ハン直轄の「扶養された者達」と、おそらくは部族ごとに編成されたブルガール人騎兵、そして、有事の際に部族ごとに動員されたスラブ人歩兵からなっていた。

 両者ともに中央集権君主の直轄軍と、遊牧民による主力軍、そして適宜動員される農耕民軍からなる軍隊を編成していた、という点において共通する特徴をもっていたことがわかる。

 また、「文字」という側面についても両者は興味深い共通点を有していることがわかる。

 遼朝は「契丹文字」とよばれる特徴的な文字システムを構築した。島田(1979)によれば、遼朝は、彼らの使用言語であったモンゴル系の言語である契丹語のシステムに合致した突厥文字を参照した「契丹文字」を考案し、使用した。契丹文字はいまだ解読中の段階にあるが、彼らが文字を創作したことについて島田(1979:45)は「契丹族が自らの文字を作製することによって、その思想を表現しようとしたことは、彼らが単なる漢文化の模倣者ではなかった証拠であり、また原字を組み合わせて一見漢字に似たかたちをとったのは、漢文化への対抗意識をあらわす民族的自覚のあらわれといえよう。契丹族による新文字作製の風は、やがて近隣の民族にも大きな影響をおよぼし、タングート族の西夏文字、ジュルチン族に女真文字モンゴル族のバスパ文字、満洲族満洲文字などを出現させる先駆となった点にも大きな意義を認めねばならない」と、南方の文明圏に対する独自性の確保という目的で行われた文字政策についての先駆としての契丹文字に対して大きな評価を与えている。また、岸本(2015:126)は「契丹・金・西夏ともに、自ら皇帝を称したが、これは唐の皇帝が唯一の皇帝として周辺地域と朝貢冊封関係を結んでいた唐代の東アジアの秩序とは大きく異なる。また、契丹・金・西夏はそれぞれ独自の文字をもっていたが、これら周辺諸国の台頭は、文化的自覚とも結びついていた。そのような「自立化」の潮流は、北方や西方のみならず、日本をも含みこむものであった」とし、遼朝を契機とする文明に同化せずに自立した文化を形成する動きが当時の東アジア世界における同時代的状況であることを指摘している。

 一方で、ブルガリアにおいても周知のとおり、スラブ語を表記するための文字として、キリルとメトディの兄弟によって発明されたグラゴール文字と、その後改良されたキリル文字ビザンツ文明に対してブルガリア文化の醸成を促した大きな要素であった。

 このように、隣接文明圏に対して独自文化を確立するための文字政策の重要性は、中国においては「征服王朝」とよばれた(元朝は例外的ではあるが)王朝にとって無視できないものであった。グラゴール文字・キリル文字の発明とブルガリア独立正教会の成立は、これと同様の課題がブルガリアにも存在したことを示しているのである。そして、グラゴール文字・キリル文字がルーシに伝播し、スラブ文化圏の成立の契機となったことを合わせれば、ブルガリアの文字政策とその同時代的な役割は遼朝のそれと近しい性質をもっていると考えることができる。

 それでは、最後にブルガリアにおけるブルガリアとの、遼朝における北宋との関係について、貢納という点から考察することとする。

 北宋から遼朝への貢納の契機が1004年の澶淵の盟にあったことは、周知の事実であろう。1004年に内紛をおさめ宋への征服戦争を決意した遼の聖宗は20万を号する大軍を率い、宋軍の守る諸都市を攻囲しつつ南下し、澶州にいたった。一方、宋の真宗もまた江南あるいは成都への遷都論を排し、禁軍を率い澶州への親征を決意し、両軍は澶州において対峙することとなった。真宗は遼軍によって主力が敗れることをおそれ、聖宗もまた未だ陥落しない宋軍の支配下にある都市からの反撃をおそれ、両軍は和平交渉を行い、以下の条件で妥結した。

 

1)宋は軍費として遼に毎歳絹二十万匹、銀十万両を贈遺する。ただし、上記の歳幣は雄州まで送致する。

2)(前略)両国は兄弟の誼をもって交わる。聖宗は真宗に兄事し、互いに南北とする。

3)両国の国境は従前のままに瓦橋関(雄州)を境とし、関南の地は宋の有とする。(後略)

4)両国の俘虜は相互に送還する。

(田村1964:183)

 

 この和平条約、澶淵の盟をもって、両国の関係は確定し、歳幣の額をめぐった紛争は幾度と無く発生したものの、戦争状態に入ることはなく、両国の関係は遼の滅亡まで概ね平穏な状態を継続した。この歳幣は遼朝における北面の遊牧民の各部の結合の維持の資として用いられた。半ば機械的に部族に分けられた遊牧民集団は従来の氏族集団の結合と比べれば強固な結合であるといえたが、一方で遼朝皇帝、すなわち遊牧民からみたイェケ・キタイ・オルン(大契丹国)をヤリュート氏の権力下で維持するためには常にハンとしての恩恵を部族に施さなければならず、宋からの莫大な歳幣はこの遊牧民システムの安定的な維持へとつながった。この「澶淵システム」(杉山2005)によって、宋と遼の関係は世界史上類をみないほど安定した。

 これを踏まえて、ブルガリアビザンツ関係をみると、「澶淵システム」のような安定した構造を両国の間に与えることはできない。しかし、アスパルフからテレヴェルの時代、あるいはボリス一世の時代に示される通り、ブルガリアビザンツの間に歳幣関係が存在する時期もあり、両国の戦争の理由も大方ブルガリアビザンツに歳幣の支払いを促すものであり、歳幣というものが大きな意味を両国関係に与えていたことが分かる。遼朝のように国家維持のためにブルガリアにおいて歳幣が用いられたことを示す直接的証拠は管見の限り存在しないが、テュルク系遊牧民の統治システムを応用していたブルガリアにおいて、テュルク系のみならず、おそらくフィン系なども含む雑多な出自をもつ「ブルガール族」を維持するためのシステムとして、歳幣システムは重要な意味をもっていたと考えることができる。

 以上の、ブルガリアと遼朝について、政治機構、軍事制度、文化、対南関係における比較から、両者の性質が近しいものをもっていることがわかる。すなわちこれは、遼朝とブルガリアとの双方が基盤として遊牧民の文化をもっていたこと、双方が国内に少なくない定住民を含んでいたこと、隣接した経済的に優越した国家をもっていたことによるものであり、これらの点において中央ユーラシア世界の東西をみたとき、杉山(2005)が指摘するように安禄山勢力が中央ユーラシア周縁国家、すなわち従来の征服王朝の先駆であるとのべたように、ブルガリアもまた中央ユーラシアと農耕世界の双方にまたがる中央ユーラシア周縁国家であった、といえるのではないだろうか。

 

参考文献

宮崎正勝(1994)『イスラーム・ネットワーク』講談社

杉山正明(2005)『疾駆する草原の征服者 遼西夏金元』講談社

Robert Browning 著 金原保夫 訳(1995)『ビザンツ帝国ブルガリア東海大学出版会

島田正郎(2014)『契丹国――遊牧の民キタイの王朝』東方書店

島田正郎(1952)『遼代社会史研究』三輪書房

島田正郎(1979)『遼朝史の研究』創文社

田村実造(1964)『中国征服王朝の研究(上)』東洋史研究会

「最初?」の征服王朝ブルガールの興亡

0. 目次 

  1.  はじめに

2. 中世ブルガリア史の概観

2-1. ドナウ・ブルガール・ハン国成立までの経緯

2-2. 建国後のドナウ・ブルガール・ハン国の発展とクルムの登場

2-3.  ブルガリアの改宗とその絶頂期

2-4.  ブルガリアの内憂外患と衰退

2-5.  ブルガール人王朝の断絶

2-6.  「ビザンツの周縁化」と旧ブルガリア領における独立運動

2-7. 小結

3.  「征服王朝」とブルガリア

附 中世ブルガリア歴代君主一覧

参考文献一覧

 

 

1. はじめに

まず、ブルガリアが存在する地理的空間に関して考察する。

 ブルガリアの歴史に大きな影響を与えた地理的条件として、ブルガリアの東西を横断するスタラ・プラニナ(バルカン山脈)と現代のルーマニア国境をなすドナウ川がある。(図1参照)             ドナウ川あるいはスタラ・プラニナ以北はフン族アヴァール族タタール族などが割拠した遊牧民族の世界である。この遊牧世界はステップを中心として、東はハンガリーから西はマンチュリアまでひろがり、定住する農耕民族と比べて高い文化的共通性をもっていた。

 一方で、スタラ・プラニナ以南は現代のマケドニアまで広がる穀倉地帯を抱え、さらに黒海からエーゲ海にかけて地中海世界が広がっている。スタラ・プラニナ以南はキリスト教を文化的な共通の基礎においた、コンスタンティノープルの影響下にある文化的世界も構成していた。

 このような北方の遊牧世界、南方の農耕世界の中間に位置するという地理的な特徴がブルガリアの歴史に対して大きな影響を与えたのである。

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(図1 ブルガリアの地理)

 ついで、日本において通説的なブルガリア通史における時代区分をみる。

 ブルガリアの歴史を区分するにあたって、先史時代からブルガールの侵入、ブルガールの侵入からオスマン帝国による占領、オスマン帝国時代からブルガリア独立、ブルガリア独立から現代という、4つの時代区分を設ける方法は、ブルガリア国定教科書(ディミトロフ 1985)の唯物史観を強く反映した通史にも、クランプトン(2004)、金原(1998)の叙述にも共通している。

 本稿は、この4つの時代区分のうち2つ目、ブルガールの侵入からオスマン帝国による占領までの、いわゆる中世ブルガリアにおけるブルガリア人国家の成立の背景、特に大ブルガールの出現から第一次ブルガリア帝国までに焦点をあてて、その歴史をディミトロフ(1985)、クランプトン(2004)、金原(1998)、ブラウニング(1995)を底本として適宜参照しつつ叙述する。

 

2. 中世ブルガリア史の概観

 

2-1. ドナウ・ブルガール・ハン国成立までの経緯

 

 ブルガールの起源については論争がある。少なくとも、6世紀半ばに指導者クプラトのもとに南ロシア平原に大勢力を築き上げた大ブルガリアまではさかのぼることはできるが、それ以前のブルガール族の起源については不明な点が多い。以下、金原(1983)に沿って、ブルガール族の起源について考察する。

 まず、実証的な研究が開始された19世紀の段階において、ブルガールの起源として有力な説となったのは、フン=ブルガール説であった。デチェフによる「ブルガリア民族名の東グルマン起源」(1926)では、ブルガールの語源を印欧語で「戦う、膨張する」などを意味する”balg”に比定し、「人」を表す”-ari”という接尾辞をあわせて「好戦的な人」という意味にあるとし、これはフン族を示す呼び名である。また『ブルガール汗名録』にみられるアヴィットホルはアッチラに比定され、イルニクはエルナップに比定されると、フンとブルガールが同一民族であることを主張する。

 しかし、その後の言語学的な研究によってフン=ブルガール説は否定された。ミヤテフの「チュルク・ブルガールとチュバシュ」(1938)によれば、ブルガール語においては、子音zがrにかわるという転換がある。しかし、フン語には「デンギジィップ(Dengizich)」という人名からわかるとおり、この転換が見えない。現在この転換がみられるのは西シベリアにすむチュバシ人だけであり、彼らはヴォルガ・ブルガール族の後裔である。ブルガール自体の起源はフンとは関係はなく、オノグール・ブルガールあるいはオノグントゥール・ブルガールとブルガールのことを示す史料が明らかにするとおり、イルティシ川沿いの地域に居住したオグール族(中国では丁令)がブルガールの起源であると比定されると主張した。

 また、ブルガリア史における大著を残したブルモフの「ブルガールの起源に関する問題について」「ブルガールの歴史の諸問題」(1948)では、ブルガールに関する記録はフン族がヨーロッパに侵入する354年のローマ年代記にすでに記録されており、さらに5世紀から7世紀にかけての年代記作者もブルガールとフンを別個の種族として認識している。また、北方の異民族をフンと総称することは当時のローマ世界では往々にしてよくあることだった。また、アッチラとアヴィットホルの類似も他の確固たる証拠がなければならない。ブルガール語とフン語の差異から両者に直接の関係はなく、同族とはいいがたい。また、従来ブルガールが分かれて出でた部族とされたクトリグール・ウティグールについても、6世紀のビザンツ政治家プロコピオスの記述によると両者はブルガールが南ロシア草原にクトリグール・ウティグールはそれぞれアラル海の東西にいる部族とされ、フンの影響下を離れたブルガールが今度は5世紀後半に強大になったクトリグールに支配されたという事実がこれを誤認させたものである。さらに、354年のローマ年代記にブルガールは北コーカサスに住む民族として「生じた」としており、オグール族あるいはフン族以前からブルガール人は北コーカサスに住んでいた民族、すなわちサルマート人の後裔であると主張した。

 近年ではサルマート=ブルガール説はサルマート語とブルガール語の言語的な連続性からみて、否定的な見解が多く、また、354年の年代記に関してもその記述の信頼性に疑問がもたれ、4世紀前半のランゴバルト王国の記録からブルガールはフン帝国に服属する諸遊牧民族の一つであったことが示されているが、この記述も後世の竄入ではないか、という批判が存在する。クトリグール・ウティグール族同族論に関しては、クトリグール=コトラーグ同一説が根強く、いまだ論争が確定していない。ただし、”-gur” とつく民族はブルガール出現の一世紀後ほどに出現しており、ブルガールと同族関係にあるとされるクピ、ドゥチ、チダル、オルホントル、オノグントゥールと並列して述べられているため、これを否定するブルモフの説にたいして同族である主張する学者も多い。しかしながら、古代から中世にかけてのブルガールの歴史については史料的制約が大きく、現代まで議論を進めることが困難な状況が続いている。

 一方で、考古学的成果によれば、ブルガール人と同様の墓制がイルティシ川近辺にも見られ、これを踏まえたとき、ミヤテフの主張の傍証となり、ブルガール=オグール説を検証する余地が生まれる。

 

 そこで、同時代のオグールすなわちテュルク系遊牧民に関する中国側の史書をみてみると、康居の支配下にある阿蘭(アラン)と近接した地域に住む部族として、隋書「鉄勒伝」に以下の記述がある。

 

拂菻東則有恩屈、阿蘭、北褥、九離 、伏嗢昏等,近二萬人

(東ローマの東にはオグール、アラン、ペチュネグ、キル、ブルガールなど二万人ほど)

『隋書』「鉄勒伝」

 

  鉄勒は突厥集団に属さなかったテュルク人の総称と呼ぶべきものであり、北史における「高車」、魏書における「丁令」と同様の存在である。

 ここにあげられるブルガールがどこに居住していたかは不明であるが、ここからわかることとして、オグール族とブルガール族が別の民族として記述されていることである。また、北史「高車」伝にはイルティシ川沿いの草原にすむ高車の部族のうちに、ブルガールの王族ドゥロ氏と比定される「吐盧氏」が見いだされる。

 

高車之族又有十二姓:一曰泣伏利氏,二曰吐盧氏,三曰乙旃氏,四曰大連氏,五曰窟賀氏,六曰達薄氏,七曰阿侖氏,八曰莫允氏,九曰俟分氏,十曰副伏羅氏,十一曰乞袁氏,十二曰右叔沛氏。

『北史』「高車伝」

 

以上の中国側史料から、オグールとブルガールは別の種族と認識されていたこと。オグールとブルガールを包括する鉄勒の前身である高車においてブルガールの王族である「ドゥロ氏」と同様であろうと推測される「吐盧氏」がみられる、ということが明らかになった。ここから、ブルガールのアイデンティティの起源、すなわち実際の生物的な形質ではなく文化的帰属意識の中核として丁令、高車、鉄勒とよばれるテュルク系集団にもとめられると私は考える。

ブルガールは故地であるイルティシ川より西進し、南ロシア草原にうつり、一時はアヴァール支配下にはいったが、クプラトの時、周囲の遊牧民を糾合し草原の支配権を得た。イスラーム・ネットワーク成立以前より、南ロシア草原はシルクロード・ネットワークと接続できる適地であり、アヴァールやブルガール、ハザール、ペチュネグなどの諸遊牧民族が抗争を繰り広げた。

クプラトのたてた大ブルガリアはクプラト死後、5人の息子たちによって分割され、クプラトの遺訓にそむいて西進するハザールの圧力を前に離散、あるいはハザールに併合された。(坂井2016)この離散した息子のうち、アスパルフは南下し、ドナウ川とスタラ・プラニナの間に勢力をはり、681年に現在のブルガリアと連続関係にあるドナウ・ブルガール・ハン国を建国した。一方で、コトラーグに従った集団はハザールの圧力をうけながら、9世紀の初頭までにヴォルガ川とカマ川が合流する流域に新たな拠点を築き、この拠点を中心に10世紀初めまでにヴォルガ・ブルガール王国が建国された。(家島2009:14-15)

これらの大ブルガリア継承国家の間には相互に生活習慣などといった面で連続性があった。また、原初年代記においてもドナウ・ブルガールとヴォルガ・ブルガールの双方を「ボルガル」と記述しており、両者が同一の集団(大ブルガリア)を淵源とする集団であったと認識されていたことがわかる。

 6世紀までのブルガリアをはじめとするバルカン半島内陸部に居住していたトラキア人は、前5世紀に独自の王国であるオドリュサイ王国を建国した。彼らは独自の黄金文化をもっていたが、ギリシア人との活発な交流の結果、ギリシア風の都市を形成するようになるなど次第にギリシア化していった。オドリュサイ王国はマケドニアフィリッポス2世によって弱体化させられ、アレクサンドロスによって滅亡させられた。トラキアはその後、ローマ人の支配下に入り、その元で急速な農業と手工業の発展をみることとなった(前掲書)。また、交通網の整備の結果、幹線道路の結節点となった現代のソフィアであるセルディカなど都市もまた発達した。

 ローマ帝国が東西に分裂した4世紀以降、トラキアにおける経済発展の背景となった大土地所有が崩壊し、自由な共同体農民層が急速に復活し、経済的な構造が一変していった。この転換の結果、トラキアの経済力は比較的温存され、コンスタンティノープルを中心としたビザンツはこの経済力を背景として繁栄を続けることとなった。

 しかしながら、民族移動による異民族のトラキアへの侵入は激しいものとなっていき、ビザンツの努力にもかかわらず、スタラ・プラニナ以北においては異民族が多数を占めるようになり、従来のトラキア人農民はスタラ・プラニナ以南に存続した。この状況はビザンツの支配のもとしばらく続いたものの、6世紀に入ると、スラヴ人の侵入が激しいものとなっていき、7世紀前半にビザンツがペルシアとの戦いを激化させるなかで、バルカン半島は短期間のうちにスラヴ化した。スラヴ人達はアヴァールあるいはビザンツ帝国との抗争の中でプロト国家的な部族・軍事共同体を形成した。

 以上がブルガール侵入までのブルガリアの状況のあらましである。

 ついでブルガール侵入までの歴史を概観する。

このブルガール人の起源については、具体的にそれを記した同時代史料がなく、文化的類似などで示すしかないが、ブルガールのテングリ信仰や暦法、故地などの情報から、彼らの起源はある程度中国と交渉を持ちえたところにあったと想像される。4世紀から5世紀にかけての当時のイルティシ川沿いに勢力を持っていた高車(あるいは丁零のちの鉄勒、オノグルの一派とも)はトゥルク系遊牧民であり、中国魏晋南北朝時代の史書『北史』の高車伝にも記述がある。同伝には、高車は中国に似た呪術を行っているという記述や太和11年に北魏朝貢した記録があり、高車と中国の間になにがしかの文化的関係があったことがわかる。『北史』によると高車には12の有力氏族があった。そのうちに列挙されている「吐盧」氏の反切から見た古音はtǔ-lōであり、tとdは有声無声の差異しかもたず、後述のブルガールの有力氏族「ドゥロ」とほぼ同音と比定しうる。以上から見て、ブルガール人が西進し、諸部族を統合する中核となった人々は高車の部族の一員であったと推定しうる。そして、ブルガール結合の中心となったハンを排出したドゥロ氏は高車の氏族である「吐盧」氏と比定しうるものである。

 

 現代のキルギスあるいは新疆にあたるジュンガリアを故地とする突厥は、当時彼らを支配していた柔然から独立し、6世紀なかごろムカン・カガンの時代に柔然を打ち破り、東は渤海から西はアラル海にいたる第一突厥可汗国の最大版図を確立した。突厥に破られた柔然は西へ逃亡し、アヴァールとしてヨーロッパに現れる。アヴァールは優れた統治組織をもち、ハガン(可汗)配下の強力な軍事力とそれと結合したスラヴ人の生産力を背景として9世紀まで繁栄した。

 西進したアヴァールによって、それまでは西突厥勢力下にあったブルガールは支配されブルガール人は離散したが、ドゥロ氏の指導者クブラトのもとに、離散したブルガール人をはじめとする突厥に追われて東ヨーロッパに移動したトゥルク系遊牧民を統合し、大部族連合としての大ブルガリアを形成した。アヴァールとサーサーン朝との勢力均衡のためビザンツ帝国はこの大ブルガリアと同盟を結んだ。しかし、クブラト死後、属人的権力構造をもっていた大ブルガリアは5人の王子に分割された。

 アヴァールは大ブルガリアの成立によって、現在のハンガリーのあたりまで更に西進し、フランク王国と境を接するようになる。582年に東西分裂した西突厥の内紛によって独立し移動してきた突厥可薩部、すなわちハザールの圧迫の結果、クブラト死後、7世紀後半に大ブルガリアはハザールに隷属しハザールとやがて同化していった黒ブルガリアコトラーグによって率いられ東進しヴォルガ川流域に進出したヴァルガ・ブルガール、アスパルフによって率いられ西進しドナウ川流域に進出したドナウ・ブルガール、アヴァールに西進した後、マケドニアに進出し早期にスラヴ人と同化したクベル率いるブルガールに分裂した。

 このうち、コトラーグによって率いられたヴォルガ・ブルガールは9世紀後半から10世紀にヴォルガ川とカマ川の合流域に拠点を築き、ヴォルガ・ブルガール王国を建国した。ヴォルガ・ブルガール王国はハザールに貢納を続けていたが、10世紀の国王アルムシュによるイスラーム改宗政策によってアッバース朝と結びつきを強め、一時はイスラームに改宗したものの当時はユダヤ教を信奉していたハザールから独立した。アッバース朝と結びついたヴォルガ・ブルガール王国は河川交通による交易活動と中央ユーラシア世界のイスラーム化に大きな役割を果たした。この王国は13世紀に入り、ルーシ諸国の圧迫をうけつつもモンゴルの征服を受けるまで繁栄をつづけたのである。この王国に関する記録は、アッバース朝の第十八代カリフ=ムクタディルの使者とし王国を訪れたイブン・ファラドラーンの残した『ヴォルガ・ブルガール旅行記』(訳注 家島 2009)、正確には『報告書』が残っている。彼がみたヴォルガ・ブルガールは典型的な当時の遊牧民としての生活形態をもっていることを伝えている。

 一方、アスパルフによって率いられたドナウ・ブルガールは現在のドナウ川河口域に移動した。その数は諸説あるが、藤(1978)はドナウ川を渡ったブルガールは通説的にはおよそ1万程度であろうと推測し、さらに人数を多く見積もるその他の説(ロマンスカ説)によっても3万〜5万であるとされている。ドナウ・ブルガールは遊牧生活を行いつつ、周辺の農耕民と交易を行い生計をたてていたが、やがて定住するものも現れた。このドナウ・ブルガールの政治集団はオルホントゥール=ブルガール国とされる。ブルガール人の宗教はトゥルク系に共通するタングラ(テングリ、天)信仰やトーテム信仰が混交したものであり、可汗が最高の神官を兼ねるものであった。また、ブルガール人の暦は中国のそれであり、十二支を用いた。

 以上が、ブルガールがドナウ川河口域、現在のブルガリアルーマニアの地域に移動するまでの概略である。

 

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(図2 ブルガールの移動)

 

 ブルガリアの建国はディミトロフ(1985)によると681年、クランプトン(2004)によると

680年のことであり、679年説、680年説、681年説が並立しており一致するところ見ないが、現代のブルガリアにおける通説としては681年説が取られている(藤1978)。7世紀後半、オルホントゥール=ブルガール国のハン、アスパルフはビザンツ帝国の領土をたびたび略奪し、678年にはコンスタンティノープルまで到達した。これらの散発的侵入、攻撃は一種の威力偵察であり本格的なドナウ川渡河は679年のことである。この時、ドナウ川南岸のブルガールと現地のスラヴ人が盟約を結んだ。ブルガールの南下に対して680年にビザンツ帝国のコンスタンティノス4世はハザールと連合してブルガールとスラヴ人を攻撃したが、ブルガール人の持久戦術の前に撤退を余儀なくされ、撤退際にビザンツ軍は大損害をうけた。結果、ブルガール人はドナウ川と渡り、現在のヴァルナにあたるオデッソスを占領し、拠点をプリスカにおいた。プリスカにはハンのための宮殿などの公共建築が作られ、その城壁の内にはドナウ川を渡ったすべてのブルガールを収容出来る規模をもっていた。681年にはビザンツ帝国はブルガールと平和条約を結び、国際的にこの「ブルガール=スラヴ連合国家」が承認された。この戦いと並行して、アスパルフは現地のスラヴ人首長たちとブルガール人が領土の保全と北方のハザールとの戦いを、「スラヴ7部族」が西方のアヴァールとの戦いを、スタラ・プラニナに居住するセベレイス族がビザンツとの戦いを担当するという条約を結び、ブルガール人とスラヴ人による国家を建設した。この国家は首都をプリスカとし、ブルガール人の主導による中央政権とスラヴ人首長による部族自治が並立する体制をとった。

 ドナウ・ブルガールの君主号については金原(1997)が当時のギリシア文字碑文をもとにこれを明らかにしたが、当研究によると建国後のブルガリアは内的にはトゥルク系に普遍的に用いられるqaγan(可汗)が変形したハン号が用いられており、対外的にはローマ式の王号「アルコン」を用いていた。このハン号の使用例はボリス一世以降においては見られない。そこで、ボリスの改宗以前のブルガリアと以降のブルガリアを分けて、前者を金原(1998)にならってドナウ・ブルガール・ハン国とし、後者を第一次ブルガリア帝国、とする。従来の通史では、アスパルフ以降のブルガリアの国号には統一した訳語が定められておらず、先述の両者を併せてブルガリアとするディミトロフ(1985)の記述ではドナウ・ブルガール・ハン国と現在のブルガリアとの差異を明確にしているとは言いがたく、ドナウ・ブルガール・可汗国とする記述もまた、可汗のブルガールにおける正確な音写であるハン号を用いる方がより正確であるため、本稿ではアスパルフとその後継者によって率いられた政治集団をドナウ・ブルガール・ハン国とする。そして、現在のブルガリアとの連続体の上にあるという意味合いで、ドナウ・ブルガール・ハン国以降の現代のブルガリアに連なる国家群を「ブルガリア国家」とする。

 

 

2-2. 建国後のドナウ・ブルガール・ハン国の発展とクルムの登場

 

 681年の和議の結果、ビザンツはブルガールに貢納をすることが義務付けられた。この和議は688年に破られるが、アスパルフは再びビザンツ軍を破った。アスパルフの軍事力はスラヴ人アヴァールあるいはビザンツ、すなわちギリシアやフランク、すなわちラテン・ゲルマンから保護するために大きな役割を果たした。

 701年(あるいは700年)にアスパルフがハザール軍の前に戦死し、その後を継いだテルベルは705年に失脚していたビザンツ皇帝ユスティアノス2世を支援し、復位を果たさせた。この結果、ザゴリア地方を支配下におき、ブルガールのスタラ・プラニナ以南への勢力伸長の基礎を築くことに成功した。717年から718年に及ぶアラブ人の侵入に対しても、ブルガリアはこれを打ち破り、コンスタンティノープルを包囲から救い軍事力を示した。

 8世紀中葉にブルガールの王権はアスパルフの血統にあたるドゥロ家からヴァキル家に移った。この政権の移り変わりにあたる内紛に乗じて、ビザンツ軍はブルガリアに数度にわたって侵攻したが、その試みは失敗に終わり、768年にテレリグがハンになると、ブルガリア内の親ビザンツ派を粛清し、ビザンツ帝国に対して攻勢にでた。テレリグは敵対派貴族によってビザンツへの亡命を余儀なくされたが、777年にテレリグを継いだカルダムは789年にビザンツ軍を壊滅させ、マルケライ要塞の会戦においてコンスタンティノス6世の軍隊を破り、791年には条約によってビザンツはブルガールへの貢納を再開することになった。

 803年にハンになったクルム(803-814)はアヴァール崩壊後、ブルガールの西方進出を図り、それに乗じてブルガール自体を西遷さえようと807年に攻撃を仕掛けたビザンツに対して反ビザンツ的なスラヴ人と連携し撃退、さらには交通の要衝で現在のソフィアであるセルディカを支配下にいれた(809年)。さらに報復として、811年にプリスカを略奪したビザンツ軍をスタラ・プラニナ山中において壊滅させ、当時の皇帝ニケフォロス1世を戦死させた。その後、クルムは716年に結ばれた条約の復活を求めたが交渉は決裂し、ブルガール軍は広範囲にわたってアドリアノープルをはじめとするビザンツ領を占領し、813年のベルシンキアの会戦においてビザンツ軍を破ると、コンスタンティノープルに迫り、城下の盟を誓わせようとしたがビザンツ側はこれを拒否し、クルムの暗殺をはかったがこれに失敗した、814年、コンスタンティノープル攻城戦の準備の最中にクルムは病死することとなる。このクルムを継いだオムルタグ(814-831)はビザンツへの攻勢を放棄し、30年間の期限付き和平条約を815年にビザンツと結んだ。オムルタグは和平条約を背景にフランク王国カール大帝の子供ピンによってアヴァールが崩壊し空白地帯となった西方への勢力伸張を目論見、フランクの支援をうける離反したスラヴ部族を攻撃し、現在のルーマニアにあたるトランシルバニアを手中におさめ、さらハザールを打ち破り、ドニエプル川まで支配下にいれた。オムルタグの死後、息子マラミル(831-836)が跡をつぎ、マラミルの死後、兄の息子、プレシアン (836-852)が後継となり、和平条約を破って侵入したビザンツ軍を打ち破り、バルカン半島南部、南西地方のスラヴ人を併合した。この結果、ブルガールはビザンツ、フランクに次ぐ、第三の軍事・政治勢力となった。

 このブルガールの膨張の背景には、ブルガールにおけるスラヴ人の割合がスタラ・プラニナ以南進出によって急増したことがある。この結果、スラヴ人の発言力が増大し、クルムはスラヴ人を国家の上部行政機関に加え、従来の個別の慣習法による法体系から、新しく統一された成文法を施行し、ブルガール人のスラヴ化がすすみブルガリア民族が次第に形成された。このスラヴ化の結果、ブルガールの国策としてスラヴ民族の統一が志向されるようになり、これが9世紀におけるブルガールの膨張の要因となった。しかしながら、ブルガールの遊牧民族的伝統は宗教や慣習において未だ強く残り、有力首長による合議による相続には遊牧民的な要素が残存していた。このような遊牧民的要素もプリスカ周辺へのブルガール人の定住などを経て次第に失われ、スラヴ民族との混交を推し進めたクルム以後、急速に消滅していった。ここにおいて、クルム以前と以後のブルガリアはその国家としての性質を変え、クルム以前の遊牧民族的要素の色濃い国家から、クルム以後ヨーロッパ的な初期封建国家へと姿を変えていったのである。(金原 1997)クルム以後、強力に推し進められた民族的な混交は、藤(1978)によればボリスによるキリスト教改宗、キリルとメトディによるスラヴ文字の発明によってより一層加速的に進み、最終的に10世紀初頭に完了したとする。

 

2-3. ブルガリアの改宗とその絶頂期

 

 852年にプレシアンの後継となったボリス一世は、856年にビザンツ帝国に占領地を承認させた。この南部国境の安定化に対して、北西部国境はアヴァール東フランク王国との抗争にさらされ続けていた。この状況にあってハンを頂点とする中央政権を担うブルガールとそのもとで自治を行うスラヴ人によるブルガールの政治体制は、スラヴ人の増加によって限界を迎えつつあった。そのため、クルム以降のハンはブルガールとスラヴの融和を推進し、スラヴ民族の力を加えて自らの国を維持しようと図った。クルム以降の異なる宗教をもつブルガールとスラヴの融和を促進が図られたブルガールを支配するイデオロギーとして、従来の遊牧民族的なそれは適したものではなくなった。862年にアラブ人あるいはアヴァールの侵略から国力を回復させたビザンツとの戦争における敗北と864年の「深い和平」はブルガールがすでに国内で一定の勢力をもっていたキリスト教を公式に導入する契機となり、ブルガールの一斉改宗が行われた。この改宗に対しては国内において強烈な反発を招いたが、ボリス一世は強硬な手段をもってこれを鎮圧した。この改宗をもってドナウ・ブルガール・ハン国は第一次ブルガリア帝国へと移行した。ボリス一世は従来のハン国において宗教をハンが独占していたように、皇帝がブルガリアにおけるキリスト教を独占することを目指して、より有利な条件を得るためにローマ教会に使者を送った。しかし、ローマ教会にはブルガリアに独立を与える気はなく、結局のところローマとビザンツの関係の緊張に伴うビザンツ側の態度の軟化により、870年の公会議においてコンスタンティノープル総主教の主権のもとで、ブルガリアは独立大主教座として分離させる、ということでこの問題は決着した。このブルガリアの集団改宗はブルガリア民族の統一に大きな役割を果たしたが、ボリス一世がローマへ派遣した使者の携えた106条におよぶ質問状のうちにみられるブルガリアの伝統的な食事作法には、イブン・ファラドラーンが見聞したヴォルガ・ブルガールと共通する遊牧民的伝統が生きており、この時期のブルガール人がスラヴ人と同化しつつあったとはいえど、ある程度の伝統を有している過渡期であったことがわかる。

 改宗以後、優れた外交家でもあったボリス一世の元でブルガリアビザンツは平和的な協力体制を築き、コンスタンティノープルの職人や聖職者たちがブルガリア内にそれぞれの目的のために入っていった。その結果として、ブルガリアの文化的地位のコンスタンティノープルに対する低位が浮き彫りになってきたため、ボリス一世は独自のスラヴ語典礼を積極的に取り入れた。このスラヴ語典礼導入もまた宗教を政権がコントロールするための手段の一つであった。

 889年に老齢となったボリス一世はウラディミルに譲位した。ウラディミルは反ボリス派の廷臣と結託し、旧来の宗教へ復帰しようとするなど反動政策を行った。これに対して修道院に入っていたボリス一世は旧近衛部隊を率いてウラディミルを退位させ、ブルガール人スラヴ人による貴族会議の同意のもとにシメオンを即位させた。さらにこの貴族会議によってボリス一世は首都を旧来の宗教の色が濃いプリスカから、プレスラフに遷都を決定した。シメオンはボリス一世の政策を基本的には踏襲したものの、ブルガリアビザンツの協調政策を放棄した。シメオンはビザンツブルガリア商人に与えた不利益を理由としてビザンツに対して開戦した。開戦後、マケドニアに派遣されたビザンツ軍はブルガリア軍に敗北し、しかしこれに対してもビザンツ皇帝レオン六世は東方にあった主力軍を西方に移動させず、手元の兵力で南から、北方からマジャールに攻撃させた。この南北の攻撃に対してシメオンはあえて最初はマジャール軍に抵抗せず、南から侵攻するビザンツに対して和平を求めて、ビザンツ軍を一時的に撤退させた。この間にブルガリア軍とこれと連合したトゥルク系のペチュネグ軍とともにマジャールを攻撃し、ハンガリー平原に彼らを追いやった。そして、シメオンはビザンツとの交渉によってブルガリア人捕虜を奪還すると、交渉を中断した。ついにレオン六世は主力軍を東へ送ったが、シメオンはその軍をブルガロフュゴンにおいて迎え撃ち、これを破った。この勝利ブルガリアの国土を荒廃させたものの、ビザンツからの貢納と有利な国境画定を定めた講和が896年に結ばれた。この講和は912年まで有効であったが、レオン六世の死後、ビザンツの強硬派がブルガリアへの貢納を停止したため、ブルガリア軍はコンスタンティノープルに進軍し、城壁の前に野営した。これを恐れたビザンツは貢納を支払い、コンスタンティノープル主教をしてシメオンを「皇帝」として宣言させた。さらにシメオンは幼い皇帝に自らの娘を嫁がせて、自らの血統がローマの皇帝となることを願った。しかしながら、シメオンは軍事的勝利を示しておきながら、政争に敗れてついてローマの皇帝になるという機会を逸した。ブルガリア軍はビザンツを攻撃したものの、海軍力を持たないブルガリアコンスタンティノープルを落とすことはついにかなわず地方都市を落とすばかりであった。その内にビザンツセルビアマジャール、ロシアなどブルガリア周辺国と外交関係をもち、ブルガリア軍はしばしば多方面への遠征を余儀なくされた。また、ブルガリアイスラーム教徒であるファーティマ朝のカリフと交渉をもち、彼の海軍力を借りようとしたが、その経済力にものをいわせたビザンツの外交の前に破れ、その試みは924年に失敗した。シメオンは「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を名乗り、そのために常にビザンツから外交上の抗議を受け続けた。シメオンはビザンツセルビアとの戦争には勝利したものの、マジャール人によって後背地たるトランシルバニアを奪われ、926年にはクロアチアに大敗北を喫した。そしてついに927年、シメオンはビザンツへの戦争を準備する最中にプレスラフにおいて死去した。シメオンの治世においてブルガリアではスラヴ・キリスト教の中心地として文化を著しく発展させ、現代のバルカン半島をほぼ統一するほどの著しい「ブルガリア人とローマ人の皇帝」の名にふさわしい軍事的な成功があったものの、一方において経済的な面ではブルガリアはその絶頂期に到達し、後退局面に入っていたのである。

 

2-4. ブルガリアの内憂外患と衰退

 シメオンの跡を継いだのは、シメオンの長子ミハイルではなく、次子ペータル(927-969)であった。ペータルの治世に入った直後にビザンツと30年間の和平条約を結び、シメオン時代のブルガリアの対ビザンツ政策を一挙に転換させた。ビザンツとの国境を904年の時点に戻し、その代償として、ブルガリアに年貢を納める義務を負うものであった。この和平条約において、ビザンツブルガリアの支配者は皇帝(ツァール)の称号を認められ、ブルガリア教会の独立も承認した。

 この方針転換はブルガリア人貴族の反発を招き、シメオンの長子ミハイルによる反乱など貴族反乱が多発した。この反乱はすべてペータルによって鎮圧されたが、その鎮圧のさなかに発生したセルビア人の蜂起には対応することができずに、セルビア人は独立を回復することに成功した。

 また、934年には北西からはハンガリー人が、北東からはキエフ=ルーシのイーゴリ一世とペチュネグ人が、ブルガリアの国内に侵入した。ルーシは海軍力をもっていたため海軍を持たないブルガリアは苦境に立たされたが、「火を備えた船にのって彼らを迎え、筒で火をルシの船に放ち始め、恐ろしい奇跡が見られた」(國本 1988 )とルーシの年代記が語るようにビザンツ軍はその秘密兵器である「ギリシアの火」を用いて、ルーシ海軍をまたたくまに破った。その後もハンガリー人の侵入が相次ぎ、ブルガリアの国土は荒廃した。

 以上のような内乱の多発、外敵の侵入という状況に加えて、ブルガリアの民衆は、ボリス一世の改宗以降、ビザンツの社会制度を導入したことに伴い、賦役と現物税の増加に見舞われた。そして、貴族層もブルガール人の質実剛健な伝統を放棄し、ビザンツの文化を導入した結果として奢侈に走るようになっていった。この状況において、社会的な負担の増加への不満は公権力、ひいては公式な教会へと向けられ、民衆の間にボコミール派の勢力が広がっていった。ボコミール派は物質をすべて悪とみなし、華美を排し、平等を重んじ、皇帝権力に対しても非協力的な態度をとった。その国家権力において危険な教義のためにボコミール派はたびたび皇帝によって弾圧された。

 この内乱の多発、外敵の侵入、ボコミール派の隆盛、この3つの苦難のために、ペータルの治世はブルガリアの衰退期であるとされる。シメオンの時代に膨張した帝国は様々な面において、その限界を表しつつあったのである。しかし、ペータルの対ビザンツの平和政策はブルガリアが内憂外患を抱えているにもかかわらず、帝国をある程度維持することに成功していたのである。

 しかし、この対ビザンツ平和政策が崩壊すると状況は一変した。966年、ビザンツは国内の情勢を整え、アラブの危機を乗り越えると、ブルガリアに対する貢納を停止した。これに対してブルガリアビザンツに侵攻しようとしたが、この試みは失敗した。ビザンツは、ブルガリアの行動に対し、ハザールに大打撃を与え隆盛を誇っていたキエフ=ルーシのスヴャトスラフに贈り物を与えてブルガリアに侵攻させ、968年にルーシ軍はドナウ川北岸を占領した。折しも発病したペータルは国政を貴族に委ね、彼らはビザンツとペチェネグに援助を求めた。ビザンツは新しく即位したペータルの息子ボリス二世(969-971)と新条約を結び、ビザンツキエフ軍を排除する際には援助を与える義務を負った。また、ペチュネグはキエフを攻撃し、スヴャトスラフはブルガリアからの撤退を余儀なくされた。

 翌年の969年、ルーシ軍は再びブルガリアに侵攻した。ボリス二世はビザンツに救援を求めたが、ビザンツ側は援助を与えなかった。この時、スヴャトスラフはその貴族と母に、「私はキエフにいるのが嫌です。ドナウのほとりのペレヤスヴェツに住みたいと思います。そこがわが国の中心であり、そこにはありとあらゆるよい物が集まって来るからです。(後略)」(國本 1988)と語り、ブルガリアを占領した後も、継続して支配する意思を示した。ここに窮地に陥ったボリス二世は敵であったルーシと連合し、970年ビザンツへ侵攻した。この侵攻に対し、ビザンツ軍はブルガリアに逆侵攻し、包囲の後に、971年4月5日、ブルガリア軍とルーシ軍の守る首都プレスラフを陥落させた。そして、ルーシ軍をドナウ川南岸、現在のシリストラにあるドラスタルに追い詰め、ルーシ軍を北方へ追い払った。この時の和約ではビザンツはルーシに貢納の義務を負うことを約束したが、スヴャトスラフはその帰途にペチュネグ人との戦いに破れ戦死し、彼らによって髑髏杯にされた。ルーシの北走直後にビザンツ軍はブルガリア皇帝を捕虜とし、東部ブルガリアビザンツ支配下に入った。この時点をもって、アスパルフから始まり、クルムより連綿と連なるブルガール人の血統によるブルガリア全域支配は終わりを迎えたのである。

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(図3 ブルガリアへの外敵の侵入)

 

2-5. ブルガール人王朝の断絶

 ビザンツによる占領を免れた西ブルガリアでは、地方長官ニコラの息子たちによるサムイルらによって実効支配されていた。ボリス二世の息子ロマンは捕虜となっていたが、ビザンツ国内から脱出し、西ブルガリアへ帰還することに成功した。ロマンはオフリドを首都としブルガールの血統を引く最後のブルガリア皇帝(976-991)となり(西ブルガリア帝国)、共治帝サムエルと共にビザンツへの抵抗を行った。西ブルガリア帝国はボリス一世とシメオンの国家組織を継承したが、結局のところ地方的な勢力であることに終始していた。991年、ロマンは戦死するが、跡を継いだサムエル(991-1014)は精力的な軍事活動を行い、1000年頃には、ドナウ川北岸の領土、東ブルガリアを回復し、さらにはセルビアなどアドリア海方面に攻撃を加え、北西のハンガリーとの関係も改善させた。しかし、1001年から1004年にかけて再びアラブに勝利したビザンツ軍は東ブルガリアを征服し、1009年にクレタの会戦においてサムエル軍は破れ、アドリア海における勢力を失った。さらに1014年のベラシツァの会戦では「ブルガリア人殺し」バシレイオス二世は集中したブルガリア軍を包囲殲滅し、捕虜となった1万5千のブルガリア兵士は100人の内、1人の片目を除いて目を潰された。この軍事的打撃と相まって、この目を潰された兵士たちを見たサムエルはショックのあまり心臓発作におちいり、2日後に急死した。サムエルの跡を継いだガウリル・ラドミル(1014-1015)はブルガリア貴族の分裂を抑えることに失敗した。そのためガウリル・ラドミルは甥のイヴァン・ウラディスラフ(1015-1018)に殺された。イヴァン・ウラディスラフはバシレイオス二世に臣従を申し出るも受け入れられず、1018年にイヴァン・ウラディスラフは戦死し、ブルガリア国家は急速に崩壊し、バシレイオス二世はブルガリアを占領した。

 翌年1019年までにブルガリア国家による組織的抵抗は終結し、ブルガリア全域はビザンツ支配下に入ることとなった。しかし、それはスラヴ人侵入以前のビザンツの状態に戻ったのではなく、他のスラヴ人においては進行したギリシア化となじまないブルガリアの言語を操る「ブルガリア民族」は残存したのである。

 

2-6. 「ビザンツの周縁化」と旧ブルガリア領における独立運動

 その後のビザンツ支配下におけるブルガリアでは、ビザンツ経済へブルガリアが編入された影響によって、従来の現物経済から貨幣経済への転換が図られ、さらに大土地所有が進んだ。このように封建体制が強化された結果として、ブルガリア地域のみならず各地の貴族の独立傾向が強まり、1204年にビザンツ帝国一時滅亡すると、それ以降地方勢力はさらにその独立性を増し、頻発する貴族反乱に対して帝国の後背地たるブルガリアを重要視したビザンツ皇帝は度々遠征を行っていったものの、帝国は解体へと向かっていった。さらに経済構造の転換は農民に対する負担を増大させ農民反乱も頻発した。その中で、西欧勢力、特にイタリアの勃興による「ビザンツの周縁化」の過程において生じた増税に反対したアセンとペータルの反乱によって、ビザンツ帝国ブルガリア支配は1185年に最終的に失われた。この反乱によって、ビザンツ帝国からブルガリアが独立した背景として、従来の貴族反乱に対して、ブルガリア人という民族意識を掻き立て民衆を反乱に引き込むことに成功した在地貴族アセンとペータルの反乱が「ビザンツの周縁化」という世界システムの変革によるビザンツの衰退という時期に発生した、ということがある。(井上1994) 

この反乱の結果成立した第二次ブルガリア帝国は、ドナウ・ブルガール・ハン国や第一次ブルガリア帝国におけるハンや皇帝と比較すると弱体な君主権力しか持たない、独立傾向の強い貴族たちの封建体制の上に象徴として立つ体制、つまりビザンツの体制の完全なる模倣をせざるを得ず、これまでのブルガリア国家と比べると、その性質を大きく異にしていたのである。

 

2-7. 小結

 ここまで、ドナウ・ブルガール・ハン国から第一次ブルガリア帝国、西ブルガリア帝国、第二次ブルガリア帝国成立にいたるまでのブルガリアの辿った歴史を概観してきた。以上の歴史を踏まえて、本節では小結として、この時代のブルガリア国家の国家組織と社会について概観する。

 井上(1994)によれば、第一次ブルガリア帝国(ドナウ・ブルガール・ハン国)はその成立以降膨張を続けていったが、その反面、領内に多数のスラヴ系農耕民を抱えるようになった結果、国家支配体制としては従来のブルガールの遊牧民族的な統治方法は限界を迎え、ブルガリアの支配層はビザンツとの交易を独占し、ビザンツの国家制度を導入することによって、従来のブルガール的支配体制を脱却し、新しい状況に対応した。しかし、その早急な導入は国内の農村経済の停滞と反ビザンツ勢力による反発の発生という矛盾を生み出し、この矛盾を抱えたまま第一次ブルガリア帝国ビザンツに併合された、と指摘する。

 このブルガール人の統治制度について、ブラウニング(1995)の議論を元に概説する。ブルガール人は遊牧民において始原的である多頭制の支配ではなく、オルホン・エニセイ突厥碑文にみえるトゥルクの発達した強固な政治組織、発達した官僚組織、政治の伝統を持っていた。『ブルガール・ハーン名録』からは、ブルガールにおいてはドゥロなど特定の家系の長子相続による世襲支配が行われていたことが分かる。このハンの元に、ブルガール人貴族たちは「内」と「外」に別れ、「内」貴族は中央政府において高官をつとめ、彼らのうちから貴族会議が行われハンの権力を強化・制限した。地方においては、ブルガール人が貢納と保安に関わり、スラヴ人の地方領主が日々の生活を取り扱っていた。そして戦時には、ブルガール人の男子は皆騎兵として、スラヴ人は徴発され軽装歩兵として外敵にあたるという民族別の軍制をもっていた。しかし、ハン国の征服地が広まるとスラヴ人の有力者と支配者であるブルガール人との間で摩擦が発生し、クルムはスラヴ人の有力者を貴族層に編入することで摩擦を解消しようと図った。このスラヴ人の貴族化に加えてブルガール人とスラヴ人の共通法典を制定した結果、スラヴ人在地社会はブルガール人による国家機構と融合し、封建的な半独立的な在地領主と中央政府からなる新しいブルガリア国家制度へと変化していった。ボリスによる改宗によって導入されたキリスト教の支配概念とビザンツの統治制度はさらにこの統一的ブルガリア国家制度を強化していった。さらに、国家と教会の言葉としてスラヴ語典礼が導入されると、共通の民族的感情や伝統が発達した。

 このようなブルガール人の支配体制は彼らと遠く関係を持つと考えられる突厥の支配構造と類似していることが考えられる。突厥の支配構造の特徴を護(1992)は、

1)国家の中心から比較遠くに住む諸族は、可汗から直接任命・派遣される官僚、トゥクドゥンの下にあって、それぞれ固有の族長を通じて観察・「徴税」されていた。

2)多くの諸族は、いくつか集まって、阿史那氏一門出身の「封建」的諸侯の采邑をつくり、多くは、これまたそれぞれ固有の族長をへて、その「封建」的諸侯に支配・「徴税」され、また軍事力を提供していた。

3)阿史那政権に敵対せず、または、それに貢納をおさめているかぎりは、みずからの首長・君長をたてて国家をつくり、一種の「独立」を許されるものであった。

 これをみると建国当初のブルガール人は、以上のような特徴を持つ突厥の支配体制を踏まえた支配体制を持っていた、といっても十分に妥当であろう。しかし、ブルガールと突厥の相違点としては、突厥は中国人やソグド人などと結合してもあくまで大多数は遊牧民族である国家を当然に維持しつづけたのに対して、ブルガール人は多数を占めるスラヴ人を含んだがために、遊牧民族国家としての性質に加えて農耕民族国家としてのスラヴ人社会を大きな割合をもって並立させざるを得なかったのである。

 このように建国当初の二重性をもった支配機構は、ブルガリア国家の発達に伴ってビザンツ様の封建社会へと変貌していった。そして、ブルガリア国家としての紐帯は半独立的な封建貴族たちの誕生によって緩み、井上(1994)の指摘する状況において、衰退していったのである。そして、ビザンツの辺縁化はビザンツの紐帯の弱体化を招き、昔日の第一次ブルガリア帝国のように独立的な封建貴族層の離反を招き、その結果としてアセンとペータルの反乱をきっかけとしてトラキアでは、封建貴族たちの新しい紐帯としての性質をもった第二次ブルガリア帝国が成立したのである。

 ここから明らかになることは、ブルガリア国家の性質は建国以来、遊牧民的なそれから封建社会へと大きくその性質を変えていったことである。そこで次節では、このブルガリア国家の性質を「征服王朝」という概念を元に、中国の「征服王朝」と比較しながら、これを分析していくこととする。

 

3. 「征服王朝」とブルガリア

  ドナウ・ブルガールから第一次ブルガリア帝国(以降、両政権を併せてブルガリアと称する)にかけての国内経済は都市部を除いて、全体としては自給自足的な貨幣も市場も存在しない状態であった(Browning 1995:148)。一方で、ブルガリアに南接するビザンツの経済においては、すでに国内においては貨幣経済が定着し、国際的にはビザンツの生産する商品は、イスラーム・ネットワークに受動的に依りつつも、北欧、西欧に存在する需要によって常に一定の貿易の利益を得ることができる立場にあった。

 経済においてブルガリアは全くビザンツよりも発展途上の状態にあり、同時代の西欧諸国がそうしたように、自国の通貨を鋳造し、国内市場の創出を目指すよりも、ビザンツと直接交易を行うことによって、すなわち経済的にはビザンツ帝国に組み込まれることによって支配階層の需要を満たすという方法で、自らの経済を成立させた。

 また、ブルガリア経済においては、セルディカ(現在のソフィア)を経由する街道などを通過する交易から上がる関税とビザンツからの貢納が重要な立場をもっていたことは十分に予想されることである。しかし、ブルガリアの関税システムはビザンツのそれと比べて、下級官吏が存在しないこととあいまって精緻なものであるとはいえず、(Browning 1995:151)貢納についてもビザンツ側からしばしば打ち切られることがあり、これらは国内から上がる現物収入と比べると不安定な収入源であった。

 このようにビザンツに経済的に従属しつつもブルガリアが独自の立場を保持しえた理由として、彼らの卓越した軍事力が挙げられる。徴兵によって構成されたビザンツの軍隊とは異なり、ブルガリアの軍隊は装備の整った強力なブルガール人の常備軍、碑文によると「扶養された者達」を中核とし、適宜動員されたブルガール人軽騎兵スラヴ人歩兵によって構成された。(Browning 1995:180)ブルガリアの軍事力は、その強い力に比して、補給を現調達に依存するなど、遊牧民的要素を強く持っていた。また、クルムのコンスタンティノープル攻撃に準備された膨大な攻城具などに示されるように、兵器の生産はブルガリアにおける重要な課題であり、これはブルガリアに経済において大きな比率を占めていた。(Browning 1995:150)つまり、ブルガリアの軍事力はビザンツから独立を維持するために、あるいは自国の経済を維持するために、必要不可欠な要素であり、ブルガリアビザンツの間の関係の基調は以上の理由によるのである。

 本章では、このブルガリアの経済的な特徴を比較的に考察したのち、中世バルカン半島の交易の様相とそこから明らかになるブルガリアの世界交易システムにおける位置づけをすることを目的とする。

 以前指摘したように、ドナウ・ブルガールの特徴は農牧の二重性にあり、その国家的性質は「征服王朝」と呼ぶべきものであるという点を考慮した際、ブルガリアと比較するべき対象として挙げられるのは、「征服王朝」として本来位置づけられた遼・金・元といった王朝があるが、今回は特にその中でも遼に注目して相互の比較を行うこととする。

 まず、両者の国家体制を比較する。

 島田(2014:50)によれば、遼の官制の特徴として「「国制を以って契丹を治し、漢制を以って漢人に侍す」と、『遼史』百官志の序にあるように北面(契丹人以下の遊牧民に対す)・南面(漢人渤海人などの農耕民に対す)の二元制をとったところに特色がある。しかしその基底には、国家の枢機や軍国の大事は、これを契丹人(北面官)の掌中ににぎり、漢人(南面官)には参与させないという、契丹人による一元主義が基調となっていた」とし、このうち、南面官については基本的には漢人の伝統的な統治体系、すなわち三公六部など唐制にならった形態をとり、建前としては「漢人漢人」を治めるというような制度設計がなされていたが、島田(2014:65) の指摘によると、実態としては重要な決定に関する役職には契丹人がついており、実質的に契丹人による一元的支配がなされていたことが明らかになっている。

 このような農牧双方を本来の方法で一元的に支配するシステムは、一方で中世ブルガリアにおいても存在していた。Browning(1995:170)は「ブルガリアでは一種の二重の行政構造が生じたと思われる。それは一方ではハーンと彼のブルガール人貴族が貢納と保安に係わり、他方ではスラヴ人小領主と村長が彼らの同胞の日々の生活を扱うといったものであった」と言及し、これはすなわちアスパルフが現地のスラヴ人首長たちとブルガール人が領土の保全と北方のハザールとの戦いを、「スラヴ7部族」が西方のアヴァールとの戦いを、スタラ・プラニナに居住するセベレイス族がビザンツとの戦いを担当するという条約を結び、ブルガール人とスラヴ人による国家を建設した、というブルガリア成立の事情と密接に連関するものである。

 しかし、ブルガール人とスラヴ人の関係は条約関係通りの対等なものではなく、少なくともクルムの時代におよぶまでブルガール人優位であった。つまり、大ブルガリア以来の政治的伝統から中央集権をすでに確立したブルガール人と、部族制社会を構成し一体的なまとまりをもたなかったスラヴ人の間の力関係は、クルムのスタラ・プラニナ以南の征服によって、ビザンツ化し中央集権制度のうちに適応していたスラヴ人ブルガリアに取り込まれることによって、集権的統治に適応したスラヴ人の比重が増し、彼らを政権に組み込むための統一法典に象徴される同化政策、すなわちブルガリア化政策が行われるまでは、ブルガール人の優位にあり、基本的にはスラヴ人とブルガール人の複合国家であるブルガリア国家のイニシアチブは遊牧民的なブルガール人が一元的に担っていた。

 これらの点をかんがみるに、統治における農牧二元制と軍事に代表される国家の枢機における遊牧民による一元制の支配という特色において、クルム以前のブルガリアと遼朝において共通する要素がある、ということがいうことができるだろう。

 では、他の要素についても比較を重ねることとする。

 ついで、軍事システムについて比較する。

 遼朝の軍事システムは皇帝直轄の「御帳親軍」と契丹人の部族ごとに編成され有事には主力として動員された「衆部族軍」、各州県の治安維持を基本的には担い、特別の有事には戦列に参加した徴兵された農耕民による「郷兵」からなっており、軍事力の根幹は契丹人以下遊牧民によって構成されていた(島田 2014:67-70)。

 一方で、ブルガリアの軍事システムもまた、ハン直轄の「扶養された者達」と、おそらくは部族ごとに編成されたブルガール人騎兵、そして、有事の際に部族ごとに動員されたスラヴ人歩兵からなっていた。

 両者ともに中央集権君主の直轄軍と、遊牧民による主力軍、そして適宜動員される農耕民軍からなる軍隊を編成していた、という点において共通する特徴をもっていたことがわかる。

 また、「文字」という側面についても両者は興味深い共通点を有していることがわかる。

 遼朝は「契丹文字」とよばれる特徴的な文字システムを構築した。島田(1979)によれば、遼朝は、彼らの使用言語であったモンゴル系の言語である契丹語のシステムに合致した突厥文字を参照した「契丹文字」を考案し、使用した。契丹文字はいまだ解読中の段階にあるが、彼らが文字を創作したことについて島田(1979:45)は「契丹族が自らの文字を作製することによって、その思想を表現しようとしたことは、彼らが単なる漢文化の模倣者ではなかった証拠であり、また原字を組み合わせて一見漢字に似たかたちをとったのは、漢文化への対抗意識をあらわす民族的自覚のあらわれといえよう。契丹族による新文字作製の風は、やがて近隣の民族にも大きな影響をおよぼし、タングート族の西夏文字、ジュシェン族に女真文字モンゴル族のバスパ文字、満洲族満洲文字などを出現させる先駆となった点にも大きな意義を認めねばならない」と、南方の文明圏に対する独自性の確保という目的で行われた文字政策についての先駆としての契丹文字に対して大きな評価を与えている。また、岸本(2015:126)は「契丹・金・西夏ともに、自ら皇帝を称したが、これは唐の皇帝が唯一の皇帝として周辺地域と朝貢冊封関係を結んでいた唐代の東アジアの秩序とは大きく異なる。また、契丹・金・西夏はそれぞれ独自の文字をもっていたが、これら周辺諸国の台頭は、文化的自覚とも結びついていた。そのような「自立化」の潮流は、北方や西方のみならず、日本をも含みこむものであった」とし、遼朝を契機とする文明に同化せずに自立した文化を形成する動きが当時の東アジア世界における同時代的状況であることを指摘している。

 一方で、ブルガリアにおいても周知のとおり、スラヴ語を表記するための文字として、キリルとメトディの兄弟によって発明されたグラゴール文字と、その後改良されたキリル文字ビザンツ文明に対してブルガリア文化の醸成を促した大きな要素であった。

 このように、隣接文明圏に対して独自文化を確立するための文字政策の重要性は、中国においては「征服王朝」とよばれた(元朝は例外的ではあるが)王朝にとって無視できないものであった。グラゴール文字・キリル文字の発明とブルガリア独立正教会の成立は、これと同様の課題がブルガリアにも存在したことを示しているのである。そして、グラゴール文字・キリル文字がルーシに伝播し、スラヴ文化圏の成立の契機となったことを合わせれば、ブルガリアの文字政策とその同時代的な役割は遼朝のそれと近しい性質をもっていると考えることができる。

 それでは、最後にブルガリアにおけるブルガリアとの、遼朝における北宋との関係について、貢納という点から考察することとする。

 北宋から遼朝への貢納の契機が1004年の澶淵の盟にあったことは、周知の事実であろう。1004年に内紛をおさめ宋への征服戦争を決意した遼の聖宗は20万を号する大軍を率い、宋軍の守る諸都市を攻囲しつつ南下し、澶州にいたった。一方、宋の真宗もまた江南あるいは成都への遷都論を排し、禁軍を率い澶州への親征を決意し、両軍は澶州において対峙することとなった。真宗は遼軍によって主力が敗れることをおそれ、聖宗もまた未だ陥落しない宋軍の支配下にある都市からの反撃をおそれ、両軍は和平交渉を行い、以下の条件で妥結した。

 

1)宋は軍費として遼に毎歳絹二十万匹、銀十万両を贈遺する。ただし、上記の歳幣は雄州まで送致する。

2)(前略)両国は兄弟の誼をもって交わる。聖宗は真宗に兄事し、互いに南北とする。

3)両国の国境は従前のままに瓦橋関(雄州)を境とし、関南の地は宋の有とする。(後略)

4)両国の俘虜は相互に送還する。

(田村1964:183)

 

 この和平条約、澶淵の盟をもって、両国の関係は確定し、歳幣の額をめぐった紛争は幾度と無く発生したものの、戦争状態に入ることはなく、両国の関係は遼の滅亡まで概ね平穏な状態を継続した。この歳幣は遼朝における北面の遊牧民の各部の結合の維持の資として用いられた。半ば機械的に部族に分けられた遊牧民集団は従来の氏族集団の結合と比べれば強固な結合であるといえたが、一方で遼朝皇帝、すなわち遊牧民からみたイェケ・キタイ・オルン(大契丹国)をヤリュート氏の権力下で維持するためには常にハンとしての恩恵を部族に施さなければならず、宋からの莫大な歳幣はこの遊牧民システムの安定的な維持へとつながった。この「澶淵システム」(杉山2005)によって、宋と遼の関係は世界史上類をみないほど安定した。

 これを踏まえて、ブルガリアビザンツ関係をみると、「澶淵システム」のような安定した構造を両国の間に与えることはできない。しかし、アスパルフからテレヴェルの時代、あるいはボリス一世の時代に示される通り、ブルガリアビザンツの間に歳幣関係が存在する時期もあり、両国の戦争の理由も大方ブルガリアビザンツに歳幣の支払いを促すものであり、歳幣というものが大きな意味を両国関係に与えていたことが分かる。遼朝のように国家維持のためにブルガリアにおいて歳幣が用いられたことを示す直接的証拠は管見の限り存在しないが、テュルク系遊牧民の統治システムを応用していたブルガリアにおいて、テュルク系のみならず、おそらくフィン系なども含む雑多な出自をもつ「ブルガール族」を維持するためのシステムとして、歳幣システムは重要な意味をもっていたと考えることができる。

 以上の、ブルガリアと遼朝について、政治機構、軍事制度、文化、対南関係における比較から、両者の性質が近しいものをもっていることがわかる。すなわちこれは、遼朝とブルガリアとの双方が基盤として遊牧民の文化をもっていたこと、双方が国内に少なくない定住民を含んでいたこと、隣接した経済的に優越した国家をもっていたことによるものであり、これらの点において中央ユーラシア世界の東西をみたとき、杉山(2005)が指摘するように安禄山勢力が中央ユーラシア周縁国家、すなわち従来の征服王朝の先駆であるとのべたように、ブルガリアもまた中央ユーラシアと農耕世界の双方にまたがる中央ユーラシア周縁国家であった。

 

 

 

附 中世ブルガリア国家歴代君主一覧(ブラウニング(1995)参照)

 

ブルガリア (7世紀中ごろ)

1 クプラト(ドゥロ)

 

ドナウ・ブルガール・ハン国 (680-852)

2 アスパルフ(ドゥロ)680-700

3 テレヴェル(ドゥロ)700-721

4 コルメシイ(ドゥロ)721-738

5 セヴァル(ドゥロ)738-753/4

6 ヴィネフ(ウキル)753/4-760

7 テレツ(ウガイン)760-763

8 ザビン(ヴォキル)763-766

9 ウマル(ウキル)766

10 トクトゥ(不明)766-767

11 パガン(不明)767-768

12 テレリグ(不明)768-777

13 ガルダム(不明)777-803

14 クルム(クルム)803-814

15 オムルタグ(クルム)814-831

16 マラミル(クルム)831-836

17 プレシアン(クルム)836-852※マラミルと同一人物とする説あり(プラウニング 1995)

 

第一次ブルガリア帝国 (852-971)

18 ボリス一世(クルム)852-889

19 ウラディミル(クルム)889-893

20 シメオン(クルム)893-927

21 ペタル(クルム)927-970

22 ボリス二世(クルム)970-971

 

西ブルガリア帝国 (976-1018/19)

23 ロマン(クルム)976-991

24 サムイル(地方封建貴族)991-1014

25 ガブリル・ラドミル(地方封建貴族)1014-1015

26  イヴァン・ウラディスラフ(地方封建貴族)1015-1018

 

 

○参考文献・論文

 

論文

藤盛美郎「ブルガリア史の諸問題(Ⅰ)」『バルカン・小アジア研究Ⅳ』1978

井上浩一「第二次ブルガリア王国の成立――民族問題と「世界システム論」――」『人文研究  大阪市立大学文学部紀要』第46巻 第11分冊 1994

金原保夫「第1次ブルガリア王国における君主号」『オリエント』第40号 第2分冊 1997

文献

(日本語)

田村実造『中国征服王朝の研究(中)』1974 東洋史研究会

I.ディミトロフ M.イスーソフ I.ショホフ 著 寺島憲治 訳 『世界の教科書 ブルガリアⅠ』1985 ほるぷ出版

護雅夫『古代トルコ民族史研究Ⅱ』1992山川出版社

島田正郎(2014)『契丹国――遊牧の民キタイの王朝』東方書店

島田正郎(1952)『遼代社会史研究』三輪書房

島田正郎(1979)『遼朝史の研究』創文社

ロバート・ブラウニング 著 金原保夫 訳『ビザンツ帝国ブルガリア』1995 東海大学出版会

金原保夫「中世のバルカン」柴宣弘 編 『新版世界各国史 バルカン史』1998 山川出版社

R.J.クランプトン 著 高田有現 ら訳『ブルガリアの歴史(ケンブリッジ国史シリーズ)』2004 創土社

イブン・ファドラーン 著 家島彦一 訳注『ヴォルガ・ブルガール旅行記』2009 東洋文庫

(欧文)

Karl.A.Wittfogel (1949) HISTORY OF CHINESE SOCIETY;LIAO NewYork

(中文)

唐作藩『上古音手册』 1982 江苏省人民出版社

 

(史料)

李延寿「列伝八十六列伝八十六  蠕蠕 匈奴宇文莫槐 徒何段就六眷 高車」『北史』第十冊 巻九十八 中華書房

國本哲男 ら訳『ロシア原初年代記』1988 名古屋大学出版会

 

webサイト(白地図)

旅行のとも、ZenTech「ブルガリア白地図」(図1)「東ヨーロッパ地図」(図2.3) 2016年7月25日閲覧 筆者修正

http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/Bulgaria/Outline_Map.htm

 

学園祭のはなし③ 筑波大学新聞から見た学園祭

3.5 第一回学園祭に関する補足

 筑波大学新聞の記事をあさっているうちに興味深いものをいくつかみつけた。そのうちの一部ではあるが今日はこれを紹介したい。なお大学新聞のバックナンバーは縮刷版として中央図書館の本学関係資料室に所蔵されている。

 

〇幻の1974年度学園祭

 学園祭実施へ向けての組織化がすすみ、大学側との折衝が続いていた1974年の11月22日発行の筑波大学新聞(第二号)に「学園祭によせて」というコラム欄がある。ここでは当時の学園祭をめぐる状況を打破するための方策として1974年度における試験的な学園祭実施が主張されている。結局はこのコラム欄で主張されていたようなイベントは実施されなかったものの、当時の学園祭実施に向けた輻輳した雰囲気の一つのあらわれとして興味深いものがある。

学園祭によせて

高望みよりもまず小さな実践を

 学園祭についての話が持ち上がってか数か月たったわけだが、ここで学園祭に関しての問題点と今後の見通しについて述べてみよう。

 (中略)日は矢のごとく過ぎ去ったが今日まだ体系だった組織はできていないようである。こういう初歩の段階でつまづいているようでは、いざ実行ということになると、話にならないのではないか。

 (中略)以上のような原因を考えるに、一つには組織の具体案がでていないことによるのではないか。あまりに全員で創っていこうという面が強く打ち出されて、その影響で比較的理屈的になりすぎた。具体案がでているとある一定の方向付けができて議論も容易にはかどろう。でも具体案が出ていないため、組織づくりにおいてこの会議では全然話がまとまらず、それこそ烏合の衆といった感じが強かった。(中略)

 他面、この学園祭をりっぱなものにしようという雰囲気があるが、その熱意はわかるが現状を踏まえたら、そういう見解はちょっと無理なのではないだろうか。特に文科系サークルは活動が活発ではない。また、そのための施設もない。そういう状態を認識したら、とてもではないが他の大学のような大学祭は期待できない。

 おまけに学園祭の実行は来年の新学期などという意見をちらほら耳にする。せっかくやる気になっている人たちにとっては気の長い話だろうと思う。果たしてそれだけの期間は我々にとって耐え得るだろうか。現にやる気のあった人で途中であきらめた人を何人もみかけている。時の流れほど人間を無力化するものはない。時の流れは人間にとって、一方では心に安らぎを与え、人間を大胆にすると同時に他方では人間を臆病にする。

 確かに学園祭をよくやっていこうという気持ちはわかる。でもこういう状況を考慮した場合、そう楽観的に事はうまく運ぶものではない。またそういう前例のない我々にとって、もしやれたとしても多くの障害を伴うものだろう。でもそれはそれでやっていくのも結構だと思う。でもしれそれと平行(ママ)してさしあたり暫定的処置として小規模なものでいいのでやっていく必要があるのではないか。

 それはともかくは今年中に学園祭とはいかなくても全学的になにかの祭りをやろうということである。たとえ粗末なものであっても、我々にとってはささいな自信にもつながるし、しいては今後の運営に関しても参考になるかもしれない。とにかく学生の手でやったということは学生生活にも潤いが出てくるのではなかろうか。また来年の学園祭のためにもよい経験となろう。こういう環境においてのことはよいストレス解消にもつながるかもしれない。よき学園祭を目ざすのもそれなりによりとしても、現実を踏まえるのはそれ以上に大切だといえよう。そういうことを考え合わせると、やはり何としても今年中になにかやらねばという気がする。クラス代表者会議と学生との情報交換がうすれている現在つくづくこういうことを考える。(後略)

 

〇「死んだ学園祭」と紫桐祭

 1975年6月20日発行の筑波大学新聞第5号には「新しい学園祭を 死んだ"桐葉"自己満足の"五月"」と題した記事が掲載されている。そこには1974年に第一期生が入学した筑波大学へ移行するかたちで1978年に閉学した東京教育大学の最後の学園祭「桐葉祭」の様子を取材した記録がある。

 (前略)一方、桐葉祭はと申しますと原罪的立場の後輩として同情と感謝の念を失し難く、かなり言い難きこともありますが、あえていわしてもらう事にします。

 日曜、青天白日のもとに、先に述べた大学と違い、人もまばら、最後の学園祭と噂されるだけに退廃ムードが漂うなかに、模擬店の一斉射撃、特設ステージにおける一夜づけ的フォークバンドの演奏はそのムードを増々助長する。校舎は校舎と言い難く、あたかも病棟の如くである。まさしくガラーンという状態の連続、それをかろうじてやぶるものは微茶店である。確かに歩き疲れをいやすためには充分であるかもしれないが、失望・落胆の念はいやしえないだろう。

 まさしく死んだ大学、死んだ学園祭というを禁じ得ない。結局、私はエリートの群れと病人の集会のみを見るにとどまった。我々はこれらに大学にみられる悪しき学園祭を行うことを断じて許してはならないのだ。(後略)

 

ブルート(キルギス)人砲手とキルギスの英雄叙事詩「マナス」

 

  以前、キルギスの英雄叙事詩「マナス」についての記事を書いた。ここにおいて、私は「マナス」のクライマックスである「北京大遠征」のモチーフは1690年のジューンガルのガルダンと清朝が北京北方300kmのウラーン・ブトン(現在の内モンゴル自治区赤峰市)における交戦にあるのではないか、という意見を示した。今回は、さらにこれに関して、「マナス」における北京大遠征とジューンガルの軍制あるいは軍事技術とを相互に比較していくこととする。

confu-han.hatenablog.com

 「最後の遊牧騎馬国家」と呼ばれるジューンガルの勢力が強大なものとなった理由として、ジューンガルが保有した卓越した軍事技術を挙げることに異論は無いだろう。

 まず、ジューンガルの軍事技術の内、従来の遊牧騎馬民族の軍事技術と比べて特筆すべき点は、野戦において砲兵を運用したことである。ジューンガルの火砲技術導入は既にバートル・ホンタイジの時代に見られ、佐口(1967:133)によれば1650年ごろには通交関係のあったロシアに鍛冶屋二人、鉄砲鍛冶二人、甲冑一具、大砲一門、鉛、金箔、ノコギリなどを求めている。このようにジューンガルの火器は基本的にロシア経由で導入され、また、ジューンガル領内においても複数のヨーロッパ人が軍器生産に従事していた。特に北方戦争によって捕虜となっていたスウェーデン人レナートは、ガルダン・ツェリンの支配下において、4ポンド砲を15門、小口径砲を5門、10ポンド臼砲を20門製造(佐口1967:135)していた。

 これらの火砲の運用について、清朝側史料『西域図志』巻41によれば、

包(ぱお)は火砲である。鉄を砲身として、その中に硝石、硫黄、鉛玉の類をこめる。あるものの高さ(砲身長)は2-3尺、口径は3寸で、ラクダに載せて発砲する。あるものの高さは2-3尺、口径は5-6寸で、木製の砲架の乗せて発砲する。あるものは長さが4尺あまりあり、内地の鳥槍のように作られ、手で支えて発砲する。砲手の名前を包沁(ぷーちん)と呼ぶ。(『西域図志校注』p534より)

 とあり、このうち、1つ目の火器は、足を縛って横倒しにしたラクダに乗せて発砲していたことからも分かるように、実際に野戦部隊に随従する火砲であったことが想像され、2つ目の火器は砲身に比して口径が大きいことから臼砲であることが考えられ、3つ目の火器はマスケット銃のようなものであることが分かる。これらの火器の他の軍事技術について『秦辺紀略』は、

ガルダンは沙油汁を取って、土を煮て硫黄とする。また、瀉鹵土を取って、煎って硝石とし、その色は雪よりも白い。銅・鉛・鉄なども地中から出る。石が堆積する河岸には、砂金や珠玉が産するものの、退けて用いない。馬が優れ、これが多いことは普通であり、及ぶところがない。このように軍需物資があらかたそろっているから、遠方から供給をする必要がなく、技巧や思考を凝らして、精密で堅牢な武器類を製造している。(『秦辺紀略』ガルダン伝)

  と述べており、当時のジュンガリアには火器運用のための資源が豊富であったことが分かる。イリ渓谷の生産性の高い草原と、上述の優れた兵器類が、ジューンガルの強大化の基礎となったことは疑う余地はないだろう。

 それでは、実際にジューンガル軍はどのように戦闘したのであろうか。ジューンガル軍の戦闘教義について、『秦辺紀略』は、

イスラム教徒に火器の使い方や戦闘技術を教え、まず、鉄砲、ついで弓矢、そして刀槍の順序で戦わせる。兵士には鉄砲と短槍をもたせ、腰には弓矢をつけ、刀を佩く。ラクダには大砲を載せる。出師に際しては国中の人を3分し交代させる。これを聞いて、遠近の人々は恐れて、ジューンガルに服属している。(『秦辺紀略』ガルダン伝)

 としている。ジューンガル軍は基本的に騎兵で構成され、そのうちに伝統的な遊牧民族の軍隊の主力であるオイラト人を中心とする槍騎兵、弓騎兵、さらにブルー卜(キルギス)人を中心としたプーチンに分かれていたと考えられる。プーチンの主力であったブルート人は元来遊牧民であり、騎乗に長けていたことからカシュガリアのウイグル人よりも兵士としての素質が高く、このためにプーチンはブルート人とジューンガルの征服の過程で得たテュルク系遊牧民の捕虜によって構成されていたと考えることが妥当であろう。

 ここで、一度「マナス」の北京大遠征に立ち返える。

 まず、ここで、マナスたちキルギス人が自らを「ブルート」と称している点に注意する。彼らの軍装は背に銃を背負い、手には槍を持つ、というもので、まさにジューンガル軍のプーチンと一致している。そして、キタイ軍との戦闘の開始に伴って、まず「幾千万のオチョゴル(銃)が火を噴き、ジャザウィル(大筒)の発射は数限りなく、大砲の発射はまして多い」と大筒、鉄砲の連射の描写があり、その後、弓兵、それについで白兵戦が描かれ、この順序はジューンガル軍の戦闘教義と一致している。「マナス」における北京郊外の戦闘はこのような順序で始まり、双方一歩も引かぬ乱戦の中、キルギス側に援軍がきたことにより状況が打開し、英雄マナスを先頭にキタイ軍を追撃し、北京城外に到達した。そして、キタイ王であるエセン・ハーンは和平を決意し、幾多の財宝をキルギス人に与え、彼らは凱旋する。

 以上のような「マナス」の北京大遠征において、戦闘様式などの点から、ブルート人のジューンガルの戦争、特にウラーン・ブトンの戦いに従軍した体験が反映されている蓋然性は高い。この点から「マナス」は、ジューンガルと清朝の戦争をジューンガルの視点をもって描いた文学作品としての価値をもっている、と考えることができる。口承によって伝えられた「マナス」を史料として用いることは勿論できない。しかし「心性」に着目した中央ユーラシア史を構築するとき、清朝側ではなく、ジューンガル側の視点によって描かれた「マナス」を看過することも出来ない、と私は考える。

善く生きるとは (「中庸」タイトル〜序)

 「中庸」は全三十三章。これを分かったのは南宋朱子である。この一連の記事では、この三十三章にのっとることとし、必要に応じて、それぞれに対する諸学者の解釈を提示し、読者の理解の助けとする。煩雑をさけるため本文と朱子注には原文を付し、他の学者の説には要約するのみとする。なお、時系列を重視して鄭玄説などといった朱子以前の注釈は「古注」として、朱子説よりも先に提示し、朱子以降の注釈は「諸注」として、朱子説の後に提示する。

 

【原文】中庸

【古注】

(「経典釈文」から)鄭玄は、「中庸」は「中和」の観念を実践すること、すなわち、「中の作用」という意味をもっているとする。また注中では、「庸」に「常」の意味をもたせている。すなわち、鄭玄においては「庸」は「用」「常」の二元性をもち、「中庸」とは「中和の実践・常道」という意味を示しているのである。

朱子注】

 [原文] 中者、不偏不倚、無過不及之名。庸、平常也。

 [拙訳]中というものは、特定の立場に偏った状態でも、何かに依拠する状態でもなく、過ぎることも及ばないこともないことを示している。庸というものは、平常であるということである。

 

 

【諸注】

 

(「大全」から) 新安陳氏は「不偏不倚」とは「中」の性質のうち表に出ることのない「未発の中」を示しており、これが形而上的な「中」の形態であるとし、「無過不及」を実際の行動として現れる働きとしての「中」の形態であるとする。

 

(「大全」から)雲峯胡氏は本篇における「中庸」とは「未発の中」と「時中」の二つの意味をもち、「論語」「孟子」において「中」を「無過不及」と表現しているのとは、文脈上やや意味を異にする。そのため、「不偏不倚」と加えて「中庸」における形而上・形而下の「中」の性質を朱子は表したのであるとする。 

 

(「解義」から)「中」は天下の正道であり、「庸」は天下の定理であると解釈する。これは、後述の程子の注釈以来の通説である。

 

「中庸章句」

【原文①】子程子曰、不偏之謂中、不易之謂庸。中者天下正道、庸者天下之定理。此篇乃孔門伝授心法、子思恐其久差也。故筆之於書、以授孟子

【拙訳】程先生のことば「偏らないことを中という。変わらないことを庸という。だから、中というのは天下の正しい道で、庸というのは天下の定まった理(ことわり)なのである。この一篇(「中庸」)は孔子以来の弟子たちが代々伝えた心を修める法であるが、子思はこれが後世誤った解釈が紛れ込むことをおそれた。そこで、これを叙述し、孟子に与えた。

【語注】

子程子:程明道・程伊川兄弟のこと。北宋の人。

理:ことわり。天理、道理、法則。

心法:心を修める方法。あるいは、以心伝心をもって伝えられる奥義。

 

【原文②】其書始言一理、中散為万事、末復合為一理。放之則彌六合、巻之則退蔵於密。其味無窮、皆実学也。善読者、玩索而有得焉、則終身用之、有不能尽者矣。

【拙訳】(程先生のことばの続き)この書物の始めには一つの理を述べ、中ほどでは万事に細分化され、最後でまた合わさって一つの理となる。この理を放てば宇宙をおおい、これを身の内に巻けば、心の奥深くに宿される。その味わいは無限であり、すべて実学である。これをよい読者はしっかりと考えることがあれば、一生これを用いても、教えを汲み尽くすことなんてできないだろう。

【語注】

六合:りくごう、と読む。上下四方、すなわち宇宙のこと。

退蔵於密:「易経」繋辞上篇第十一章「聖人以此洗心退蔵於密」より。意味は拙訳を参照されたし。

実学:現代日本言われている「実学」の出典はここであろう。原義的には、充実した学問。転じて、学べば成果のある学問。

 

【朱注】

[原文] 朱子曰、始言一理、指天命謂性。末復合為一理、指上天之載。始合而開、其開也、有漸末開而合、其合也、亦有漸。 中散為万事便、是中庸所説許多事如知仁勇。許多為学底道理与為天下国家有九経及祭祀鬼神。許多事中間無些子罅隙、句句是実。

[拙訳] 朱先生は言う「始めの言葉に一つの理があるということは、「天命は性という」という冒頭の一文を指し示している。最後にまた一つの理になるというのは、「上天のこと」という末尾の一文を指し示している。始めに合致して開くことが、開く、ということであり、しばらくして開いた末に合致する、というその合致するということにはまた時間を要する。中間で分散して万事の便利になるということは、これは中庸の所説のうち知仁勇などといったおおく言説が該当する。多くの言説は学問の根底の道理や天下国家の統治の九の方法、鬼神をまつることにまで及ぶ。これには、いささかも隙間などなく、言葉のそれぞれが皆充実している。

※下線部、現在文意不明であるので後日訂正。

(つづく)

善く生きるとは① (「中庸」概説)

1. 「中庸」とは

 「善く生きる」とはなにか。

 古今東西分け隔てなく人々の課題としてありつづけたこの問題に対する一つの答えとして、中国では儒教が生まれ、孔子孟子らによって多くの著作が記された。この教えは、孔子以来、2500年の時を経てなお、常に新たであり続ける不朽の教えである。そして、その根本には「四書五経」と呼ばれる経典群が存在し、移り変わる時代に合わせてその解釈は不断に移り変わり、現代においても新しい解釈が提示されつづけている。

 「中庸」とは、この「四書五経」のうち「四書」の四番目に位置づけられる書物である。「四書」は「大学」「論語」「孟子」「中庸」からなり、このうち「大学」と「中庸」は、南宋朱熹、いわゆる朱子によって「五経」の一つである「礼記」の中のチャプターである「大学篇」と「中庸編」から独立させられ、従来から個別の経典として存在していた「論語」「孟子」と合わせて、儒教の理論を示す重要な経典の一つとした。

 「中庸」の作者は孔子の孫、孔伋、通例では字の子思に尊称をつけて子思子とすることが一般的である。この根拠は史記の「伯魚生伋、字子思。年六十二、嘗因於宋、子思作中庸」という一節に求められ、前漢には「中庸」は子思の著作の一つとしてかぞえられている。これを戴聖が現在の「中庸」の部分を「礼記」の一篇として採録した、というのが通説である。

 「四書」のうち、「大学」と「中庸」の直接の出典となった「礼記」は別名を「小戴礼記」といい四十九編からなっている。「小戴礼記」の編者は前漢の戴聖であり、同門の礼学者戴徳と区別するために「小戴」と呼ばれている。この「小戴礼記」は、前述した戴徳の記した「大戴礼記」八十五編を基礎として、これを要約・補足することによって成立した。以降、「大戴礼記」「小戴礼記」が併存する時代が続いたが、「小戴礼記」には、後漢末の礼学者鄭玄(じょうげん)によって注釈がほどこされ、この注釈は後世の学者における不動のスタンダードとなり、以降は「礼記」といえば「小戴礼記」(以下、礼記)であるといわれるようになった。そして、鄭玄注「礼記」には、唐代に孔穎達(くようたつ)によってより詳しい注(正しくは「疏」と呼ばれる)がつけられた(「礼記正義」)。北宋の二程とよばれる程顥(ていこう)・程頤(ていい)兄弟は「礼記」のうち「大学篇」と「中庸篇」に着目し、儒教理論の概説として両篇に特別の地位を与えた。そして、二程に私淑していた南宋朱熹は「大学」「中庸」を現在しられている「四書」の一つという形にまとめ、両書は「論語」「孟子」に並ぶ儒教理論の概説書としての地位を確立したのである。

 「礼記」は礼について記した書物である。「論語」の中で孔子が何度も言及する「礼」という実践論の具体的な内容が「礼記」においては孔子の実践の記録あるいは言葉、問答、第三者の客観的叙述のような形をもって記され、天子、すなわち王や皇帝から士大夫と呼ばれる官僚にいたるまでの人々が守らねばならない礼の制度を説明している。「礼記」は「儀礼」「周礼」という礼に関する古典と合わせて「三礼」と呼ばれるが、このうち「礼記」はもっとも礼の中にある意味というものに注目していたことから、「三礼」のうちでもっとも重視され「五経」の一として数えられる。

 四庫全書提要には「聖賢の微言精意は、その中に雑わり見はる」(古の聖人の微かにして妙なる言葉やその精髄は、それ(「礼記」)の中で見ることができる)とあり、礼という儒教の中でももっとも具体的実践的な部分の基礎理論が「礼記」の中には示されているのである。こと、「大学」「中庸」両篇というものは、礼を包括する儒教の思想体系を表したものであり、「礼記」の内容を一身の行動の参考とすれば自らの行動を「善いもの」とすることが可能になり、敷衍して統治の参考とすれば家庭を整え、国を治め、天下を平和にすることが可能になる、ということを示したものである。このうち「中庸」は「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民に鮮きこと久し」(中庸の徳というのは、徳の諸要素の中でも高いレベルにあるものだが、そんな中庸を心得ている人はめったになくなった)という論語の言葉を根拠とし「中庸の徳」をはじめとする「誠」や「慎独」といった儒教の人間修養における重要な概念について述べている。(たぶんつづく)

 

 

 

『荘子』をよむ ――荘子の実践論――

 なぜ、『荘子』は存在するのだろうか。『荘子』がなぜ、書物として、「ことば」として綴られているのだろうか。荘子を一読して、この点について私は疑問を抱いた。

 もし、かりそめに荘周が蝶であり人であることが賽の目のように常に同様に確からしく変わりゆくものであると捉えたならば、なぜ荘周は『荘子』を記す必要があっただろうか。茫漠たる道に溶けたまったくの酔いどれ眼で「汝がために試みに妄言」したのだろうか、それとも綿中蔵針、その突拍子もない言葉のうちには秘めたる意図があったのだろうか。

 私は、荘周は荘周であり蝶ではないと彼は確信している点に彼が『荘子』を記した根拠がある、と考える。確固とした我とそれ以外の彼があるからことを知っているからこそ、彼は『荘子』を記したのである。我と彼が同一であり、まざりあい、くっつきあい、「道」の上に一つであるとするならば、何かを主張することはまったくの無意味である。何かを主張してもそれは既に一に帰しているのであり、何をなしたことにもならない。そう理解する者が果たして荘子三十三篇を記すだろうか。そこには能動的に何かを主張する理由があるはずである。私はその理由が、荘周が我と彼の区別が確かに存在し、この世界に是非は存在する、という前提をおいている、という点にあると考える。そして、その前提があればこそ彼の論は記される意味を持つのである。私は荘子の教えを、是非や彼我の区別がある世界において、是非を越え坐忘するといった形而上の世界に思弁や突拍子もない寓話を通じて到達し、そしてまた是非のある形而下の世界に立ち返る、形而上の体得を踏まえた形而下における実践の教えである、と捉えるのである。「人の中にいて人を忘れる」というのは形而上を踏まえた形而下の教えとして捉えられる荘子の思想を端的に表した表現ではなかろうか。

 では、この「区別」というものに対して、荘子はどのように論じたのだろうか。まずは「区別」についての荘子の記述を斉物論篇を基にして見ていく。

 まず、「区別」はなぜ生まれるのか。区別とは単なる物と物、つまり「これ」と「あれ」というのもではなく、「主観」「客観」ととらえる。(当時の術語において「彼」は「客観」を「是」は主観を表す(楢崎2004))この客観は主観がなければ成り立たない、つまり主観を経由しなくては外物を認識することはできない。一方で、主観も客観がなければ成り立たない、つまり、主観的認識は外物に依存している。これが、「彼は是より出づ、是も亦た彼に因る」いうことである。つまり、主観的な「我」の存在があることが区別の根源であるのであるとするのである。しかし、このあと荘子は「雖然」と逆説的に「方死方生」と述べ「主観」と「客観」の内、ある認識が主観であるならば、その認識は客観ではなく、ある認識が客観であるならば、その認識は主観ではないとする。しかし、この節の冒頭に「物無非彼、物無非是」であると言明しており、そうであるならば、物=彼、物=是である、これはすなわち彼=是であり、矛盾である。というのも荘子は「彼亦一是非。此(この字は是と解釈する(楢崎2004))亦一是非」と言及しており、この「物無非彼、物無非是」が可とされるならば、矛盾律が崩れ、是でありながら非であり、非でありながら是である、という問題が発生する。これを可とするのは恵子の「今日越に出発し、昨日到着した」ということと同じことである。この矛盾に対して荘子はどのように解決を施したのか。彼はそこに道枢の比喩を持ち出した。つまり、道という場における扉の回転軸(枢)を中心に等距離に「主観」と「客観」を置くならば、「主観」と「客観」が出会って矛盾することなく、「主観」と「客観」がともになくなる、ということもまたない。この立場に立つことを「其の環中を得」るあるいは「明を以てする」といい、その立場に立てば事物Aに対して是という判断を下してもまた、同時に非という判断を下すことが可能であり、是非の判断は矛盾律から解放され無限に至る。(是亦一無窮。非亦一無窮。)

 あるいは区別というものに対して、もっと簡単に以下のようにとらえることができるのでないか。

 すべての問題は基準となる確からしい自己と他者、あるいは主客に分別されうる部分の間から生ずる。「主観」と「客観」は互いに反しながら依存関係にあり、「このウマはまたあのウマ、あのウマはまたこのウマであって、万物はついにこのウマ一つに尽きるとも言える」(原1972)というように、およそ世界は彼我の主観・客観の関係によって成立している。故に一つの立場に固着することは結局はそれに対立する立場につくことと同じなのである。儒家が仁に固執し、墨家がそれに反対して兼愛を掲げるが、それは反しあいながら依存関係にあるという点で、どちらかが優れているということを判断することができない。自らが我ならぬものを彼として客観化してものを見る時、このような問題が発生する。

 区別こそがすべての問題の根本であり、区別されたものに固執しては区別するものと相互依存関係となってしまい、区別したものに区別されたものが働きかけようとしても、あたかも影と影の主のようなもので、なにも起きない。ここに区別から解き放たれ、区別を離れる必要性が生まれてくる。

 では、区別に固執せずに区別から離れるためにはどうすればよいのか、荘子は「およそ相反すること・ちがうものみなが、ひとしく道のなかで――道に支えられてこそ、それぞれそのようでありうるのだ。(中略)およそものごとのできあがることもこわれることも、ひとつの過程で、ひとしく道のなかで――支えられてある」(原1972)ということを自覚し、いつどこでも普遍的に当てはまる庸(はたらき)に任せることが区別の上にたって区別から離れるということである。ここでいう庸に任せるとは道枢を環中に置く、ということである。つまり、区別差別がすべて道に支えられているということを自覚すれば「彼と是が対をなす概念でなくなるとき、それを道枢という。枢が環の中心にあれば、無窮に応じる。是もまた一無窮であり、非もまた一無窮である」(中島2009)という立場に立つことができる。 あるいはさらに具体的に「彼(客観)と是(主観)とがその相手を得ないこと、これを道の扉の回転軸(を中心として彼と是が対峙しあっていること)に喩えることができる。この回転軸がはじめて、円環の中心に身を置いて、(彼と是との二項対立から自由になり、状況に)無限に対応してゆくならば、是とする判断を無限に下し、非とする判断を無限に下すことができる。(そうなれば、「是」と「非」との対立は実質超えられたことになる。)」(楢崎2004)      

 そして、庸に任せることができた聖人は以下のような境地に至る。

 

「是も非もともにあえて、天の立場に立って(おのずからなる釣り合いの内に)、おちつく。これを「両つながら行く」(ひととわれと、それぞれそのところを、うる――それぞれの主張を、それぞれ捨てないそのままで、それぞれにこだわらないですませる、という境地)という」(原1972)

 

 つまり、聖人もまた「主観」に因ったまま、明の働きを以て、しかしながら何にも依拠せずに物を判断する、ということはこういうことである。

 荘子はこのように「区別」を越えることについて論じている。区別を消去することなく、むしろ区別を並び立たせて区別の上に立つ、ということを荘子は主張するのである。そして、ここで最後に強調することは、理想とする聖人もまた「主観」に立脚している、ということである。

 では、ここで最初に挙げた「胡蝶の夢」の寓話に立ち返る。

 ここにおいて最後に「此之謂物化」と荘子は言っているが、この物化とはどのようなものであるのだろうか。これについては中島(2009)と郭象に基づいた解釈を授業では扱ったが、これに関して先ほどの斉物論と様々な物化の解釈を踏まえて、自分の意見を述べたい。

 まずは、中島(2009)が従来の説とする森樹三郎と福永光司の解釈を見ていく。

 森(1968)は「「物の変化」というのは、一つの物が他の物に変わることであり、そこには一と他との区別がある。しかし、それは常識の立場のことであり、すべてをひとしいとみる立場から見れば、自分と他者の区別がないのであるから、胡蝶はそのまま荘周である」とする。

 福永(1978)は「実在の世界では、夢もまた現実であり、現実もまた夢であろう。(中略)一切存在が常識的な分別のしがらみを突き抜けて、自由自在に変化しあう世界、いわゆる物化の世界こそ実在の真相なのである。」という。

 また、ほかの類似したいくつかの解釈も挙げる。

 岸陽子(1980)は莊周と胡蝶の区別は現在の形に過ぎない、として、その区別は事物の極まりない変化の中における一様相にすぎない、と中島の言う旧説に近い見解を述べる。

 阿部吉雄(1969)は単純に物化を生死と捉え、生死の間にはこの寓話のように大きな区別はない、と禅における遷化に引き寄せて解釈する。

 次に中島(2009)の解釈を見ていく。

中島(2009)は、「一つの区別された世界に二つ(あるいは複数)の立場があり、それらが交換しあう様子を高みから眺めて、無差別だということではない。そうではなく、ここで構想されているのは、一方で荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容する事態」を物化と捉える。

 さらに郭象と中島(2009)に近い解釈を挙げる。

 郭象本人は、万物は天に成るがそれぞれが勝手に変化していくので、運命などはなく胡蝶であるときは胡蝶であることを楽しみ、莊周であるとき莊周であることを楽しめば良いのだ、と主張する。

 赤塚(1974)は郭象の説をおおむね同意しつつも、刹那的快楽主義として行き過ぎとし、胡蝶の夢を現実の射影と捉え、苦しい現実と自由な夢の世界の対比によって、区別を直視し、区別からの解放と超越を探るところにあると、この寓話の意味を解釈する。

 赤塚(1974)はこの寓話における「物化」の意味を混沌無差別におけるゆらぎの謂と取るのではなく、「あまねく生きる物の真の生意を自分の内に感得して、不言の静かさの中に自分に満足し、他人や他物とも自然に調和して、安らかでしかも充実した生を送るのが、「物の化」である」と捉えている。つまり、「物化」を変化ととらえるのではなく、同一化ととらえるのである。

 以上にいくつかの解釈を挙げたが、私は「主観」に立って区別を超越する聖人を理想とする荘子がどのような物化像を構想したのか、ということを踏まえて考えると、郭象や赤塚(1974)、あるいは中島(2009)などの説がそれに沿っているというように感じられる。これらの説を踏まえて物化を考えるならば、物化とは性そのものが転変すること、区別の体系が変容すること、ある「主観」がひとりでに変化して新たに区別を超え区別を作ること、とも、不変の性をもった確固たる自分があるということを前提とし性に満足し自然に調和し同一化する、と捉えることもできる。確かに中島や郭象の主張するように、性は固有であり「荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容する事態」(中島2009)を物化とする立場は物化を単純に見るならば正しいと考えられる。しかし、この寓話において物化というものを見る場合、物化を単純にとらえるのは、赤塚の解釈を踏まえると含みが少ないように感じられ、また刹那的快楽主義に陥る可能性もまたある。赤塚があえて従来の「物化」と分けて「物の化」と表した理由は従来の解釈との区別化にあるとする。私もまた、物化を一歩進めて、区別の上に立って区別を超越し、その上で自らの性に満足し調和し従う、というように捉えることがこの寓話の意味をもっとも明らかにするものであると考える。

 さて、このように物化を解釈するならば、また、至楽篇の荘子と髑髏との対話もまた「死への賛美」ととらえるよりも、「生と死の対比において、生きる人は生きることに全うし、死せる人は死せることに全うし、それぞれ各々楽しむ」というように解釈するほうが良いと思われる。あるいは死した荘子の妻への荘子の態度もまた、死した妻は死後の世界を全うするまでで、荘子は生きる世界を全うしているのである、ととらえられないだろうか。

 矛盾する判断を並び立てる明知を発揮し、区別の世界にありながら区別を超越した無制限の判断を行う立場に立ち、そして再び現実の場に立ち返り、そして「物の化」を尽くして自らの性に満足し、周囲に調和する、これが、私が捉えた形而上の世界を踏まえた形而下の実践論である、ということである。

 ここまで、荘子の哲学を絶対無差別の道の世界に遊ぶものである、と捉えるのではなく、形而上の世界に立ち返り、そこから形而下の実践を目指すものである、と捉える見方を提示してきた。このような実践的な哲学としての荘子の思想について、「老荘思想」と従来示されてきた老子荘子の連続という見方ではなく、白川静らによる孔子荘子に連続が見られる、という説について考察する。

 白川(1972)は孔子の時代と荘子あるいは孟子墨子の時代の思想の状況は大きく変化した、と主張する。孔子の時代には先王の理想、つまり伝統が生きていたが、都市国家の領域国歌への発展という歴史的な状況変化の前に周公の伝統は息絶え、荘子の時代には教条的道徳あるいは法律といったノモス的な社会秩序へと変容していった。孟子墨子も王道天下あるいは天志といったノモス的な秩序体系を抗争したが、その内容は必ずしも現実の社会秩序に迎合しない反ノモス的な要素を持っていた。真にこれに対応した理論を構築しえたのは、後王思想を成立させた荀子であり、それをさらに敷衍した法家思想家たちである。

 このノモス的な世界は孔子に立ち戻った時、否定されるものであった。仁といった徳は個人の内において体現せざるを得ず、実践者として再現されなくてはならなかった。このあり方は四端の心として、仁義を普遍的、共通的なものとして、ノモス的な社会秩序に適応させようとした孟子の立場とは大きく異なる。

 後に宋学に発展した孟子の思想は曽子・子思の道統にあり、その思想は白川(1972)によれば孔子の正統にはない、とされる。孔子のあり方はむしろ顔回に受け継がれ、荘子はその顔回の思想の後継者である。『淮南子』に見える荘子が学んだ儒教顔子の系統に属するそれではなかったのではなかろうか。

 荘子は徹底的な反ノモス主義者であった、ということは、大宗師篇の孔子顔回の対話に現れる。「仁義を忘れたり」の「仁義」とはノモス化された儒教であり、最後に至った「坐忘」の境地とはノモスを去った個人体験の元に還元された、個人の主体性の回復の境地である。

 ノモス的な社会秩序は必ず区別を内包している。これは荘子の超越せんとするところである。彼はノモス的社会秩序において形而上の世界に立ち返り、形而下の実践の方法を探った。白川(1972)も同様に「荘周は、新しいイデアの探究者であった。そしてノモス的な世界にあって、イデアを回復した」という。孔子はただ「仁」として体認することを求めたが、荘子は「道」として実体化して名を与えている。

 もちろん、荘子の中に老子的な部分があり、老荘思想として連続して語られることもまた正しいと私は考える。白川(1972)の時代においては、老子荘子に先立つものではない、と考えられており、老子荘子の発展であると捉えられていたが、帛書の発見からその説は正しくない、ということが分かった。つまり、荘子という人物に先立って孔子老子が存在しており、それらの思想をそれぞれ受け継いで反ノモス的な哲学を構築したのが荘子である、と見ることができるのではないか。

 これはあくまで私の根拠の薄い想像であるが、荘周死後の弟子たちは荘周の内なる老子的な部分を敷衍する一派、孔子的(顔回的)な部分を敷衍する一派などに分かれたのであないだろうか。『荘子』外篇雑篇にみられる老子的な部分や孔子的な部分がムラになって現れるのもこのような理由によるのではないか。しかし後世において『荘子』が老子の思想、あるいは仏教と結び付けられてとらえられるようになると、儒家的側面を称揚する考えは異端となっていった。ゆえに、儒教的側面を見出し実践した郭象は変節者あるいは自らの政治思想のために老荘思想を利用した政治家、と評価されたのである。

 そこで最後に郭象という人物についての評伝と後世の評価について概観して、上に述べた荘子の解釈者としての郭象を踏まえて、郭象という人物の旧来の評価に対して他の見方をあげる。

 晋書は、彼の人柄は弁舌には長けているが軽薄である、とする。さらに、東海王司馬越に取り立てられ高官となり権勢を内外に得た後、旧説(老荘思想)を捨ててしまった、とあり、また彼の荘子注も世に行われていなかった向秀の注釈に多少の加削を行ったに過ぎないと批判されている。

 この向秀の注釈を郭象が改変し自らのものとした、ということは『世説新語』にも見られ、当時一般に流布した言説であるということが伺える。

 しかし、この向秀の注釈は現代に伝わっておらず、この説を確かめる手段もない。

 この郭象が向秀の注を剽窃したという言説には異説もあり、『世説新語』の注に引用される『向秀本伝』では向秀は注釈を記さなかった、とあり、『文士伝』にはただ郭象が荘子の注釈を作ったとある。

 以上の記録からも郭象という人物が高い評価をうけていたとは言えない、と判断することができる。この低い評価の要因として、司馬越に抜擢された郭象が旧説を捨て去ってしまい、評判を落とした、という『晋書』庾峻伝の記述にあると考えられる。つまり、老荘思想を捨て去り現世の出世や政治に汲々とする儒家のような行動をとった郭象を当時の老荘思想家が批判したために、このような低い評価が与えられたということである。

 しかし、郭象の思想は旧来の老荘思想家とは一線を画するところにあったということは先に明らかにしたところである。郭象は自ずから然ることを徹底することが性であり、人間の性とは仁義である、と主張した。この世界において自ずから然る性は必然である。郭象は司馬越に取り立てられる前の郭象の性は、取り立てられた後にはもはや存在しない変容してしまった、と考えたのではないか。彼は旧説を捨てて権勢を求めたのではない。変容した性に従ったのではないか。黄錦鋐(1990)は郭象注を自らの政治論の依り代であり、荘子そのものは尽くされてはいない、と評価しているが、私はそれは荘子老子と結びつけようとする立場、あるいは仏教と結びつける立場からの見方であると考える。先に述べた孔子荘子の連続性を見たとき、郭象の行動はまさに彼が見出した荘子の思想そのものの実践のように私には映るのである。孔子儒教の創始者たるゆえんを白川(1972)は「述べて作らず」という祖述者として無主体的な主体の自覚の甘んじ、原点に立ち返りそこから新しい可能性を生み出す、という思想の運動の定式を生み出した、という点にある、とする。この思想の定式はなるほど春秋戦国時代において老子が『老子道徳経』を、墨子は『墨子』の一部を、孫子は『孫子』を自らの言葉として作ったことを踏まえると、儒家独自のものであるように見受けられる。もちろん、直接は儒家ではない荘子もまた「作る」人であったが、彼の内にあった儒教的側面を敷衍した郭象はこの運動定式の中にある。

 このように郭象注に示される思想と彼の伝記から、荘子儒家的部分を敷衍する実践者としての郭象像見出すことができるのではないだろうか。形而上に立ち返り形而下の実践との合一を目指す荘子をまことによく実践した人物としての郭象像を私は提示できるのではないか、と考える。

 

参考論文・文献

論文

黄錦鋐「郭象の『荘子注』について」『中国哲学論集』16 pp.1-7 1990-10-10 九州大学中国哲学研究会

楢崎 洋一郎「『荘子』斉物論篇における「彼」「是」の問題について」哲學年報 63 pp.133-153 2004-03-05 九州大学

橋本敬司「荘子胡蝶の夢――物化の構造と意味――」『哲学』51 pp.61-72 1999  広島大学

 

文献

目加田誠『新釈漢文大系 第76巻 世説新語(上)』1975 明治書院

原富男『現代語訳 荘子』1972 春秋社

白川静孔子伝』 1972 中央公論社

阿部吉雄『荘子』1969 明徳出版社

岸陽子『中国の思想12 荘子』 1980 徳間書店

赤塚忠『全釈漢文大系 第十六巻 荘子上』1974 集英社

中島隆博書物誕生――新しい古典入門 『荘子』――鶏となって時を告げよ』2009 岩波書店

福永光司『『荘子』内篇』 1978 朝日新聞社

森三樹三郎『荘子』1968 中央公論社

 

webサイト

房玄齡「晋書卷五十 列傳第二十 曹志 庾峻(子瑉敳)郭象 庾純(子旉)秦秀」ウィキソースhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B%E6%9B%B8#.E5.88.97.E4.BC.9D(参照2016-02-15).