学園祭のはなし③ 筑波大学新聞から見た学園祭

3.5 第一回学園祭に関する補足

 筑波大学新聞の記事をあさっているうちに興味深いものをいくつかみつけた。そのうちの一部ではあるが今日はこれを紹介したい。なお大学新聞のバックナンバーは縮刷版として中央図書館の本学関係資料室に所蔵されている。

 

〇幻の1974年度学園祭

 学園祭実施へ向けての組織化がすすみ、大学側との折衝が続いていた1974年の11月22日発行の筑波大学新聞(第二号)に「学園祭によせて」というコラム欄がある。ここでは当時の学園祭をめぐる状況を打破するための方策として1974年度における試験的な学園祭実施が主張されている。結局はこのコラム欄で主張されていたようなイベントは実施されなかったものの、当時の学園祭実施に向けた輻輳した雰囲気の一つのあらわれとして興味深いものがある。

学園祭によせて

高望みよりもまず小さな実践を

 学園祭についての話が持ち上がってか数か月たったわけだが、ここで学園祭に関しての問題点と今後の見通しについて述べてみよう。

 (中略)日は矢のごとく過ぎ去ったが今日まだ体系だった組織はできていないようである。こういう初歩の段階でつまづいているようでは、いざ実行ということになると、話にならないのではないか。

 (中略)以上のような原因を考えるに、一つには組織の具体案がでていないことによるのではないか。あまりに全員で創っていこうという面が強く打ち出されて、その影響で比較的理屈的になりすぎた。具体案がでているとある一定の方向付けができて議論も容易にはかどろう。でも具体案が出ていないため、組織づくりにおいてこの会議では全然話がまとまらず、それこそ烏合の衆といった感じが強かった。(中略)

 他面、この学園祭をりっぱなものにしようという雰囲気があるが、その熱意はわかるが現状を踏まえたら、そういう見解はちょっと無理なのではないだろうか。特に文科系サークルは活動が活発ではない。また、そのための施設もない。そういう状態を認識したら、とてもではないが他の大学のような大学祭は期待できない。

 おまけに学園祭の実行は来年の新学期などという意見をちらほら耳にする。せっかくやる気になっている人たちにとっては気の長い話だろうと思う。果たしてそれだけの期間は我々にとって耐え得るだろうか。現にやる気のあった人で途中であきらめた人を何人もみかけている。時の流れほど人間を無力化するものはない。時の流れは人間にとって、一方では心に安らぎを与え、人間を大胆にすると同時に他方では人間を臆病にする。

 確かに学園祭をよくやっていこうという気持ちはわかる。でもこういう状況を考慮した場合、そう楽観的に事はうまく運ぶものではない。またそういう前例のない我々にとって、もしやれたとしても多くの障害を伴うものだろう。でもそれはそれでやっていくのも結構だと思う。でもしれそれと平行(ママ)してさしあたり暫定的処置として小規模なものでいいのでやっていく必要があるのではないか。

 それはともかくは今年中に学園祭とはいかなくても全学的になにかの祭りをやろうということである。たとえ粗末なものであっても、我々にとってはささいな自信にもつながるし、しいては今後の運営に関しても参考になるかもしれない。とにかく学生の手でやったということは学生生活にも潤いが出てくるのではなかろうか。また来年の学園祭のためにもよい経験となろう。こういう環境においてのことはよいストレス解消にもつながるかもしれない。よき学園祭を目ざすのもそれなりによりとしても、現実を踏まえるのはそれ以上に大切だといえよう。そういうことを考え合わせると、やはり何としても今年中になにかやらねばという気がする。クラス代表者会議と学生との情報交換がうすれている現在つくづくこういうことを考える。(後略)

 

〇「死んだ学園祭」と紫桐祭

 1975年6月20日発行の筑波大学新聞第5号には「新しい学園祭を 死んだ"桐葉"自己満足の"五月"」と題した記事が掲載されている。そこには1974年に第一期生が入学した筑波大学へ移行するかたちで1978年に閉学した東京教育大学の最後の学園祭「桐葉祭」の様子を取材した記録がある。

 (前略)一方、桐葉祭はと申しますと原罪的立場の後輩として同情と感謝の念を失し難く、かなり言い難きこともありますが、あえていわしてもらう事にします。

 日曜、青天白日のもとに、先に述べた大学と違い、人もまばら、最後の学園祭と噂されるだけに退廃ムードが漂うなかに、模擬店の一斉射撃、特設ステージにおける一夜づけ的フォークバンドの演奏はそのムードを増々助長する。校舎は校舎と言い難く、あたかも病棟の如くである。まさしくガラーンという状態の連続、それをかろうじてやぶるものは微茶店である。確かに歩き疲れをいやすためには充分であるかもしれないが、失望・落胆の念はいやしえないだろう。

 まさしく死んだ大学、死んだ学園祭というを禁じ得ない。結局、私はエリートの群れと病人の集会のみを見るにとどまった。我々はこれらに大学にみられる悪しき学園祭を行うことを断じて許してはならないのだ。(後略)

 

満洲文語単語100選(1/3)

 満洲語の単語をコーパス解析から導き出された出現頻度順に100単語をピックアップして、満洲語学習者の参考としたい。意味については基本的には津曲敏郎『満洲語入門20講』と羽田亨『満和辞典』を参照した。

参照URL(コーパス出典) The Art of War — in Manchu! | Echoes of Manchu

 

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ブルート(キルギス)人砲手とキルギスの英雄叙事詩「マナス」

 

  以前、キルギスの英雄叙事詩「マナス」についての記事を書いた。ここにおいて、私は「マナス」のクライマックスである「北京大遠征」のモチーフは1690年のジューンガルのガルダンと清朝が北京北方300kmのウラーン・ブトン(現在の内モンゴル自治区赤峰市)における交戦にあるのではないか、という意見を示した。今回は、さらにこれに関して、「マナス」における北京大遠征とジューンガルの軍制あるいは軍事技術とを相互に比較していくこととする。

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 「最後の遊牧騎馬国家」と呼ばれるジューンガルの勢力が強大なものとなった理由として、ジューンガルが保有した卓越した軍事技術を挙げることに異論は無いだろう。

 まず、ジューンガルの軍事技術の内、従来の遊牧騎馬民族の軍事技術と比べて特筆すべき点は、野戦において砲兵を運用したことである。ジューンガルの火砲技術導入は既にバートル・ホンタイジの時代に見られ、佐口(1967:133)によれば1650年ごろには通交関係のあったロシアに鍛冶屋二人、鉄砲鍛冶二人、甲冑一具、大砲一門、鉛、金箔、ノコギリなどを求めている。このようにジューンガルの火器は基本的にロシア経由で導入され、また、ジューンガル領内においても複数のヨーロッパ人が軍器生産に従事していた。特に北方戦争によって捕虜となっていたスウェーデン人レナートは、ガルダン・ツェリンの支配下において、4ポンド砲を15門、小口径砲を5門、10ポンド臼砲を20門製造(佐口1967:135)していた。

 これらの火砲の運用について、清朝側史料『西域図志』巻41によれば、

包(ぱお)は火砲である。鉄を砲身として、その中に硝石、硫黄、鉛玉の類をこめる。あるものの高さ(砲身長)は2-3尺、口径は3寸で、ラクダに載せて発砲する。あるものの高さは2-3尺、口径は5-6寸で、木製の砲架の乗せて発砲する。あるものは長さが4尺あまりあり、内地の鳥槍のように作られ、手で支えて発砲する。砲手の名前を包沁(ぷーちん)と呼ぶ。(『西域図志校注』p534より)

 とあり、このうち、1つ目の火器は、足を縛って横倒しにしたラクダに乗せて発砲していたことからも分かるように、実際に野戦部隊に随従する火砲であったことが想像され、2つ目の火器は砲身に比して口径が大きいことから臼砲であることが考えられ、3つ目の火器はマスケット銃のようなものであることが分かる。これらの火器の他の軍事技術について『秦辺紀略』は、

ガルダンは沙油汁を取って、土を煮て硫黄とする。また、瀉鹵土を取って、煎って硝石とし、その色は雪よりも白い。銅・鉛・鉄なども地中から出る。石が堆積する河岸には、砂金や珠玉が産するものの、退けて用いない。馬が優れ、これが多いことは普通であり、及ぶところがない。このように軍需物資があらかたそろっているから、遠方から供給をする必要がなく、技巧や思考を凝らして、精密で堅牢な武器類を製造している。(『秦辺紀略』ガルダン伝)

  と述べており、当時のジュンガリアには火器運用のための資源が豊富であったことが分かる。イリ渓谷の生産性の高い草原と、上述の優れた兵器類が、ジューンガルの強大化の基礎となったことは疑う余地はないだろう。

 それでは、実際にジューンガル軍はどのように戦闘したのであろうか。ジューンガル軍の戦闘教義について、『秦辺紀略』は、

イスラム教徒に火器の使い方や戦闘技術を教え、まず、鉄砲、ついで弓矢、そして刀槍の順序で戦わせる。兵士には鉄砲と短槍をもたせ、腰には弓矢をつけ、刀を佩く。ラクダには大砲を載せる。出師に際しては国中の人を3分し交代させる。これを聞いて、遠近の人々は恐れて、ジューンガルに服属している。(『秦辺紀略』ガルダン伝)

 としている。ジューンガル軍は基本的に騎兵で構成され、そのうちに伝統的な遊牧民族の軍隊の主力であるオイラト人を中心とする槍騎兵、弓騎兵、さらにブルー卜(キルギス)人を中心としたプーチンに分かれていたと考えられる。プーチンの主力であったブルート人は元来遊牧民であり、騎乗に長けていたことからカシュガリアのウイグル人よりも兵士としての素質が高く、このためにプーチンはブルート人とジューンガルの征服の過程で得たテュルク系遊牧民の捕虜によって構成されていたと考えることが妥当であろう。

 ここで、一度「マナス」の北京大遠征に立ち返える。

 まず、ここで、マナスたちキルギス人が自らを「ブルート」と称している点に注意する。彼らの軍装は背に銃を背負い、手には槍を持つ、というもので、まさにジューンガル軍のプーチンと一致している。そして、キタイ軍との戦闘の開始に伴って、まず「幾千万のオチョゴル(銃)が火を噴き、ジャザウィル(大筒)の発射は数限りなく、大砲の発射はまして多い」と大筒、鉄砲の連射の描写があり、その後、弓兵、それについで白兵戦が描かれ、この順序はジューンガル軍の戦闘教義と一致している。「マナス」における北京郊外の戦闘はこのような順序で始まり、双方一歩も引かぬ乱戦の中、キルギス側に援軍がきたことにより状況が打開し、英雄マナスを先頭にキタイ軍を追撃し、北京城外に到達した。そして、キタイ王であるエセン・ハーンは和平を決意し、幾多の財宝をキルギス人に与え、彼らは凱旋する。

 以上のような「マナス」の北京大遠征において、戦闘様式などの点から、ブルート人のジューンガルの戦争、特にウラーン・ブトンの戦いに従軍した体験が反映されている蓋然性は高い。この点から「マナス」は、ジューンガルと清朝の戦争をジューンガルの視点をもって描いた文学作品としての価値をもっている、と考えることができる。口承によって伝えられた「マナス」を史料として用いることは勿論できない。しかし「心性」に着目した中央ユーラシア史を構築するとき、清朝側ではなく、ジューンガル側の視点によって描かれた「マナス」を看過することも出来ない、と私は考える。

人文(歴史)学者ってなにをする人々なのか、考えてみる。

 人文学の役割とは何か。

 人文学とは理論的統合の学問である。

 理論的統合の学問は何を役割として期待されているのか。

 それは、自分とは異なる他者との「対話」である。

 この「対話」によって学者は相対的に世界を客観視する。

 これによって新しい世界観が生まれ、この新しい世界観は全ての解釈を新しいものへと変える。世界観の変化は、物質的な革新に匹敵するほどの変化を我々に与える。

 人文学者は客観によって得られた世界観を発信し、実際に人間社会を動かす役割を担う人々の発想の転換を促す営為を為す存在である。

 以上が私の考える人文学というものの役割である。

 

 上記の「人文学の役割」というものについて、文部科学省の科学技術・学術審議会 学術分科会の「人文学及び社会科学の振興について(報告)-「対話」と「実証」を通じた文明基盤形成への道-」第三章において定義された人文学の役割を、より詳しい当座の前提として提示しよう。

 人文学は、「精神価値」、「歴史時間」、「言語表現」及び「メタ知識」を研究対象とする立場から、諸学の基礎として、個別諸学の基礎付けを行うという役割・機能を有している。また、「『対話』を通じた『(認識)枠組み』の共有」という「共通性」としての「普遍性」の獲得への道程という研究方法上の特性は、個別諸学間の「対話」を通じた「普遍性」の獲得の可能性を導くという意味で、方法上、個別諸学の基礎付けとなりうると考えられる。
 具体的には、知識についての「メタ知識」の学という役割・機能、個別諸学がそれぞれ前提としている諸価値の評価、及び個別諸学の背後にある「人間」という存在そのものへの考察という役割・機能として考えられるが、ここでは、専門分化してしまった個別諸学を俯瞰するという観点から、これらの役割・機能を合わせて「理論的統合」と名付けることとしたい。

人文学及び社会科学の振興について(報告)-「対話」と「実証」を通じた文明基盤形成への道- 目次:文部科学省 より(2017年2月23日閲覧)

 以上を要約すると、「様々な種類の学問研究の成果によって得られた知識」という存在を学問の対象として種々の学問研究の結果に根拠を与え、学問を行う主体である「人間」を学問の対象とするという点で、人文学は全ての学問を「人間」という場において理論的に統合する役割を持っている、ということいえる。

 これでは、あまりに抽象に過ぎて、なお説明を要するだろう。そこで、私が専攻する歴史学の立場に置き換えて人文学の役割について考えてみよう。

 歴史学の対象は過去である。現在が瞬間であり、時系列において「点」であるのに対して、過去というものは「点」に至るまでの「線」である。この時系列における「線」を取り扱う学問が歴史学であり、この「線」から現在の「点」の持つベクトルの向きを探る全てのアプローチは皆、歴史的アプローチと呼ぶことができる。この歴史的アプローチのうち、定量的なものと定性的なもののうち、定量的なものを取り扱う、すなわち種々の過去の数値データから将来の数値データを予測する、景気予測のような分野は広義の歴史的アプローチではあるものの、我々が実際に歴史的アプローチといって想像するものではない。この定量的な歴史的アプローチは信頼性のある数値データの十分な存在によって成り立つものであり、また、複合的な要因に基づく出来事、具体的には環境変動などといった問題は定量的アプローチによって完全に解明できるものではなく、まして人間社会の動態など定量的なアプローチによって判断することは困難である。このような数値化し難い、数値化したモデルをもってするよりも具体性を維持したままの方が実態を理解しやすい「人間集団」などといった対象に対しては、定性的な歴史的アプローチが行われる。この定性的な歴史的アプローチこそが歴史学の本来的手法であり、現在の点のベクトルを探るべく過去の線のベクトルを参照する歴史的アプローチが諸学問の歴史的アプローチ、つまり歴史学の客体的利用であり、その歴史的アプローチそのものを不断に検証する、すなわち「史料批判」の手法によって過去の現在の点に生きる我々には見ることのできない「線」を構成する「点」群の痕跡の正確な復元を目指し、そこからより信頼性の高い「線」を見出す作業が歴史学の主体的役割である。

 ここにおいて、人文学の一分野としての歴史学の役割を整理すると、過去の時系列的「線」における「人間社会」の動態を、過去の痕跡をたどることによって現在、我々の社会が立っている位置、そして現在という瞬間が持っているベクトルを探る諸学問の営為を根拠付ける、つまり、それらの歴史的アプローチを文献学的・考古学的・言語学的な様々な手法をもって信頼性の高いものにする営為が歴史学であり、この過去の人間社会の動態をベースとする諸学問の根拠となる過去をより確からしいものとして復元していくという点において歴史学は諸学問の「理論的統合」であるということができる。つまり、歴史学の手法によって、過去にベースをおいて現在・未来を考察する学問はすべて結合されている。

 この役割をもつ歴史学において、歴史学者が果たすべき役割については、以前述べた。 

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  歴史学者の役割については、上述の記事によることとし、「諸学問の理論的統合」として歴史学の役割を果たすために歴史学者は具体的にどのように成果を生み、それを発信するべきか、について本記事では考察し、人文学者の為すべきことの考察としたい。

 歴史学者は「過去に起こったある出来事」を以下の5つの階層を介して、現在的な文脈的モデルとして発信することを必要とする。

①史料

②史料の翻訳

③史料の解釈

④出来事の復元・再解釈

⑤最適化と発信(デザイン)

①史料

 まず、歴史学者が根拠とするべきものは史料である。

 史料は「実際にあった出来事」とは区別される。

 すなわち史料は、その史料を残した存在の立場・常識などといった様々な要因によって我々が求める事実の真正な鏡としての役割を必ずしも果たさない。むしろ、史料によって写し取られた出来事は、ほとんど出来事そのものの姿を残していない。しかし、一方で、当然ながら、我々はタイムトラベラーないし超能力者ではないので、その出来事は不完全な史料によってしか知ることができない。故に、全ての歴史的アプローチは、まず史料に依存する。

②史料の翻訳

 この史料を読む際にも、注意が必要である。

 特に近代以前あるいは外国語の史料を読むとき、その言葉が果たして自分が思っている言葉と完全に対応した意味をもっている、と考えることは、史料の誤読を招く。これらの現代語のノイズを極力排除して史料を読むことが歴史学者には求められる。この史料を現代人の我々が読解する段階において生じる問題のうち、言語的な問題を称して「史料の翻訳」段階と言おう。

 

③史料の解釈

 言語的な問題をクリアーしたとき、次に問題となるのは、その史料の位置づけ、つまり、その史料を残した存在・時代にあるバイアスである。その史料が政権側のものか、周縁の地方の人々のものか、それぞれに存在する「こうあらねばならないのだ」「こうあってほしい」などという願望によって生まれた文脈によって、出来事が既に解釈された形で史料にはすでに存在しているのである。この史料に存在する文脈をとき解くためには、別の文脈、すなわち視点をことにする史料や、バイアスを生じた時代・状況背景による修正をもってする必要がある。

 

④出来事の復元・再解釈

 史料の解釈によって様々なノイズを乗り越えて、出来事の痕跡が見えてきたとき、その出来事が一体どのようなものであったのか、ということを歴史学者は主体的に明らかにする。つまり、これまで客体の文脈によって記されていた出来事である史料を翻訳・解釈によって解きほぐし、出来事の痕跡を原型化して認識したとき、歴史学者は初めて自らの文脈で出来事の痕跡を誠実につなぎ合わせる作業に入ることができる。ついで、歴史学者は先行研究が明らかにした文脈と、自らが明らかにした文脈を比較し、先行研究の参照しなかった過去の痕跡を参照することによって、文脈の修正の必要があることを提示する。これが、歴史学における学術論文や学術的著作である。

 

⑤最適化と発信(デザイン)

 上記の①〜④までが従来の歴史学者の役割であった。つまり、従来は、歴史学者によって提示された出来事の復元・再解釈が集積されたものに、受け手が誠実なアプローチすることによって歴史学の役割は果たされており、歴史学者による発信は歴史学者の「義務」ではなかったのである。この受け手が、知の集積に誠実にアプローチするという構造は「教養」という文化によって支えられていた。しかし、現代、情報網が発達し、知の特権が失われた現在、教養によって裏打ちされたこの構造は崩壊し、受け手は自らの選好によって、つまり自らの世界観に沿った知識のみを摂取するようになり、相対的に誠実な出来事の復元・再解釈の集積は顧みられなくなった。「教養」という旗のもとに受け手が自らの世界観を変革するべく人文学者の学問的営為の成果を摂取することがなくなった現在、人文学者は自らの蓄積を、受け手に向けて最適化し発信する必要がある。ここに、人文学者は自らの編み出した文脈を現代化させ、文脈を受け手が消化しやすいよう整理することによって、受け手に自らの見出した世界観を飲み込ませなければ自らの役割を果たすことができなくなってしまった。要するに人文学者は、デザインされた世界観を発信する、という新しい役割を負ったのである。

 

 デザイン(ここではビジュアルのみにとどまらない、一つの方法論として捉える)は人文学者が持たねばならぬ一つの方向性である。誠実な史料解釈から、文脈を導き出し、これをデザインすることによって受け手に発信するという営為は歴史学者のみならず、理論的統合の学問である人文学にも同様にもとめられる営為であり、学者これを記すべきことであると私は考える。

「満洲国建国歌」と「大学」八条目 (「中庸」番外編)

 今回は「満洲国」の国歌をとりあげる。

 満洲国とは、現代の中国東北地方に1932年に建国され1945年に崩壊した国家である。満洲国は日本の強い影響下におかれていたものの、建前としては清朝最後の皇帝であった宣統帝愛新覚羅溥儀国家元首として据える満洲人(つまり、マンジュ人)・漢人・蒙古人の三者合同による国家であり、その点においては清朝の後継国家ということができる。

 清朝の統治理念は、遊牧民的な中央ユーラシア型統治理念と漢人的な儒教型統治理念の複合体からなっており、その象徴としては康熙帝の「聖諭十六条」や雍正帝の「大義覚迷録」がある。

 これらの統治理念の特徴としては、先に述べたとおり、中央ユーラシアと中国という二つの大文化圏の包摂にあり、これらの特徴は実質を伴っていたか、という議論はさておき、20世紀に建国された満洲国にも清朝統治理念の継承が見られる、という点は指摘される。

 その一つの足掛かりとして、今回は満洲国の建国歌の歌詞の内容を分析し、そこから儒教的特徴を見出していくこととしよう。

 

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【歌詞】

天地內有了新滿洲
新滿洲便是新天地
頂天立地無苦無憂
造成我國家
只有親愛並無怨仇
人民三千萬人民三千萬
縱加十倍也得自由
重仁義尚禮讓
使我身修
家已齊國已治
此外何求
近之則與世界同化
遠之則與天地同流

 

【拙訳】

天地の内にはすでに新しい満洲国がある

新しい満洲国はこれはすなわち新天地である。

天命を奉じ、国土に立てば、苦しみも憂いもない

そんなわれらの国家を建国した。

ただ、(そこには人々の)親愛の情のみがあり、怨みや仇などはない。

この地には、人民は三千万が息づく。

たとえ、これが十倍に増えようとも、みな自由を享受できようぞ。

ここは、仁義を重んじ、礼儀と謙譲の徳を尊び、

自らの身を修める人々の国だ。

ゆえに家庭は円満であり、国家は治まっている。

このほかに何をもとめる必要があるだろうか。

近くの国とは、世界とともに融和し、

遠くの国とは、天地とともに協調しようではないか。

 

 

 さて、今回問題にする部分は以下の部分である。

重仁義尚禮讓
使我身修
家已齊國已治

  この一節の出典は儒教文献の中でも重要な書物である四書五経のうち「大学」八条目にあることは、疑うべくもない。以下は「大学」経一章より。

【原文】物格而后知至。知至而后意誠。意誠而后心正。心正而后身修。身修而后家斉。家斉而后国治。国治而后天下平。

【通釈】物にいたってのち、知にいたる。知にいたってのち、意が誠になる。意が誠になってのち、心が正しくなる。心が正しくなってのち、身が修まる。身が修まってのち、家庭が整う。家庭が整ってのち、国が治まる。国が治まってのち、天下は平和になる。

  この、物にいたる、朱子の説によれば多くの物についての知見をためる、という個人に具体的な行動から、次第に拡大し、最終的には世界平和にいたる、というこの図式を称して「八条目」という。「八条目」は「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」から構成され、有機的な連関構造にある。これらのうち「格物」から「修身」までが個人にかかわる問題、「斉家」から「平天下」までが社会にかかわる問題であり、ここで性質が分かれる。

 ここで、歌詞に立ち返ると、「重仁義尚禮讓 使我身修」までが「修身」以下に相当し、「家已齊國已治」は後半部に相当する。

 「重仁義尚禮讓 使我身修」のうち、「使我身修」は「大学」が出典であるが、「重仁義」は「孟子」が出典であり、「尚禮讓」は歴史書である「国語」が出典である。

 「大学」出典部分に注目すると、「使我身修」は「修身」に相当し、「家已齊」は「斉家」に「國已治」は「治国」に相当する。

 それでは、なぜ「格物」~「正心」と「平天下」は省略されたのだろうか。

 おそらく前者は過分に思弁的であり、より具体的な前述の「重仁義尚禮讓」二句に置き換えられたのであろう。また「王道」を標榜する満洲国としても、「王道」を最初に主張した孟子の言葉には大きな価値を置かねばならず、「尚禮讓」については前者を提示するための対句的表現のために引用されたとみるべきで、「重仁義尚禮讓」の重点は前半にあると考えることができる。

 後者は、主権国家体制と「八条目」理念の対立のために省略され、「近之則與世界同化 遠之則與天地同流」として言い換えられているとみることができる。

 

 以上、簡潔ではあるが、満洲国建国歌の出典をみていくことで、満洲国が清朝の後継国家として、その儒教統治理念を否定せず、近代的主権国家体制に適合させた形でこれを唱導していた、という点についてみてきた。辛亥革命以降、儒教理念を前近代的なものとして否定されたという従来の見方に対して、満洲国における統治理念というものの位置づけと、それの清朝の統治理念との関係を探っていくことは一つの有意義な考察になると考えられる。

善く生きるとは (「中庸」タイトル〜序)

 「中庸」は全三十三章。これを分かったのは南宋朱子である。この一連の記事では、この三十三章にのっとることとし、必要に応じて、それぞれに対する諸学者の解釈を提示し、読者の理解の助けとする。煩雑をさけるため本文と朱子注には原文を付し、他の学者の説には要約するのみとする。なお、時系列を重視して鄭玄説などといった朱子以前の注釈は「古注」として、朱子説よりも先に提示し、朱子以降の注釈は「諸注」として、朱子説の後に提示する。

 

【原文】中庸

【古注】

(「経典釈文」から)鄭玄は、「中庸」は「中和」の観念を実践すること、すなわち、「中の作用」という意味をもっているとする。また注中では、「庸」に「常」の意味をもたせている。すなわち、鄭玄においては「庸」は「用」「常」の二元性をもち、「中庸」とは「中和の実践・常道」という意味を示しているのである。

朱子注】

 [原文] 中者、不偏不倚、無過不及之名。庸、平常也。

 [拙訳]中というものは、特定の立場に偏った状態でも、何かに依拠する状態でもなく、過ぎることも及ばないこともないことを示している。庸というものは、平常であるということである。

 

 

【諸注】

 

(「大全」から) 新安陳氏は「不偏不倚」とは「中」の性質のうち表に出ることのない「未発の中」を示しており、これが形而上的な「中」の形態であるとし、「無過不及」を実際の行動として現れる働きとしての「中」の形態であるとする。

 

(「大全」から)雲峯胡氏は本篇における「中庸」とは「未発の中」と「時中」の二つの意味をもち、「論語」「孟子」において「中」を「無過不及」と表現しているのとは、文脈上やや意味を異にする。そのため、「不偏不倚」と加えて「中庸」における形而上・形而下の「中」の性質を朱子は表したのであるとする。 

 

(「解義」から)「中」は天下の正道であり、「庸」は天下の定理であると解釈する。これは、後述の程子の注釈以来の通説である。

 

「中庸章句」

【原文①】子程子曰、不偏之謂中、不易之謂庸。中者天下正道、庸者天下之定理。此篇乃孔門伝授心法、子思恐其久差也。故筆之於書、以授孟子

【拙訳】程先生のことば「偏らないことを中という。変わらないことを庸という。だから、中というのは天下の正しい道で、庸というのは天下の定まった理(ことわり)なのである。この一篇(「中庸」)は孔子以来の弟子たちが代々伝えた心を修める法であるが、子思はこれが後世誤った解釈が紛れ込むことをおそれた。そこで、これを叙述し、孟子に与えた。

【語注】

子程子:程明道・程伊川兄弟のこと。北宋の人。

理:ことわり。天理、道理、法則。

心法:心を修める方法。あるいは、以心伝心をもって伝えられる奥義。

 

【原文②】其書始言一理、中散為万事、末復合為一理。放之則彌六合、巻之則退蔵於密。其味無窮、皆実学也。善読者、玩索而有得焉、則終身用之、有不能尽者矣。

【拙訳】(程先生のことばの続き)この書物の始めには一つの理を述べ、中ほどでは万事に細分化され、最後でまた合わさって一つの理となる。この理を放てば宇宙をおおい、これを身の内に巻けば、心の奥深くに宿される。その味わいは無限であり、すべて実学である。これをよい読者はしっかりと考えることがあれば、一生これを用いても、教えを汲み尽くすことなんてできないだろう。

【語注】

六合:りくごう、と読む。上下四方、すなわち宇宙のこと。

退蔵於密:「易経」繋辞上篇第十一章「聖人以此洗心退蔵於密」より。意味は拙訳を参照されたし。

実学:現代日本言われている「実学」の出典はここであろう。原義的には、充実した学問。転じて、学べば成果のある学問。

 

【朱注】

[原文] 朱子曰、始言一理、指天命謂性。末復合為一理、指上天之載。始合而開、其開也、有漸末開而合、其合也、亦有漸。 中散為万事便、是中庸所説許多事如知仁勇。許多為学底道理与為天下国家有九経及祭祀鬼神。許多事中間無些子罅隙、句句是実。

[拙訳] 朱先生は言う「始めの言葉に一つの理があるということは、「天命は性という」という冒頭の一文を指し示している。最後にまた一つの理になるというのは、「上天のこと」という末尾の一文を指し示している。始めに合致して開くことが、開く、ということであり、しばらくして開いた末に合致する、というその合致するということにはまた時間を要する。中間で分散して万事の便利になるということは、これは中庸の所説のうち知仁勇などといったおおく言説が該当する。多くの言説は学問の根底の道理や天下国家の統治の九の方法、鬼神をまつることにまで及ぶ。これには、いささかも隙間などなく、言葉のそれぞれが皆充実している。

※下線部、現在文意不明であるので後日訂正。

(つづく)

善く生きるとは① (「中庸」概説)

1. 「中庸」とは

 「善く生きる」とはなにか。

 古今東西分け隔てなく人々の課題としてありつづけたこの問題に対する一つの答えとして、中国では儒教が生まれ、孔子孟子らによって多くの著作が記された。この教えは、孔子以来、2500年の時を経てなお、常に新たであり続ける不朽の教えである。そして、その根本には「四書五経」と呼ばれる経典群が存在し、移り変わる時代に合わせてその解釈は不断に移り変わり、現代においても新しい解釈が提示されつづけている。

 「中庸」とは、この「四書五経」のうち「四書」の四番目に位置づけられる書物である。「四書」は「大学」「論語」「孟子」「中庸」からなり、このうち「大学」と「中庸」は、南宋朱熹、いわゆる朱子によって「五経」の一つである「礼記」の中のチャプターである「大学篇」と「中庸編」から独立させられ、従来から個別の経典として存在していた「論語」「孟子」と合わせて、儒教の理論を示す重要な経典の一つとした。

 「中庸」の作者は孔子の孫、孔伋、通例では字の子思に尊称をつけて子思子とすることが一般的である。この根拠は史記の「伯魚生伋、字子思。年六十二、嘗因於宋、子思作中庸」という一節に求められ、前漢には「中庸」は子思の著作の一つとしてかぞえられている。これを戴聖が現在の「中庸」の部分を「礼記」の一篇として採録した、というのが通説である。

 「四書」のうち、「大学」と「中庸」の直接の出典となった「礼記」は別名を「小戴礼記」といい四十九編からなっている。「小戴礼記」の編者は前漢の戴聖であり、同門の礼学者戴徳と区別するために「小戴」と呼ばれている。この「小戴礼記」は、前述した戴徳の記した「大戴礼記」八十五編を基礎として、これを要約・補足することによって成立した。以降、「大戴礼記」「小戴礼記」が併存する時代が続いたが、「小戴礼記」には、後漢末の礼学者鄭玄(じょうげん)によって注釈がほどこされ、この注釈は後世の学者における不動のスタンダードとなり、以降は「礼記」といえば「小戴礼記」(以下、礼記)であるといわれるようになった。そして、鄭玄注「礼記」には、唐代に孔穎達(くようたつ)によってより詳しい注(正しくは「疏」と呼ばれる)がつけられた(「礼記正義」)。北宋の二程とよばれる程顥(ていこう)・程頤(ていい)兄弟は「礼記」のうち「大学篇」と「中庸篇」に着目し、儒教理論の概説として両篇に特別の地位を与えた。そして、二程に私淑していた南宋朱熹は「大学」「中庸」を現在しられている「四書」の一つという形にまとめ、両書は「論語」「孟子」に並ぶ儒教理論の概説書としての地位を確立したのである。

 「礼記」は礼について記した書物である。「論語」の中で孔子が何度も言及する「礼」という実践論の具体的な内容が「礼記」においては孔子の実践の記録あるいは言葉、問答、第三者の客観的叙述のような形をもって記され、天子、すなわち王や皇帝から士大夫と呼ばれる官僚にいたるまでの人々が守らねばならない礼の制度を説明している。「礼記」は「儀礼」「周礼」という礼に関する古典と合わせて「三礼」と呼ばれるが、このうち「礼記」はもっとも礼の中にある意味というものに注目していたことから、「三礼」のうちでもっとも重視され「五経」の一として数えられる。

 四庫全書提要には「聖賢の微言精意は、その中に雑わり見はる」(古の聖人の微かにして妙なる言葉やその精髄は、それ(「礼記」)の中で見ることができる)とあり、礼という儒教の中でももっとも具体的実践的な部分の基礎理論が「礼記」の中には示されているのである。こと、「大学」「中庸」両篇というものは、礼を包括する儒教の思想体系を表したものであり、「礼記」の内容を一身の行動の参考とすれば自らの行動を「善いもの」とすることが可能になり、敷衍して統治の参考とすれば家庭を整え、国を治め、天下を平和にすることが可能になる、ということを示したものである。このうち「中庸」は「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民に鮮きこと久し」(中庸の徳というのは、徳の諸要素の中でも高いレベルにあるものだが、そんな中庸を心得ている人はめったになくなった)という論語の言葉を根拠とし「中庸の徳」をはじめとする「誠」や「慎独」といった儒教の人間修養における重要な概念について述べている。(たぶんつづく)