ロジャー・ベイコンにおける「イスラーム世界」の創造

  当時の中世西ヨーロッパでは既に失われていた、イスラーム・スペインのイブン・ルシュド(ヨーロッパでは転訛してアヴェロエス)やイブン・スィーナー(同じくアヴィセンナ)らイスラームの哲学者によって注釈され保存されていた古代ギリシア文化の遺産あるいは当時においては先進的存在であったイスラーム文明が流入してきたことによって学問・文化活動が活性化した時代である12世紀(いわゆる、12世紀ルネサンスの時代)の成果は13世紀において消化吸収され、トマス・アキナスと言った中世を代表するスコラ哲学者を生み出し、神学から哲学が独立し、後の西洋哲学が発展するための基礎が成立した。そして、この12世紀の成果を消化吸収し、イスラームの諸科学をうけて独自の経験科学の体系を構成し、光学などに大きな功績を残し近代科学の先駆者とされた人物がイギリスのサマセットに生まれたロジャー・ベイコンである。

 ロジャー・ベイコンは当時のオックスフォードにおいてアヴェロエスらの注釈によるアリストテレスの思想を学び、1232年頃パリ大学に渡り、講義を聴講しつつアリストテレスを教授していたという。そして、当時の教皇クレメンス4世の庇護を得、彼の主著である『大著作』はクレメンス4世に献呈するために彼が加入していたフランシスコ会の規約に反して秘密裏に著述されたものであった。(高橋1980)

 ロジャー・ベイコンがパリ大学に渡った時期と同時期、モンゴルではオゴデイはクリルタイを開催し、バトゥ率いるモンゴル軍による西方侵攻が決定された。バトゥの軍勢はヴォルガ・ブルガールをはじめとする遊牧民を打ち破り、さらに1240年までに諸ルーシを滅ぼし、翌年ポーランドのワールシュタットにおいてヨーロッパ連合軍と戦い、これを破った。幸いにも、この時には略奪にあうのみで、ヨーロッパ世界がモンゴル軍によって占領されるということはなかった。しかし、「彼ら(モンゴル人)はキリスト教徒を全滅させようとしているのだと信じこみ、恐怖に震え上がる。人々は「地獄からきたもの」[ex Tartaros]というラテン語と、タタール(モンゴルの別名、韃靼とも)とからモンゴル人をタルタル人[Tartars]と呼ぶようになる」(堀池 1996)というような恐慌状態にヨーロッパ人たちは陥ったのである。

 そうした状況下においてタタールの恐怖を克服するため、彼らは伝説上のクリスチャンの王であるプリスター・ジョンを発見し、これと共闘、あるいはタルタル人にキリスト教を布教し、モンゴル帝国と和親を結ぼうという目的で度々使節が東方に派遣された。だが使節たちは、プリスター・ジョンをついぞ発見できず、謁見したモンゴル皇帝からも服属の要求を受け取るばかり(堀池 1996)で、前述の政治的目的を果たすことはできなかった。しかし、最初にモンゴルへ派遣された使節プラノ・カルピニのジョバンニの『蒙古記』、ジョバンニの報告を受け派遣されたリュブリュク・ギョームの『イティネラリウム』は貴重な東洋情報をヨーロッパに与えたのである。特に後者のギョームは直接ベイコンと会見しており、その著書(『大著作』)にもギョームの名前が散見され、彼のベイコンに与えた影響の大きさを推し量ることができる。このギョームの与えた東洋情報のうち、ベイコンが重視したものに東洋の宗教情報があった。ギョームは東洋の宗教を①テングリ(天)信仰②偶像崇拝(仏教道教)の2つに重点をおいて報告している。

 

 このギョームらの地理的発見と宗教に関する報告を受けて、ベイコンは政治体制の比較に関するアリストテレスの『政治学』における議論を敷衍し、独自の世界観を提示した。

アリストテレスは『政治学』において様々な宗教を挙げている。彼は宗派と国の法の中に4つ5つの単純なものを考え、どの法が王国を崩壊させるか、させないかを見出そうとしているのである。ここで、私は、現在世界の中に見出しうる宗派について述べる。すなわち、サラセン、タルタル、異教徒、偶像教徒、ユダヤ、キリスト教徒である。アンチキリストの宗教が現れるまでは、主な宗派はこれ以上には出ない。(Becon 1962)」

 以上のように、宗教とそれと深く結びついた人間社会、つまり宗教世界の優劣を、彼が知りうる世界のすべての宗教を網羅的に列挙し、比較した。そして、諸宗教がみな同意しうる哲学的理性を基礎とし、神の啓示の問題や立法者の有無あるいは立法内容の善悪など、具体的な議論によって、ベイコン自らが属するキリスト教世界の優位を主張したのである。

 このベイコンの分析はキリスト教的価値観を前提としつつも、なぜそれが優位に立つのか、という点について、広く彼が知りうる世界における宗教をすべて列挙し、それらを相互比較することによってキリスト教の優位を主張した点において、単純にその教義の中においてキリスト教の優位を主張していた従来の論と比べて、彼の論は革新的なものであった。(堀池 1996)

 以上に見てきたようにベイコンはその分析において諸宗教世界の一つとして「サラセン」を想定していたことは明らかとなった。ここにおける「サラセン」は単純に本書がいうような民族的「サラセン人」であろうか。彼における「サラセン人」はキリスト教徒や仏教徒(あるいは道教徒)などと並ぶ理念的なムスリムを示していることは明らかである。つまり、ベイコンはその著作において「サラセン」という名前において「イスラーム世界」を想定していたのである。

 では、なぜこのような13世紀という早い段階においてベイコンは「イスラーム世界」を見出したのであろうか。その理由として、13世紀という時代における「キリスト教世界」意識の醸成とモンゴルの出現があると私は考える。

 12世紀より始まった十字軍は、ヨーロッパ人にイスラームと相対することによって自らの宗教世界を強く意識させるきっかけとなった。ことアラブから流入した新知識群の影響をうけ、その有用性を訴えた(降旗 2007)フランシスコ会士ベイコンにとってキリスト教世界に対する「イスラーム世界」が存在するという意識が強くあったことは信じるに足ることである。

 そして、13世紀のヨーロッパにおける最大の衝撃は東よりきたモンゴル人たちであった。この衝撃はヨーロッパ世界の再結束を促した。その中で、第7回十字軍がアイユーブ朝を攻撃する直前にキプチャック・カン国のバトゥはルイ9世に対してイスラームに対する共闘を持ちかけたことは、ギョームを東洋に派遣する直接の原因となった。このような国際情勢においてモンゴルに派遣されたルイ9世の側近であるギョームが「キリスト教世界」「イスラーム世界」「モンゴル」という3つの世界を強く意識していたことは十分に考えることができる。そして、彼の世界観がベイコンに影響を与えた、あるいは彼の世界観に類するそれが一般的にヨーロッパ世界に存在していたということは彼の著作を見る限り十分な可能性を持つ。

 この事実はヨーロッパ世界において「イスラーム世界」という概念は19世紀以降に成立したものである、という従来の説(羽田 2005)に対して、見逃すことのできない点であると私は考える。しかし、この「イスラーム世界」認識と19世紀以降の「イスラーム世界」認識に連続性はおそらくはなく、言い換えるならば19世紀において「イスラーム世界」は「再創造」されたのである。すなわち、ヨーロッパにおいて13世紀の「イスラーム世界」はやがて、ヨーロッパと対峙するオスマン帝国(トルコ人)と同義のものへと変容していき、キリスト教世界自体も分裂していき、やがてその本質たる「政治=宗教」体制による世界認識を不可能にならしめていき、やがて消えていったのである。

 

参考文献

堀池信夫『中国哲学とヨーロッパの哲学者 上』1996 明治書院

高橋憲一「ロジャー・ベイコンの生涯と思想」『科学の名著 ロジャー・ベイコン』1980 朝日出版社

降旗芳彦「ロジャー・ベーコンと異教(中世キリスト教思想界における他宗教理解の諸相,パネル,<特集>第六十五回学術大会紀要)」『宗教研究』80-4 pp..86-87 2007 日本宗教学会

Robert Belle Burke(1962) The Opus majus of Roger Bacon New York

今、歴史家は何を学び、何をなすべきや――史学徒のかんがえること③――

 前々回、前回と歴史叙述のありかたに関する話を歴史哲学の側面から考察してきた。そして最後に紹介した「歴史の物語り」論から導きだされた、ランケ以来の「素朴実証主義」や歴史法則の実在を前提する「方法的一元論」、政治性・倫理性が先行する唯物史観皇国史観といった歴史叙述に対する、叙述者の政治性・倫理性に基づく問題関心から導き出された、外部接続的で合理的な歴史叙述を行うべきだ、という歴史叙述論について、我々は歴史叙述を行うために何を学べばよいのか、何をする必要があるのか、歴史哲学の領域から歴史叙述の実際の場にひきつけた実践論というものに立ち返って、しばらく続けて投稿してきたテーマの一応の結論としたいと思う。

 歴史叙述というものの二重性、すなわち、政治・倫理性と論理性について、戦後の日本の歴史家たちの多くは後者によって考えることが多いように私には感じられる。戦後の東洋史をリードしてきた宮崎市定は「歴史家はなるべく現実の政治運動に参加しないほうが適当である」と述べているように、戦前の政治・倫理性が先行した歴史叙述が横行したことへの反省も含めて、実際の叙述という行為そのものに内包する政治・倫理性を意識的に遠ざけて、努めて論理性のうちに置こうと、あるいは「素朴実証主義」に立ち返ったり、あるいはマルキストたちの唯物史観の方法を借りた「方法論的一元論」に沿った歴史叙述を行おうと努めてきた。

 このうち前者は結局のところ、現在のいわゆるネット右翼と呼ばれる層が信奉する「国民の正史」たらんとする自由主義史観に対する反論たりえず、後者は歴史法則の反証不可能性という理論的な批判とソ連崩壊という現実的現象によって、その足場を打ち砕かれ瓦解した。

 「歴史の物語り」論において、フィクションでもノンフィクションでもない、その中間的性質を備えた歴史叙述を行う歴史家の責任は、歴史叙述の信頼性を高めるということに尽きる。この歴史叙述の信頼性を高めるということは、前回も述べた通り、叙述者自身の叙述した歴史の内部において無矛盾的であるということ、史料批判に耐えうる叙述の強度を持っていること、並行する叙述と接続的であるということである。

 ここから分かる「歴史の物語り」論が、第一に歴史家に要求する行動は、歴史叙述において一貫した政治・倫理的立場で臨むこと、存在する史料の記述と歴史叙述が十分な整合性が取れていること、並行する諸研究(先行研究のみではない)の潮流をつかみ自らの叙述をその潮流に参加させるということ、である。

 すなわち、より具体的にいうならば、歴史家は叙述を始めるにあたりアウトラインとしての自らの立場を明確にすること、引いてはその立場を明確にするためのスタンスというものを確立すること、そのスタイルを確立するための前提的知識を身に付けること(その前提的知識は、政治学、国際関係学、社会学、経済学、哲学、言語学など文系学問をはじめとして、生態学、地質学など理系学問など多岐にわたる)が必要である。要するに、各自の政治・倫理的立場を明確にすることは、「未来に開かれた」歴史叙述をより深みのあるものとするために必須の過程である。そのために必須になることは、自らの政治・倫理的立場の出発点となる問題関心の水準を高めること、すなわち、政治・倫理的立場に関する学問分野における知見を持つことである。この政治・倫理的立場に関する学問の知見は、より本質的・核心的な問題関心を生み出すことに繋がる。これは、学際的な視点による歴史叙述の必要性を示唆するものである。このような歴史叙述の必要性を示唆する国際関係学者ジョセフ・ナイは以下のように述べる。

  理論だけでも十分ではないし、歴史だけでは十分ではない。事実をただ書き連ねれば理解に達することができると信じている歴史家にしても、実際には、事実の取捨選択を行っている。彼らはその取捨選択の隠れた基準を明示できていないだけなのである。同様にまちがっているのは、抽象的な理論の迷宮に閉じ籠もり、彼らの知的構築物が現実だと勘違いしている政治学者である。歴史と理論の間をつねに行き来することによってのみ、このようなまちがいから逃れることができる。(ジョセフ・ナイ国際紛争 理論と歴史』第八版 2011 より)

 

 このような叙述の立場にたった歴史家は次のことを忘れてはならない。歴史叙述というものは、如何に叙述者の手に構築されるといっても、それが歴史叙述であり、歴史小説でない限りは、叙述者は集めうる限りすべての関係する史料に目を通さねばならない。これは、歴史叙述に求められる、あらゆる史料批判に耐えうる叙述の強度を担保するために必要な営為である。歴史家が歴史家であるということは、歴史叙述を行う語り手であるということ以外の何者によっても担保されない。そうであるならば、歴史叙述を歴史叙述として努めて真正なものとする営為は歴史家にとって必須の行為であり、自らのアイデンティティーを維持する手段でもある。

 ここで、叙述された歴史叙述がその自己完結性において、内部矛盾が放置されていないことは歴史叙述が成立するための重要な条件である。そして、この歴史叙述がいかに自己矛盾をはらんでいないとしても、その多元性において存在する他の歴史叙述との間に理由なき矛盾をはらんでいてはいけない。すなわち、歴史叙述というものは過去の同一性を担保するものでなければならない。つまり、叙述者は自らの叙述を行う上で、先行研究や類似研究、同時代を取り扱った研究に共通する潮流を理解し、それと自らの問題関心と適合させる形で歴史叙述を行うことは、その歴史叙述を学問とするということ、歴史叙述が完全に自己完結的なフィクションとは異なるという点を明確にするということである。

 

 以上を再びまとめると、歴史叙述者たち、すなわち史学徒が叙述において心得るべき点は以下の三点である。

歴史学以外の学問に対する知見を深め、自らの問題関心をより現代において核心的なものとして、歴史叙述に深みを持たせること

②歴史叙述が歴史小説でなく歴史叙述である以上、叙述者は史料批判によって得られた強度の高い叙述をしなければならない

歴史学という視点にたった時に、叙述者は様々な叙述の間にある「傾向」というものを読み取って、それに叙述者自身の問題関心を携えて参加する形で歴史叙述を行う必要がある

 このような見方には、もちろん批判するべき点は多くあるだろう。しかし、私は歴史家であって歴史哲学者ではない。歴史叙述という行動に移るためにはある程度の妥結に基づく結論が要請される、以上の論は私の現時点の結論として、ここに提示したまでであり、諸氏の批判を広く待つものである。

歴史は繰り返さない――史学徒のかんがえること②――

 昨日、述べた通り今日は「歴史はくりかえす」というテーゼの検討を通じて、歴史に法則性を求める「歴史科学者」たちの立場を批判し、「歴史家」の果たすべき役割とは何か、という点について考えていく。

 

 「歴史はくりかえす」とは、どのような意味合いを持つのか。これを私は批判するとは言っても、実際に起きている「事実そのもの」と類似している別の「事実そのもの」が存在しているという事実があることを否定するものではない。叙述者がこれらの間に属する共通する事項を取り上げて、その構造的特徴を明らかにし、蓋然的「教訓」の発見の糧とすることは、結局歴史というものに求められる役割であって、歴史解釈に求められる範囲の問題である。私はここで批判するものは、「歴史はくりかえす」というテーゼのもとにおける「事実そのもの」の諸原因(諸氏にあっては「事実そのもの」が単一の原因から成り立っていないということは直ちに了解されたし)と「事実そのもの」を三段論法的につなぐときに、「事実そのもの」の原因を小概念として、「事実そのもの」を結論として、その大概念として「「事実そのもの」の原因があるすべての時、「事実そのもの」が発生する」という全称命題、すなわち普遍的歴史法則が存在すると仮定することにあるのである。

 

 今回は、この普遍的歴史法則が誕生した歴史的経緯と、この歴史法則の問題点を明らかにし、そこからランケ以来の「素朴実証主義」に立ち返るのではなく、「歴史の物語り」論者たちが主張する、言語的転回を踏まえた多元的な「未来がたり」としての歴史叙述のありようについて述べることとする。

 

 19世紀以降の自然科学の隆盛において、歴史学はその「科学性」を疑われることとなった。つまり、科学でなければ学問ではないという当時の風潮の前に歴史学は説明責任を負わねばならなくなったのである。科学とは何か、という問いはあまりに難問に過ぎ、ここでは簡潔に「物事への説明の体系」という風に捉えるようにしたい。ここで生まれた立場は、歴史科学をはじめとするいわゆる人文科学(humanities)とそれ以外の自然科学(natural science)の間に方法論的な違いがあるとする二元的な立場、とそれらの間には方法論的な違いはないとする一元的な立場がある。

 このうち、最初に歴史の科学性の説明として有力な立場をもったのが、歴史学は自然科学とは異なる方法で物事を説明する、とした方法的二元論である。1894年にヴィンデルバントは以下のように自然科学と歴史学(歴史科学)の別を示した(野家 2016より)

1 全称的な必当然的な判断 単称的で実然的な判断

2 普遍的なもの 特殊なもの

3 現実的なもの恒常不変の形式 現実的なものの一回的でそれ自身で規定された内容

4 理念(近代では自然法則) 個別的な存在、事物、出来事

5 認識目標は法則 認識目標は形態

6 抽象 直感

7 法則定立的 個性記述的

8 法則の科学 出来事の科学

9 自然科学 歴史科学

 この有名な構図は歴史科学を自然科学とを対比的に置くものであり、「普遍」の探求を求める自然科学の価値と比べても等しい価値を「個性」の探求を求める歴史科学は持っていると主張したのである。これは、現代における文系理系の別の起源と言えるものである。

 しかし、この方法的二元論の立場に対して、常に批判的な立場で存在した立場が方法的一元論の立場であった。この立場を一層明確に表したのは、フレーゲ以降の論理学の革命を踏まえた物理学を手本とした統一科学を志向した論理実証主義者たちであった。彼らのうちの1人であるヘンペルは歴史科学も自然科学と同様の方法で事実の説明が可能であると主張する。ヘンペルは歴史叙述による、結果と原因の間には前提的に検証可能な一般法則が存在すると主張するのである。つまり、彼にとって、全称命題「すべてのFはGである」という一般法則から、単称命題「このaはGである」と表現される結果と原因の関係を論証するという形式は構造において歴史科学と自然科学との間で変わることがないのである。ここにおいて、自然科学と精神科学(人文科学)を同一の場に統合したヘンペルはこの演繹形式を満たさなければ科学ではないと主張した。

 しかしながら、現実において歴史叙述においてこのような一般法則を明確に言語化して定式化することは困難である。ここでヘンペルは歴史叙述というものの性質を、完全な結果と原因の関係の説明ではなく、空白を持たせた説明のスケッチであるとして、現実的な解決策を示す。

 このヘンペルの方法論的一元論において歴史科学の一般法則は反証可能なものでなければならないとして、例えば「黒船が来航した結果、明治維新が発生した」という叙述には「外圧を与えられた国では内政的な変化が発生する」という一般法則(これは例であるので、批判するべき点は多々あるが)が前提されている。この一般法則は「外圧を与えられても内政が変化しなかった」という反証があった場合、これは反証されたこととなる。この反証可能性を持っていることが一般法則の条件であるとヘンペルはしたのである。ゆえに、「人類の歴史は神の審判へ向かっている」とする風な一般法則は反証不可能であり、一般法則としての要件を満たしていないのである。

 しかし、カール・ポパーはこのヘンペルが主張した歴史科学の一般法則の反証可能性を、歴史科学の一般法則を立てる場合の叙述者の個別性によって否定する。すなわち、「事実そのもの」と「事実の叙述」の循環性のために、「事実の叙述」すなわち事実の説明は既に内在的に「事実そのもの」を踏まえており、反証するために用いる「事実そのもの」もその「事実の叙述」によって意味付けされ、確存在化しており、循環証明にいたるとし、歴史科学の一般法則、引いて言うならば歴史理論の非科学性(つまり、ヘンペルがいう演繹形式を満足しないということ)を明らかにした。

 このホパーの理論によって、歴史学というものは科学の立場から引き離され、従来の唯物史観などという歴史理論は、要するに「歴史の趨勢」という意味以上の意味を持たないということが明らかにされた。

 ここで、「歴史はくりかえす」というテーゼについて考える。このテーゼをまず、単なる一般法則として捉えた場合、これは反証が不可能であるため、一般法則の要件を満たさない。では、これを一般法則から導かれる二次的な法則、すなわち、一般法則は常に真である、という意味において捉えた場合、これは一般法則の反証不可能性から反証されることとなり、これも法則として成立しない。先述の議論を踏まえて、このように考えた場合、「歴史はくりかえす」というテーゼは反証されるのである。

 それでは、この一般法則から自由を得た歴史叙述はどのような形態を取ればよいのであろうか。ランケ以来の素朴実証主義であろうか、この素朴実証主義は「歴史」を史料批判をもって客観的に明らかにする姿勢である。しかし、歴史の事実というものは、それを明らかにするという行為と相互依存的な関係にあることは前回明らかにした。歴史という不分明な存在に対して、歴史叙述という分節を行うことによって明らかになるという言語論的転回の状況において、ランケ以来の素朴実証主義は成立せず、歴史叙述は多元性のもとにある必要がある。ここにおいて成立するのが、「歴史の物語り」論である。

 「歴史の物語り」論を提唱したダントーは、自らのいう「物語り」を以下のように定義する。

 「物語りとはある出来事を別のものと一緒にし、またある出来事を関連性に欠けるとして除外するような、出来事に負荷された構造である」(野家2016より)

 すなわち、「物語り」とは叙述者の視点から歴史的な出来事を見出して、その関連性を指摘するという行為である。歴史叙述というものと時間というものは不可分の関係にある。前回述べた通り、歴史叙述というものは必ず歴史事実の後に存在するものであり、時間において多元的である。また、過去の写像としての「記憶」の性質から、歴史叙述というものは叙述者において多元的である。

 故に、「物語り」による歴史叙述は多元的なものであるということがまず、指摘されなければならない。

 ここにおいて、歴史叙述というものの転回が明確になる。つまり、歴史的な事実というものは歴史叙述が不在な状態においては、全くの未分節で無価値的なものであり、歴史叙述によって分節されることに初めてその価値を得るのである。この歴史の事実から叙述者への転回は、叙述者に歴史を歴史としてフィクションと分かつために、以下の二点を要求する。

 第一に、叙述者は、歴史叙述の自己完結性はもちろんのこと、並行する歴史叙述に対して、外部と接続した整合的な叙述を行わなければならない。

 第二に、叙述者は、その歴史叙述が史料批判に耐えうる、合理的な歴史像を叙述しなくてはならない。

 この二点は叙述者の手に歴史というものの根拠が置かれた今、叙述者がその重みに耐えるがための方法論なのである。そして、この多元的な叙述者の手にある歴史は、叙述者の歴史内存在性によって、中立客観の超然とした立場を取ることは不可能ならしめるのである。すべての歴史叙述は、叙述者が存在する以上、叙述にはベクトルが存在し(歴史的出来事をつなげるベクトルが存在しなければ歴史叙述は成立しない!)、人種・階級・民族などの政治性を帯びざるを得ない。この政治性は歴史叙述に存在する論理性と並立する重大な要素である。この政治性というものは、言い換えるならば、叙述者の「問題関心」ということが出来る。この「問題関心」は叙述者の時間性において常に未来に開かれている。この「問題関心」のために、叙述者は「語り部」としての性質を帯び、そしてその「問題関心」の信頼のために、努めて歴史叙述の論理性を高めて、決して、「問題関心」が先行する叙述を行ってはいけないのである。そうでなければ、我が国の優位性を明らかにしようとした「皇国史観」あるいは共産主義の勝利を明らかにしようとした「唯物史観」のような歴史学という領域から離れた「問題関心」の化物を生み出してしまうこととなるのである。

歴史の多元性――史学徒のかんがえること①――

 我々、学問としての史学を志す者がおよそ心得ねばならぬ、と私が現時点で考えることについて述べる。不十分だと気づいた点については、後日補足したい。

 

 私が歴史を論じるにあって迷妄であると断じていることは二つ、マルクス唯物史観が主張するような「絶対的な真実の記述による不変の歴史」が存在するということと、「歴史は繰り返す」というテーゼである。

 これらへの批判を大約すると、我々における「過去」というものの性質から、歴史とは現在の視座に立って、自身も歴史の内に身をおく歴史家によって記述される多元的(決して、野放図なフィクションを許容してはいない!)ものであり、決して絶対的な「神の目線」によって記述される不変な一元的なものではない。

 「歴史は繰り返す」というテーゼ、つまり歴史法則というものは、史学を科学と捉える際には必ず要請されるものであるが、その視点の多元性のために、その法則を論証する際に用いる論拠というものを、法則の立脚点となる当の視点の根拠となる部分から引用せねばならず、結局のところ、自然科学のような自然という共通の場を持たないため、循環的な証明を余儀なくされ、十分な説明が与えられない歴史法則は法則として成立しない。

 今回はそのうち、前者、すなわち絶対的な歴史の不在について論じる。

 

 歴史というものにおいて必ず必要なものは、「事実そのもの」と「事実の叙述」である。「事実そのもの」は単体では、まったくの無価値的なものである。例えば、私が昨日、まったく誰の目にも触れることなく道端の石を道の反対側まで投げた、という「事実そのもの」があったとしよう。この「事実そのもの」はこの文章に記述されない限り、あったかどうかも定かではない現象である。叙述になりえない「事実そのもの」は、つまり、存在しないに等しい。例えば、その投げた石に私の指紋が付くなど「事実そのもの」が痕跡を残し得た時、初めて、「事実そのもの」は有価値となる。

 そして、その先行する「事実そのもの」の痕跡、わかりやすく言えば史料や遺物をうけて、歴史家は「事実の叙述」を行う。だから、「事実の叙述」は「事実そのもの」に先行する。要するに「事実の叙述」は「事実そのもの」に依拠しているのである。これは、諸氏も容易に了解するところであろう。

 さて、この「事実の叙述」は「事実そのもの」の二次的な復元行為であると言える。それは、その痕跡から想像される自由なフィクションを許容するものではなく、従来の叙述や他の痕跡を踏まえた合理的で妥当的な叙述でなければならない。ここにおいて、その「痕跡」すなわち「事実そのもの」の存在を示すためには、「事実の叙述」によらなければならない。すなわち、「「事実そのもの」があった」という言明は、「どのように「事実そのもの」があったのか」という問いに応えうるものでなければならない。この前提において、過去における「事実そのもの」と「事実の叙述」は循環的に補完関係にある。

 「事実そのもの」は叙述に対する先行性から、常に過去にある性質を持つ。この過去というものは、我々の記憶にある過去の写像そのものといえる。過去というものは、カントのいう「物自体」と共通の性質をもつ。ゆえに、現存在的である「記憶」と「経験」も共通の性質を持つ。この立場にたてば、歴史家は不可知なる「過去」の写像たる「記憶」を実質的真実である「過去」として取り扱う必要がある。我々は「過去」という不可知の「向こう側」「イデア」的存在から得た「過去」の写像たる記憶の性質は、「過去」そのものとは大差ないだろう、という「信念」の元で「記憶」を元に叙述を行う。すなわち、「事実そのもの」という過去から得た痕跡という自然科学のように実験することができない一回性の「記憶」から、妥当な形へ観念的に再構成され、「事実の叙述」を行うのである。この、記憶に基づく構成を経て、ここにおいて初めて「歴史」というものは成立するのである。

 このように「過去」の写像たる「記憶」の観念的な再構成によって叙述される歴史が、これらの基礎となる「事実そのもの」依拠していることは前言したとおりである。この「事実そのもの」はその叙述によって説明されるものである。そして、その叙述は叙述者の個別性、すなわち「記憶」に依拠している。

 叙述とは「事実そのもの」の原因と「事実そのもの」の両者を繋ぐことによって成立する。例えば、「講道館柔道の創始者は万延元年12月10日に誕生した」という叙述は万延元年10月11日には成立しない。なぜなら、この年に生まれた嘉納治五郎はまだ講道館柔道を創始していないからだ。この記述は講道館柔道が創始されなければ成立しない。このように叙述というものは、時代が変わるごとにその対象となる「事実そのもの」へ与えられる意味合いが変化するのである。故に、歴史叙述というものは一回性のものではなく、その時間において多元的である。

 また、「記憶」の個別性という視点にたてば、叙述者の問題関心、つまり「記憶」の選択傾向によって歴史叙述は多元的なものとなる。歴史叙述というものは、ある程度の「記憶」すなわち史料の取捨選択によってなりたつものである。そうしなければ、叙述者は「記憶」に埋もれ、それに意味付けを行うという本質的行為が不可能になる。もちろん、この取捨選択の結果としての叙述は史料批判に耐えるものでなければならない。

 以上から、明らかにされたことは、歴史叙述というものは、その時間による「記憶」の蓄積によって時間において多元性をもち、さらに「記憶」の個別性のために叙述者において多元的である。ここから私が言いたいことは、このような歴史叙述の性質のもとで、「神」の視座における単一の歴史叙述は、その時間性と叙述者の歴史的な内在性において排除され、絶対的な真実というものは「過去」の不可知性によって否定される。

 ゆえに、不変の真実による唯一の絶対的な歴史というものは存在しない。ここにおいて、国民の「正史」を確立しようとするいわゆる「自由主義史観」の元にある人々の営為は、それに内在する政治プロパガンダ性を無視して、純粋に歴史学という視点で見るならば、なんら唯物史観を掲げる人々の営為と変わることがないのである。

 次回は、「歴史は繰り返す」ということばの批判を通じて、「唯物史観」の根幹にある「歴史の科学性」というテーゼについて考えていきたい。

 

 

 

「姫」のはなし

 とりとめのない話をしたい。「姫」という言葉について考えてみよう。「姫」とは奇妙なもので、王女など貴人の女性を意味としては表していながら、字形をみると「女」と「臣」からなっている。「臣」は昔の字形によれば、「臣下」の「臣」とは形を異にするようで、女性の身体的特徴を形象化したものであるとされる。

 これでは、「姫」はただの女性の一般的な形象で「姫」が王女の意味を表すことを説明しえない。それでは、姫と現代では同義とされるprincessと比較して検討することとしよう。

 姫とprincessも、現代の日本語においては、どちらも一義的には「王女」などといった風のニュアンスを持っている。

しかし、その原義にさかのぼれば、両者はその指し示すことを大いに異にする。

 princessというのはprinceの女性形だというのは、明瞭なことであろう。そして、このprinceというものは、ラテン語のprīnceps、すなわち第一人者という意味の語、これを称号として帝政ローマの皇帝オクタウィアヌスが名乗ったことが、その語源であるとされる。

 その後、欧州ではインペラートルなどといった称号の一として、用いられてきたが、如何なる経緯があったのか、プリンス オブ ウェールズ(英国皇太子の称号。日本だとむしろ派生的な英国戦艦の名前、あるいは紅茶の茶葉の銘柄として知られているか)やプリンセスプリンプリン(時代遅れか!)のように現代の日本語ではprince、あるいはその女性系のprincessは王子、王女をさす称号として定着している。

 さて、日本において王女を表すもう一つの通俗的な言葉である「姫」であるが、princessとprinceのように、この姫という概念には対となる概念が存在するかというと、簡単には思いつかない。これはprinceが「第一人者」という原義を持つのに対して、「姫」という言葉にそのようなものはない。

 この「姫」という語は、古代中国における氏族集団の名称であるのである。古代において、中国人の呼称は、昔の日本人がそうであったように、姓-氏-名からなっていた。

 姓は、その個人が属する氏族集団を指し示す。例えば、周の王室の姓は「姫」であり、斉の公室は「姜」である。

氏は、その個人が住んでいる土地や職掌を指し示すことが多い。斉・魯・周などの都市国家の名前はそのまま、そこの支配者の氏となり、司馬や史という世襲の職業が、その従事者の氏となり、支配者の一族の分家では、その始祖との血縁関係をもって孟孫や公孫を氏とした。

 この姓-氏-名による呼び名は時代が下るにつれて廃れるようになったが(氏名と姓名はしばしば混同される)、いまなお中国や朝鮮には同姓不婚の原則が強くある。ここにおける「姓」とは古代においては氏族集団のことを指し示す。

 「姓」というものは祭儀的な血のつながりを示す性質が強く、「氏」というものは現実の社会的な性質が強い。

 ゆえに、社会的な職掌を果たしながら生活する男性は「氏」を名乗り、家庭にあって血の連続を担った女性は「姓」を名乗った。

 今も昔も中国や朝鮮では、女性は嫁いだ後も自らの姓を名乗り続ける。

 周代において、「姫」王室は商(殷)を滅ぼしたのち、各地の有力な都市国家に対して、自らの姓に属する女性を送って、擬似的な血縁関係を構成し、周の王を最高のシャーマンとした擬似的な血縁関係を確認する祭儀による結合体を生み出した。この擬似的な血縁関係による都市国家の霊的な結合体が周王朝であり、「中国」の原型である。

 この結合体の成立において不可欠な「姫」姓の女性は各国において貴人とされ、やがて、擬似的な血縁関係による結合体が崩壊すると実質を失い、貴人の女性一般を表す一般名詞へと転化していった。これが現代の日本で用いられる「姫」の語源である。

 我々が「姫」と用いる時、その語形が表す意味は幾分記号的なものとなり、実際の意味からは乖離したものとなっている。このような漢字の意味の転化はしばしば起きるものである。この結果、漢字はその量において淘汰され、質において、原義を踏まえない意味を持つようになっていくようになるのである。

 このような時代的な変遷の下にある漢字の歴をとりあつかう漢字学については、後日稿を改めて論じたい。

草原について

私が住んでいる栗原の部屋から外を見るとずっと草原が広がっている。ただのちょっとした野原を草原と称するなんて変なことをいうな、という向きもあるだろうが、紛れもなく私の眼前にあるのは草原だ。

 

「草原」という総合科目を受けたことがある(今もあるのか?)

その授業そのものは専門外の理科系の授業だったのだが、そこで聞いたことでいくらか興味深いことがある。

まず、草原というものの定義は、草が目につく景観を持つ土地、ということらしい。つまり、草がたくさん生えてりゃ草原らしい。なんとも、適当な定義だが、これより細かく定義してしまうと、ここはどう見ても草原なのに、細かく定義すると草原でなくなってしまう、とか、あそこはどう見ても草原じゃないのに細かく定義すると草原になってしまうなんてことが起きて、さらにややこしくなってしまう。

 

人間や自然が手を加えて丸裸にした土地が、苔のような植物から、大森林や草原へと時間をかけて変化していくことを「遷移」というらしい。この「遷移」の結果、成立する景観は土地によって異なる。

例えば、この日本なら、ほぼどこでも人為を加えずに「遷移」に身を任せれば、森林へと変化していく。そして、それよりも降雨量などが少なく樹木が生えにくい土地は草原へと変化する。

さっきも言ったが日本の土地は「遷移」に身を任せれば森林となる。しかし、明治・大正のころの国土にたいする草原の割合は11%、現在も3%、これだけ広い地域が草原である理由は一体なぜであるのだろうか。その答えは人間の営為にあった。昔、人間は森林から得る恵みの他に、草原から得る恵みを欲した。具体的にいうと、茅葺屋根の茅、だ。この茅を得るために人々は茅場と呼ばれる草原を人為的に作った。このような草原を二次草原という。日本の二次草原は茅場として維持されてきたが、近年の瓦屋根などの普及は茅需要の減少は茅を得るための二次草原の必要性を失わせたのだ。

しかし、そうはいっても火入れなどの定期的な手入れによって維持されている草原はいくらかも残っている。私の眼の前にある草原もその一つだ。今は、夏真っ盛りで背の高い草(なんと私よりも!)が生えているが、やがて秋になるとすすきの穂が目立つようになり、さらに秋も暮れてくると、いつの間にか火入れがされて、まっさらな土地に戻る。このようにして、日本の草原は維持されているのだ。

 

さて、ここまで日本の草原の話をしていたが、読者諸氏が「草原」というと想起するのは、モンゴルの大草原ではないだろうか。世界の草原の分布を見ると、アフリカだと熱帯のサバンナ、温帯のグラスベルト、南アメリカのパンパ、北アメリカのプレーリーなどが見出せる。しかし、それらの草原のなかでも最も広大な広さを持っているものは、中央ユーラシアにまたがるステップであろう。東はモンゴリアの大興安嶺から西はハンガリーまで広がるステップは、他の追随を許さない広さと「力」を秘めている。

ステップの草原はモンゴルとカザフスタンの間にアルタイ山脈とタイガの大森林によって生み出された狭い地峡が存在する。この地峡の東西で、その植物相や土壌をことにする。この東側のモンゴル高原の草原の土は痩せた栗色の土で農耕には不適であり、モンゴル高原の都市に居住しない住民は未だ遊牧という生活形態をとらざるをえない。

しかし、西の草原においては、豊かな黒土が広がり、ウクライナをはじめとする東ヨーロッパは世界の穀倉地帯としての地位を確立している。

 

この草原の東西における差異は大変興味深いものである。この草原の生産力という点で、ここで私が気がつくのは、近年日本の東洋史の伝統上にある内陸アジア史の学会において主張されている「前近代世界システム論」という、中央ユーラシアの遊牧世界とその周辺のビザンツや中国といった農耕世界の関係によって構成された世界システム論、おそらくはマッキンダーハートランドの理論を踏まえた世界システム観は、基本的に日本よりの草原、つまり東側の草原の世界観を西に敷衍している嫌いがあるのではないか、という点だ。

中国人、漢人はついぞ、近代に入るまでモンゴル高原に入って大規模な農耕世界を広げることはなかった(一応、明代のアルタン・ハーンのもとのモンゴルで牧農複合国家と呼べるものが成立していたことは指摘するに足るが、そういっても、そういうアルタンの国家でさえも、比重は全く遊牧側に置かれていたのだ)が、西側を見ると草原において勢力をもった国家がすべて遊牧生活を基本においている国ではないのである。

ウクライナの草原について考えると、5世紀から6世紀にかけて、ウクライナの草原は突厥との戦いに敗れて東の草原から逃れた柔然ともいわれる遊牧民族のアヴァールが握っていた。その後はブルガール、ハザールと草原の主人は遊牧民族が担っていたが、キエフ・ルーシが成立すると、ウクライナの草原の主人は農耕民族に移っていった。このキエフ・ルーシもモンゴルに敗れて、再び遊牧民族の手に移ったが、やがて、ポーランドリトアニアの手に入り再び農耕民族が主人となり、それ以降、ロシア、ソ連ウクライナと現在まで続き、現在では世界的な小麦の生産が盛んな穀倉地帯となっている。

しかし、このように支配権は移り変わっていっても、人々は政権ほどには素早く入れ替わることはなかった。モンゴルでさえ、ある程度の農耕民が含まれた国家を形成したのに、それよりもより農耕・牧畜の両方に適した西側の草原でそれが行われないはずはなかった。

ポーランドリトアニアの時代から始まり、ロシア帝国の時代にはマンチュリアにおいて日本騎兵と刃を交えた、コサックの民は、農耕民の中に住む遊牧民である。彼らの物語には興味深いものが多くあり、また、ロシアの文人たちの格好の描写の対象となったという点には後日稿を改めて言及したい。

このように西側の草原の世界というものは単純な遊牧世界と呼びうる土地ではない。この、広大な農耕世界と遊牧世界の接点は、単純な遊牧世界とそれを取り巻く農耕世界という、素朴な従来の「前近代世界システム論」の見方をより深くしていくのに十分に足る潜在的な「力」を持っていると私は信じるのである。

 

参考文献など

中村徹 編『草原の科学への招待』2007 筑波大学出版会

森安孝夫「内陸アジア史の新潮流と世界史教育現場への提言」『内陸アジア史研究』26 2011

孫子の戦略論(計篇第一〜謀攻篇第三)

ヨーロッパ語訳の『孫子』と金谷注を底本にして、ちょっと書いてみたものをさらに加筆して、上げてみます。解説めいたものは書かなくてもwikiか何かを少し読めば分かると思うので、割愛しますが、そのうち書くかもしれないし、そこは気分。

CiNii 論文 -  18世紀在華イエズス会士アミオと満洲語

CiNii 図書 - アミオ訳孫子 : 漢文・和訳完全対照版

初期のフランス語訳は満洲語訳の『孫子』を底本にしているという話を上記の新居先生の論文(ネットで読める)で触れているのを見て、どうも筑摩書房から出版されているようなので、そんなことも調べたいなあ、と思う今日このごろ。

 

 

計篇第一

 戦争とは、国家において回避することができない重要な問題である。戦争を始めるにあたって指導者が考慮すべき要素は、「五道七計」に象徴される客観的・具体的な要素の算定・評価と、開戦後における戦略目標(『孫子』においては呉王の制覇)を達成する敵の意表をつく作戦行動、すなわち「詭道」に代表される実地の戦術を導く作戦術の二つである。そこで国家の指導者は、戦争を開始する際の作戦会議において具体的な敵国と我が国の戦争を実際にシュミュレーションし、そこで先述の要素を具体的に検討し、勝利の見込みがたった時、開戦の決意を固めるべきである。

作戦篇第二

 (呉王の制覇という)戦略目標の達成のためには、必要最低限の目標を達成するための極力短期間の軍事行動にとどめ、不必要に戦果を拡大するための戦争が長期化させ、戦費を浪費するような作戦をとることは許されない。(諸国を制覇するために)多数の兵士と物資を動員し、補給線が長大となり、輸送コストが高くなる他国の国土での戦争において、一回の作戦において多くの戦略資源を浪費することは許されない。そのため、作戦においては戦略資源を浪費する戦術を取らず、鹵獲兵器や食料の利用や捕虜の味方への転用(春秋時代当時に捕虜の待遇を定めた規定などない)をはかるなど勝てば勝つほど強くなるような戦術を取ることが重要である。

謀攻篇第三

 そうであるがために、戦略目標を達成するために、必ず犠牲を伴うコストの高い軍事的手段を用いることは最善の選択肢とは言えない。そこで、外交など非軍事的手段によって敵国の戦略目標・同盟関係を打ち破ることが、軍事的手段によることより優先されるのである。戦争においても、極力敵軍の降伏を促す作戦・戦術を採用し、自らが不利な状況ならば、自らの戦略資源を保全する作戦・戦術をとり、決して無理な勝利を狙おうとしてはならない。また、戦争においては後方の国家の指導者と前線の司令官の間には相互補完関係が成り立つ。ゆえに、指導者は、司令官には有為の人材を選抜し、戦略目標を示したならば彼の作戦に関しては干渉してはならない。以上の戦略論を総括すると、敵味方の諸事を知悉した指導者の指導下にある国家は戦略目標を達し、そうでない国家は達しないのである。

参考文献

小野繁 訳『フランシス・ワン仏訳 孫子』1991 葦書房

金谷治 訳注『新訂 孫子』2003 岩波書店