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歴史の多元性――史学徒のかんがえること①――

歴史哲学

 我々、学問としての史学を志す者がおよそ心得ねばならぬ、と私が現時点で考えることについて述べる。不十分だと気づいた点については、後日補足したい。

 

 私が歴史を論じるにあって迷妄であると断じていることは二つ、マルクス唯物史観が主張するような「絶対的な真実の記述による不変の歴史」が存在するということと、「歴史は繰り返す」というテーゼである。

 これらへの批判を大約すると、我々における「過去」というものの性質から、歴史とは現在の視座に立って、自身も歴史の内に身をおく歴史家によって記述される多元的(決して、野放図なフィクションを許容してはいない!)ものであり、決して絶対的な「神の目線」によって記述される不変な一元的なものではない。

 「歴史は繰り返す」というテーゼ、つまり歴史法則というものは、史学を科学と捉える際には必ず要請されるものであるが、その視点の多元性のために、その法則を論証する際に用いる論拠というものを、法則の立脚点となる当の視点の根拠となる部分から引用せねばならず、結局のところ、自然科学のような自然という共通の場を持たないため、循環的な証明を余儀なくされ、十分な説明が与えられない歴史法則は法則として成立しない。

 今回はそのうち、前者、すなわち絶対的な歴史の不在について論じる。

 

 歴史というものにおいて必ず必要なものは、「事実そのもの」と「事実の叙述」である。「事実そのもの」は単体では、まったくの無価値的なものである。例えば、私が昨日、まったく誰の目にも触れることなく道端の石を道の反対側まで投げた、という「事実そのもの」があったとしよう。この「事実そのもの」はこの文章に記述されない限り、あったかどうかも定かではない現象である。叙述になりえない「事実そのもの」は、つまり、存在しないに等しい。例えば、その投げた石に私の指紋が付くなど「事実そのもの」が痕跡を残し得た時、初めて、「事実そのもの」は有価値となる。

 そして、その先行する「事実そのもの」の痕跡、わかりやすく言えば史料や遺物をうけて、歴史家は「事実の叙述」を行う。だから、「事実の叙述」は「事実そのもの」に先行する。要するに「事実の叙述」は「事実そのもの」に依拠しているのである。これは、諸氏も容易に了解するところであろう。

 さて、この「事実の叙述」は「事実そのもの」の二次的な復元行為であると言える。それは、その痕跡から想像される自由なフィクションを許容するものではなく、従来の叙述や他の痕跡を踏まえた合理的で妥当的な叙述でなければならない。ここにおいて、その「痕跡」すなわち「事実そのもの」の存在を示すためには、「事実の叙述」によらなければならない。すなわち、「「事実そのもの」があった」という言明は、「どのように「事実そのもの」があったのか」という問いに応えうるものでなければならない。この前提において、過去における「事実そのもの」と「事実の叙述」は循環的に補完関係にある。

 「事実そのもの」は叙述に対する先行性から、常に過去にある性質を持つ。この過去というものは、我々の記憶にある過去の写像そのものといえる。過去というものは、カントのいう「物自体」と共通の性質をもつ。ゆえに、現存在的である「記憶」と「経験」も共通の性質を持つ。この立場にたてば、歴史家は不可知なる「過去」の写像たる「記憶」を実質的真実である「過去」として取り扱う必要がある。我々は「過去」という不可知の「向こう側」「イデア」的存在から得た「過去」の写像たる記憶の性質は、「過去」そのものとは大差ないだろう、という「信念」の元で「記憶」を元に叙述を行う。すなわち、「事実そのもの」という過去から得た痕跡という自然科学のように実験することができない一回性の「記憶」から、妥当な形へ観念的に再構成され、「事実の叙述」を行うのである。この、記憶に基づく構成を経て、ここにおいて初めて「歴史」というものは成立するのである。

 このように「過去」の写像たる「記憶」の観念的な再構成によって叙述される歴史が、これらの基礎となる「事実そのもの」依拠していることは前言したとおりである。この「事実そのもの」はその叙述によって説明されるものである。そして、その叙述は叙述者の個別性、すなわち「記憶」に依拠している。

 叙述とは「事実そのもの」の原因と「事実そのもの」の両者を繋ぐことによって成立する。例えば、「講道館柔道の創始者は万延元年12月10日に誕生した」という叙述は万延元年10月11日には成立しない。なぜなら、この年に生まれた嘉納治五郎はまだ講道館柔道を創始していないからだ。この記述は講道館柔道が創始されなければ成立しない。このように叙述というものは、時代が変わるごとにその対象となる「事実そのもの」へ与えられる意味合いが変化するのである。故に、歴史叙述というものは一回性のものではなく、その時間において多元的である。

 また、「記憶」の個別性という視点にたてば、叙述者の問題関心、つまり「記憶」の選択傾向によって歴史叙述は多元的なものとなる。歴史叙述というものは、ある程度の「記憶」すなわち史料の取捨選択によってなりたつものである。そうしなければ、叙述者は「記憶」に埋もれ、それに意味付けを行うという本質的行為が不可能になる。もちろん、この取捨選択の結果としての叙述は史料批判に耐えるものでなければならない。

 以上から、明らかにされたことは、歴史叙述というものは、その時間による「記憶」の蓄積によって時間において多元性をもち、さらに「記憶」の個別性のために叙述者において多元的である。ここから私が言いたいことは、このような歴史叙述の性質のもとで、「神」の視座における単一の歴史叙述は、その時間性と叙述者の歴史的な内在性において排除され、絶対的な真実というものは「過去」の不可知性によって否定される。

 ゆえに、不変の真実による唯一の絶対的な歴史というものは存在しない。ここにおいて、国民の「正史」を確立しようとするいわゆる「自由主義史観」の元にある人々の営為は、それに内在する政治プロパガンダ性を無視して、純粋に歴史学という視点で見るならば、なんら唯物史観を掲げる人々の営為と変わることがないのである。

 次回は、「歴史は繰り返す」ということばの批判を通じて、「唯物史観」の根幹にある「歴史の科学性」というテーゼについて考えていきたい。