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ブルガリア史①

  中華人民共和国の西、カザフスタンは草原の国である。わずか20年前には、ソビエト連邦の一部であったこの国は、現代ではムスリムの多い、独立した共和国となっている。このカザフスタンの北東部を通過するイルティシュ川は源流をモンゴルと中国の国境をなすアルタイ山脈から発し、カザフスタンを抜けるとロシア連邦領内に入り、オムスク近郊において、シベリアを流れる大河川であるオビ川に合流する。このイルティシュ川からオビ川、そこから西へ至る水運の要となったオムスクは、16世紀以降のロシアの東進における拠点として、大きな役割を果たした。そして、20世紀に入りシベリア鉄道が完成し、独ソ戦によって工場群が疎開してくるとオムスクはその受け入れ先として、工業都市として発展し、現代でもノヴォシビルスクに次ぐシベリア第二の都市として栄えている。

 このイルティシュ川沿いの草原にある4世紀あたりの遊牧民族のものとされる古い墓は数十センチの盛り土のあるだけの簡素な作りである。このような作りの墓の作り方は遊牧民族にとって特殊なものではない。しかし、これと同様の形式の墓が、予想もしないようなところに存在していることは特筆するべきであろう。イルティシュ川沿いの草原に存在する古い墓と同様の形式の墓は、カザフスタンの遥か西、黒海を挟んだ西岸、ブルガリアに存在しているのである。

 この両者の奇妙な一致は実は偶然の一致ではない。実に、数世紀をかけて、一つの民族が1500年以上昔に、ブルガリアの遥か東、カザフスタン北東部からブルガリアに移動して来た結果を示しているものなのである。

 この移動してきた民族、現代においてブルガールと呼ばれるこの民族は、西の草原世界において大変数奇な運命をたどってきた。

 彼らがイルティシュ川近くの草原から西に移動し始めた年代がいつなのかは明確にはわからない。現代のブルガリア語に残っているブルガール人の語彙から、彼らが現代のトルコ語と親族関係にあるトゥルク語系の言葉を話していたことは明らかとなっている。現代のトルコ人とは違って、その昔、このトゥルク語を話す人たちの多くは草原の世界において遊牧生活を行っていた。遊牧民である彼らは、そのうち有力な氏族を中心とした集団を構成し、草原のうちの良い部分を相互に争っていた。そして、最も有力な集団が、配下の集団に対して、草原を割当て、草原の秩序を保っていた。そして、戦争や天災をきっかけとして、旧来の有力な集団は衰え、新しい集団が台頭し、草原の覇権は移り変わっていった。

 記録に残っている限り、イルティシュ川沿いの草原を含む草原の世界に最初に覇を唱えた集団は匈奴と呼ばれた。後漢のころ、匈奴は天災をきっかけとして、やがて南北に分裂し、この内、北の匈奴は南の匈奴後漢の圧迫に押されるようにして、西へ進んで行き、ついにはヨーロッパ世界に到達した。(匈奴=フン説には、反論もあったが、近年のソグド人研究の成果から、この説の正しさは概ね立証されたとみてよいだろう)この匈奴の次に覇権を握った勢力は鮮卑であった。この鮮卑はやがて、中国の華北に入っていき漢民族と同化していった。鮮卑が漢地に入っていく中で、北方の草原において覇権を握ったのは柔然であった。この柔然はかつての配下の突厥に破れて、西へ敗走していった。ここで勝利した突厥は東は興安嶺から西はアラル海に広がる大版図を確立(突厥第一帝国)し、北朝(拓跋国家)や東ローマと外交関係を結んだ。

 この時代、イルティシュ川沿いの草原に実質的な勢力をもっていた人々は高車、あるいは丁零、鉄勒と史書では呼ばれている、彼らは、草原の支配者に付いたり離れたりを繰り返して、自らの勢力をたもっていた。彼らは一定の支配者をもつ集団ではなく、12の有力な氏族によるゆるやかな連合であったが、その時々の草原の支配者や中国と交渉をもっていた。当時の中国人の記録(『北史』)によると、この高車と呼ばれる集団は匈奴の一派の末裔であるとされ、匈奴と共通する奇獣を祀るトーテム信仰を持っていた。余談ではあるが、後のブルガール人もトーテム信仰を持っており、さらに遠く中国から伝わったのか、彼らは変形された十二支を用いており、この習慣はなんと近代においても見られるのである。そして、この集団が中国人に高車と呼ばれていた時代、4世紀の末ごろから6世紀の間にかけて何らかの出来事がきっかけで、おそらくは柔然との抗争がきっかけで、彼らのうち一部が12の有力な氏族の一つである吐盧氏の一派を中心として、西へ進んでいった。これが、私の想像するところのブルガールの始まりである。

 このブルガールという言葉の由来は、トゥルク語の「混ぜあわせる」という意味の動詞が由来であり、西進した高車の吐盧氏を中心とする集団に他の集団から分裂した、小集団が合流して生まれたことを示唆するものである。当然にそれはブルガールがドナウ川をわたって、現在のブルガリアに入るまでこれは継続しており、人種・民族的な意味でブルガールと高車を結びつけることは、ほぼ不可能である。しかし、集団の中心となった核は、この吐盧氏を中心とする集団であったろう、ゆえにこの集団をブルガールとの連続性と断絶性を考慮して「プロト・ブルガール」と呼ぶ。そして、このプロト・ブルガールに合流していった、これらの小集団の指導者が後の有力氏族となるウキル氏やウガイン氏の始祖となったという憶測も存在するが確証はない。

 イルティシュ川から離れたプロト・ブルガールは、やがて黒海北岸に至った。当時のブルガールの記録は皆無に等しいほど少ないが、ビザンツの記録によれば、二つの大きな集団に分かれていたとも、それらの集団と共存していたともされている。その地に至ったブルガールは比較的弱体な集団で、黒海北岸の他の大きな集団の支配下に入るという選択肢を取らざるを得なかった。6世紀当時の黒海北岸の草原に支配権を確立していた集団はアヴァールと呼ばれていた。勃興した突厥に敗れて西に敗走した柔然とも言われるこのアヴァールは謎に包まれた集団で、東の草原から西の草原まで移動した後、さらに西に移動し、ついに現在のハンガリーまで移動し、そこで西欧のフランク王国カール大帝に敗れて歴史から消滅していった。彼らは大変発達した支配機構をもっており、君主は草原の集団の君主号として多用されるカガン(ハン)の称号を名乗った。アヴァールは自らに服属する勢力に対しては、服属と有事の軍事力の提供と引き換えに服属した集団の独立を保証するという方法で覇権を維持していた。プロト・ブルガールもまた、ある時期まではアヴァールに服属していたと見て間違えはないであろう。

 この物語において最初の登場人物は、この時代の吐盧氏、すなわちドゥロ氏出身のブルガールの実質的な指導者オルガナという男である。

 オルガナがブルガールを指導した時代、彼と彼らの集団をめぐる状況は大きな変化に晒された。彼らを支配していたアヴァールを東の草原にて打ち破った突厥が、東西に分裂したことをきっかけに急速にカスピ海黒海の間、コーカサス地方のあたりまで影響力を伸ばし、かつての仇敵アヴァールビザンツ帝国、サーサーン朝ペルシアと交易の利益をめぐる勢力争いを始めたのである。オルガナは優れた外交官としての才能を以って、この状況に対応した。彼は強かにも、従来通り、アヴァールに服属している裏で、突厥にも臣従を誓い、更にはアヴァールの侵入に悩まされていたビザンツとも外交関係を樹立するという政策をとったのである。こうした外交的な駆け引きでブルガールの地位を保つ一方で、ブルガールの統一した支配の確立は、彼らの存在を列強が割拠するこの状況において、自らの集団を保持するための唯一の手段であるということを自覚していたオルガナは、甥のクプラトに当時の東ヨーロッパ世界における最先端の文明を学ばせるためにビザンツの首都コンスタンティノープルに留学させた。さらに、自身もビザンツからパトリオキスの称号を受け、キリスト教の洗礼を受けた。

 コンスタンティノープルで最先端の文明を学んだクプラトは、留学を終えると628年に故郷の草原へ帰った。そして、アヴァールのカガンの承認ももとにブルガールの指導者となり、勢力を強め、ついにアヴァールから自立し、これを西方に追い払い、黒海北岸草原に覇権を確立したのである。ここに草原の諸部族を統合して成立したプロト・ブルガールを中心とした集団をブルガールと呼び、現在のブルガリアを成立させたドナウ・ブルガール族と連続する集団となるのである。