スナフキンはなぜ旅をするのか(老子をよむ)

 スナフキンはなぜ旅をするんだろう、なんてことを考えながら、ものを書いていたら話が老子に飛んでいってしまい、どうにも老子の解釈になってしまった。

 それを流用して、あとは、なんとなく伝説をすこしだけ取り入れて、老子と尹喜の対話形式ということにして解釈を書いてみた。『老子』に関しては基本的には魏の王弼の注釈を、あとは郭象注の『莊子』のものの考え方をすこし取り入れている。

 

老子道徳経

【原文の書き下し】

第一章 道の道とすべきは、常の道にはあらず。名の名とすべきは、常の名にはあらず。無は天地の始を名づけ、有は万物の母を名づく。故に常に無は以ってその妙を観(しめ)さんと欲し、常に有はもってその徼(きょう=境)を観(しめ)さんと欲す。この両者は同じく出でて名を異にす。同じうするところ、これ玄と謂う。玄のまた玄は、衆妙の門なり。

【解釈】

尹喜「君、どこへ行こうというのだ」

老子「あっちだよ」

「あっちとはどこだ」

「どこでもない。道のあるところだ」

「道なんてどこにでもあるじゃないか」

「道は道というけど、そこにある道じゃない」

「なんという道なのだ」

「そもそも、名前などない」

「では、なぜ道などといったのだ」

「名前がなければ私たちは私達ではない」

「わからない、君は君で、私は私だろう」

「君も私も、始まりにはなかった。君が「君」となり、私が「私」といわれるようになったから存在するようになったのだ。名前は万物の母である」

「はじめにことばありき、か」

「そうともいっていない。言葉は根源ではない。確かに、はじめに何かがあった」

「何かとはなにか」

「名付けることができない。仮に無と呼ぼう」

「無から有が生まれたのか」

「ちがう、まず無があった。無のうちに有がひとりでにうまれたのだ。だから、無と有は同じであるが同じではない」

「ひとりでにうまれる、とはどういうことか」

「無に名付くことが有である。無は有を持たぬから、有を生むことはできない。だから、有はぽっ、と無とはかかわらないところで生まれたんだ」

「では、無は有によって名付けられるもので、有によって初めて現れるものであるのか」

「ちがう。有は無に名付けなければ存在しえない。ゆえに無と有は同じでないが、同じところから出発したものである」

「同じところから出発しているとなぜ分かるのか」

「無と有はお互いに支えあって、一つのものを示しているからだ」

「一つのものとはなにか」

「深い深い見通せないものである、仮に名づけて道という」

「無と有は互いに支えあって道からうまれ、道を指し示すのか」

「まったくそのとおりである」

「そうであるならば、道はどこにでもあるのだろう、なぜ、あえて道を訪ねるためにここを離れるのか」

「離れなければならない理由はない。ただ、道はどこにでもあって、どこにもない。故に道の子である私もどこにでもあって、どこにもない」

「なるほど、道がどこにでもあって、どこにもない、ということは理解した。しかし、君はどうしたいのだ。僕にはそれがわからない」

「道のもとに生きるということは、我を忘れて天地と一体となるということだ。すなわち、天地のゆらぎに誘われて揺れ動いていく、風が導くのだ」

「君には自我があるようにしか見えないし、君は意志をもって旅支度をしている」

「私も天地である。合理によって説明できない欲求は天地のゆらぎそのものである」

「わかった。旅立つがいい。どうか、時々は、風が天地を奏でる音に故郷を思い出してくれ」

「そうであることだな。「故郷は失われても、ポルカは残されたのだ!」と古い歌も言っている」