満洲、ヨーロッパそしてオリエント

 初めて文字を用いた人々は紀元前四千年期のウルにすむシュメル人であったとされる。彼らが用いた楔形文字の影響下にあったのかは定かではないが、エジプトでもヒエログリフが発明され、独自の発展を遂げた。もともとは楔形文字ヒエログリフ表意文字であったものが、次第に表音文字(あるいは表音節文字)となり、このうちヒエログリフを祖としてフェニキア文字が、楔形文字を祖としてウガリト文字が成立した。このうち、フェニキア文字からは現代も用いられているギリシア文字や、アッカド語に代わって古代オリエント世界の共通言語となったアラム語を表記するアラム文字を生まれた。

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(図3 後期アラム文字 出典 世界ことば村「世界の文字」より リンク

世界の文字 )

 このうちギリシア文字はラテン文字を派生させ、現代のヨーロッパで用いられているラテン文字とギリシア文字(とギリシア文字から派生したキリル文字)の文字の祖となった。一方、アラム文字はアケメネス朝ペルシアによって広範囲に広がり、現代の中央アジア南部で話されていたソグド語を表記するソグド文字が生まれた。ソグド文字は当初、アラム文字やギリシア文字などと同様に横向きにつづられていたが、やがて縦書きとなり、文字ごとに分かち書きせずに表記するようになった。

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(図1 ソグド文字によって表記されたマニ教に関する宗教文書 出典 wikipedia「ソグド文字」より)

 このソグド文字は漢字と並んで東部中央ユーラシアにおける文字の祖となり、13世紀にモンゴル文字がうまれ、1599年には清朝の始祖とされるヌルハチの命によって満洲語を表記するために、モンゴル文字を改良した無圏点文字と呼ばれる満洲文字が発明され、1632年にヌルハチを継いだホンタイジによって有圏点文字と呼ばれる補助記号を導入した満洲文字が生まれた。

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(図3 有圏点満洲文字『満洲実録』より 出典 世界ことば村「世界の文字」よりリンク 世界の文字 )

 その満洲語を話すマンジュ人を支配層とする清朝、少なくとも建国以来乾嘉時代にいたるまでは五族と総称される民族によって構成される多民族国家としての性質を強く持っており、従来の「中華王朝」と呼ばれる版図を漢地に限定された王朝(典型的には宋王朝明王朝があげられる)とは性質を異にするという点は、中華中心主義による歴史叙述を排する上で(中華中心主義の歴史叙述を日本人の歴史家が行う意義は極めて薄い!)常に注意を払わねばならない。

 その多民族国家である清朝における言語政策は、言語多元主義と呼ぶべきものであり、支配民族であるマンジュ人の満洲語を中心とし、漢語モンゴル語チベット語ウイグル語の5つの言語を清朝は一種の公用語としての地位を認めていた。その象徴的ともいえる存在は乾隆末期に成立した、上述5つの言語の対照語辞典「五体清文鑑」であろう。

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(図3 雍和宮の扁額 出典 wikipedia「雍和宮」より)

 これらの5つの言語と民族のうち、文化的な伝統の蓄積という面からみると、漢語は大勢において他の言語を圧倒する存在であった。そのため、マンジュ人たちは1644年に漢地に入る以前から「三国志演義」などの中国文献をマンジュ語に翻訳する活動をはじめ、漢地を支配して以降も四書五経や「孫子」などを繰り返し翻訳するなど活発な翻訳活動を行っていた。これらは、漢語の言語文化における膨大な蓄積を満洲語に導入する作業であった。その翻訳の指針として乾隆五年に魏象乾が記した『繙清説』は満洲語へ漢語を翻訳するときの指針を以下のように示している。

 

 “夫所谓‘正’者,了其意,完其辞,顺其气,传其神,不增不减,不颠不倒,不恃取意,(中略)间有 增减、颠倒与取意者,岂无故而然欤?盖增者,以汉文之本有含蓄也,非增之,其意不达;减者,以汉文之本有重复也,非减之,其辞不练。若夫颠倒与取意也,非颠倒则扞格不通,非取 意則语气不解。此以请文之体,有不得不然者,然后从而变之,岂恃此以见长哉? 

 (大意訳)正しい翻訳というものは、原文の意味を了解し、言葉の意を全うし、原文の論の順を改めることなく、その指し示すところを伝える。増やしたり減らしたり、ひっくりかえしたり、意を取ることに頼ってはいけない。(中略)増やしたり減らしたり、ひっくりかえしたりするときには必ず理由がなければならない。増やすということは、もとの漢文に含蓄があるときで、言葉を増やさなければ意味が通じなくなる場合である。減らすということは、もとの漢文に重複があるときで、言葉を減らさなければ訳文が洗練されたものにならない場合である。言葉をひっくり返すということは、ひっくり返さなければ文法的に意味が通じない場合である。意味が分からなくなるように訳すことはしてはならない。満洲語として理解できないとき、そのときはじめて訳文に手を加える。(原文は永田2006より、大意訳は私訳)

 

 このように支配階級であるマンジュ人の満洲語においてすら、翻訳の基準においた言語は自身の母語ではなく、漢語であったのである。すなわち、これは漢語で記された内容を満洲語で語ることができなかったということを示す。ゆえに、当時の翻訳においては、文中に借用語(あるいは直訳)が多く存在し、時代を下るにつれて、それはやがて説明的な漢文の指示するところの内容に近い内容の訳語に置き換えられていった。これのイメージとしては、明治期日本の翻訳において、当初は西洋語をそのまま文中に用いていたものが、やがて西周によって「フィロソジー」が「哲学」に訳されたというように、西洋語に対応した日本語が生まれていったことを想像すればよいだろう。

 このように満洲語訳された漢語は、満洲語自身の言語的な蓄積を増したのみならず、翻訳者たちの思いもよらぬ方面に大きな影響を与えた。それは、遥か西、ヨーロッパから来たイエズス会宣教師たちであった。イエズス会宣教師たちはフランシスコ・ザビエル以来、現地の文化と融和する形でのキリスト教布教を行っており、当然現地の文化の調査も行っていた。当然中国でも、マテオリッチ以来の宣教師たちは中国文化、特に「神を想定することなしに、理想世界を実現する」というキリスト教の教義からは想像もできない理論をもっていた儒教は、彼らの熱心に研究されるところとなった。その一環として、儒教古典、四書五経の翻訳を行った。これは、以下の宣教師たちのヨーロッパへの書簡に示す通り彼らにとって著しく困難な作業であった。

 1702年のフーケ師の書簡では「シナ文字というものは一種の魔法文字で、はじめは判読不能のように見えます。しかし、じっとみつめ、そして想像力と記憶力をとことんまで使うと、それに見分けがついてきて、分かり始めるのです」(矢沢 1970)と言及し、宣教師たちは漢語(こと文語)の理解がこんなんであることを認めている。彼らは、漢語の学習のために北京で「もっとすぐれた教師」(矢沢 1970)を見つけることができることに言及し、この言語を通じてのみ初めて布教が可能になる、としている。また、1703年のド・シャヴァニック師の書簡では更に詳細に「この国の文字について申しますならば、ひとがこれを学習する労苦を我が身に課することのできますのも偏えに神のためなればこそであることを確言します。五ヶ月間たっぷりかけてわたしは一日八時間辞書を写しました。この労働はわたしについに字を読めさせるようにさせました。そしてわたしは十五日間当地で一読書人について、朝夕三時間ずつ漢字を調べ、子供のようにたどたどしく読んで暮らしました」(矢沢 1970)と漢語学習の状況について報告している。

 このような状況において、宣教師たちが注目した手段は、表音文字によって表記され、簡易な語彙体系をもつ満洲語翻訳の利用であった。

 1703年のド・フォンタネー師の書簡は「(北京において康煕帝と親しかったブーヴェ師とヂエルビヨン師に)非常に愛顧をお与えになった皇帝は、帰京されたのち、かれらと会話することができるようにするため、韃靼語(満洲語)を学習するようかれらにお勧めになりました。皇帝はこのためにかれらに教師をお与えになり、かれらの勉強に特別の配慮をなさって、かれらに質問されたり、かれらの作文を親しくお読みになったりまでして、かれらがこのシナ語よりは遥かに学習し易い言語にどれだけ進歩したかを試そうとなさりました」(矢沢利彦 1970 カッコ内は筆者)と、宣教師の一部に康熙帝満洲語を学習させていたことを明らかにしている。

 ド・フォンタネー師が書簡内において満洲語を学習した、と言及していたブーヴェ師が1698年に記した『康煕帝伝』では、この満洲語学習について以下のように述べる。

「(康煕帝の宮殿には)漢文の名著を韃靼語に絶えず飜訳している練達の士が控えております。その結果、韃靼語がきわめて豊富になります。特に韃靼人に対しては漢文の名籍に対する理解がたやすくなります。彼らの多数は殆ど漢文に熟達しておりませんから、漢文の名著が韃靼語に飜訳されてなければ、碌に読むことも出来ないでありましょう。この利益は彼らにとっても、宣教師にとっても共通なものであります」(後藤末雄 1970 カッコ内はは報告者) と満洲語の学習が宣教師の中国古典解釈に資したことを述べ、その理由として「(韃靼語は)文法とから見て、漢語と比較すると、韃靼語の方が遥かに容易でありますから、宣教師は僅かな間に韃靼語訳によって漢籍を利用することができます。宣教師は漢文を数年研究したあとでも、ただ不完全に漢籍を理解することが出来るにすぎません」(後藤末雄1970 カッコ内は筆者)

 このように満洲語翻訳の利用による宣教師たちの漢籍理解に関する実例としては、18世紀に宣教師アミオによって翻訳された『孫子』などが研究されているが、先述したヨーロッパにさらに大きな影響を与えた中国文化といえる儒教古典に関する研究は、その端緒にすら達していないといえる状況である。

 オリエントの地に生まれたフェニキア文字は形を変え、アラム文字、ソグド文字となり、そしてモンゴル文字を通じて、満洲文字となり、ユーラシアの東端に至った。そして同じくフェニキア文字から派生したラテン文字を用いるユーラシアの西端のヨーロッパ宣教師たちによって、それは再び同じ場に立った。この起源の一致と3000年の時を経た再会は、ナショナルヒストリーでは見出し得ない「世界史的できごと」であり、西洋優位主義あるいは東洋優位主義といった一面的な見方を包括した「世界史」という視座によって初めて見出しうる歴史叙述であると私は考えるのである。

 

参考文献一覧

緒方康「大清帝国の言語政策」『紀要』40号 pp.45-68 2013

永田小絵「中国清朝における翻訳者および翻訳対象の変遷」『通訳研究』6号 pp.207-228 2006

後藤末雄 訳(1970)『康煕帝伝』平凡社

矢沢利彦 編訳(1970)『イエズス会士中国書簡集1康煕編』平凡社

 

井川義次(2009)『宋学の西遷――近代啓蒙への道――』人文書院

後藤末雄(1969)『中国思想のフランス西漸 1』平凡社

堀池信夫(2002)『中国哲学とヨーロッパの哲学者 下』明治書院