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ロジャー・ベイコンにおける「イスラーム世界」の創造

  当時の中世西ヨーロッパでは既に失われていた、イスラーム・スペインのイブン・ルシュド(ヨーロッパでは転訛してアヴェロエス)やイブン・スィーナー(同じくアヴィセンナ)らイスラームの哲学者によって注釈され保存されていた古代ギリシア文化の遺産あるいは当時においては先進的存在であったイスラーム文明が流入してきたことによって学問・文化活動が活性化した時代である12世紀(いわゆる、12世紀ルネサンスの時代)の成果は13世紀において消化吸収され、トマス・アキナスと言った中世を代表するスコラ哲学者を生み出し、神学から哲学が独立し、後の西洋哲学が発展するための基礎が成立した。そして、この12世紀の成果を消化吸収し、イスラームの諸科学をうけて独自の経験科学の体系を構成し、光学などに大きな功績を残し近代科学の先駆者とされた人物がイギリスのサマセットに生まれたロジャー・ベイコンである。

 ロジャー・ベイコンは当時のオックスフォードにおいてアヴェロエスらの注釈によるアリストテレスの思想を学び、1232年頃パリ大学に渡り、講義を聴講しつつアリストテレスを教授していたという。そして、当時の教皇クレメンス4世の庇護を得、彼の主著である『大著作』はクレメンス4世に献呈するために彼が加入していたフランシスコ会の規約に反して秘密裏に著述されたものであった。(高橋1980)

 ロジャー・ベイコンがパリ大学に渡った時期と同時期、モンゴルではオゴデイはクリルタイを開催し、バトゥ率いるモンゴル軍による西方侵攻が決定された。バトゥの軍勢はヴォルガ・ブルガールをはじめとする遊牧民を打ち破り、さらに1240年までに諸ルーシを滅ぼし、翌年ポーランドのワールシュタットにおいてヨーロッパ連合軍と戦い、これを破った。幸いにも、この時には略奪にあうのみで、ヨーロッパ世界がモンゴル軍によって占領されるということはなかった。しかし、「彼ら(モンゴル人)はキリスト教徒を全滅させようとしているのだと信じこみ、恐怖に震え上がる。人々は「地獄からきたもの」[ex Tartaros]というラテン語と、タタール(モンゴルの別名、韃靼とも)とからモンゴル人をタルタル人[Tartars]と呼ぶようになる」(堀池 1996)というような恐慌状態にヨーロッパ人たちは陥ったのである。

 そうした状況下においてタタールの恐怖を克服するため、彼らは伝説上のクリスチャンの王であるプリスター・ジョンを発見し、これと共闘、あるいはタルタル人にキリスト教を布教し、モンゴル帝国と和親を結ぼうという目的で度々使節が東方に派遣された。だが使節たちは、プリスター・ジョンをついぞ発見できず、謁見したモンゴル皇帝からも服属の要求を受け取るばかり(堀池 1996)で、前述の政治的目的を果たすことはできなかった。しかし、最初にモンゴルへ派遣された使節プラノ・カルピニのジョバンニの『蒙古記』、ジョバンニの報告を受け派遣されたリュブリュク・ギョームの『イティネラリウム』は貴重な東洋情報をヨーロッパに与えたのである。特に後者のギョームは直接ベイコンと会見しており、その著書(『大著作』)にもギョームの名前が散見され、彼のベイコンに与えた影響の大きさを推し量ることができる。このギョームの与えた東洋情報のうち、ベイコンが重視したものに東洋の宗教情報があった。ギョームは東洋の宗教を①テングリ(天)信仰②偶像崇拝(仏教道教)の2つに重点をおいて報告している。

 

 このギョームらの地理的発見と宗教に関する報告を受けて、ベイコンは政治体制の比較に関するアリストテレスの『政治学』における議論を敷衍し、独自の世界観を提示した。

アリストテレスは『政治学』において様々な宗教を挙げている。彼は宗派と国の法の中に4つ5つの単純なものを考え、どの法が王国を崩壊させるか、させないかを見出そうとしているのである。ここで、私は、現在世界の中に見出しうる宗派について述べる。すなわち、サラセン、タルタル、異教徒、偶像教徒、ユダヤ、キリスト教徒である。アンチキリストの宗教が現れるまでは、主な宗派はこれ以上には出ない。(Becon 1962)」

 以上のように、宗教とそれと深く結びついた人間社会、つまり宗教世界の優劣を、彼が知りうる世界のすべての宗教を網羅的に列挙し、比較した。そして、諸宗教がみな同意しうる哲学的理性を基礎とし、神の啓示の問題や立法者の有無あるいは立法内容の善悪など、具体的な議論によって、ベイコン自らが属するキリスト教世界の優位を主張したのである。

 このベイコンの分析はキリスト教的価値観を前提としつつも、なぜそれが優位に立つのか、という点について、広く彼が知りうる世界における宗教をすべて列挙し、それらを相互比較することによってキリスト教の優位を主張した点において、単純にその教義の中においてキリスト教の優位を主張していた従来の論と比べて、彼の論は革新的なものであった。(堀池 1996)

 以上に見てきたようにベイコンはその分析において諸宗教世界の一つとして「サラセン」を想定していたことは明らかとなった。ここにおける「サラセン」は単純に本書がいうような民族的「サラセン人」であろうか。彼における「サラセン人」はキリスト教徒や仏教徒(あるいは道教徒)などと並ぶ理念的なムスリムを示していることは明らかである。つまり、ベイコンはその著作において「サラセン」という名前において「イスラーム世界」を想定していたのである。

 では、なぜこのような13世紀という早い段階においてベイコンは「イスラーム世界」を見出したのであろうか。その理由として、13世紀という時代における「キリスト教世界」意識の醸成とモンゴルの出現があると私は考える。

 12世紀より始まった十字軍は、ヨーロッパ人にイスラームと相対することによって自らの宗教世界を強く意識させるきっかけとなった。ことアラブから流入した新知識群の影響をうけ、その有用性を訴えた(降旗 2007)フランシスコ会士ベイコンにとってキリスト教世界に対する「イスラーム世界」が存在するという意識が強くあったことは信じるに足ることである。

 そして、13世紀のヨーロッパにおける最大の衝撃は東よりきたモンゴル人たちであった。この衝撃はヨーロッパ世界の再結束を促した。その中で、第7回十字軍がアイユーブ朝を攻撃する直前にキプチャック・カン国のバトゥはルイ9世に対してイスラームに対する共闘を持ちかけたことは、ギョームを東洋に派遣する直接の原因となった。このような国際情勢においてモンゴルに派遣されたルイ9世の側近であるギョームが「キリスト教世界」「イスラーム世界」「モンゴル」という3つの世界を強く意識していたことは十分に考えることができる。そして、彼の世界観がベイコンに影響を与えた、あるいは彼の世界観に類するそれが一般的にヨーロッパ世界に存在していたということは彼の著作を見る限り十分な可能性を持つ。

 この事実はヨーロッパ世界において「イスラーム世界」という概念は19世紀以降に成立したものである、という従来の説(羽田 2005)に対して、見逃すことのできない点であると私は考える。しかし、この「イスラーム世界」認識と19世紀以降の「イスラーム世界」認識に連続性はおそらくはなく、言い換えるならば19世紀において「イスラーム世界」は「再創造」されたのである。すなわち、ヨーロッパにおいて13世紀の「イスラーム世界」はやがて、ヨーロッパと対峙するオスマン帝国(トルコ人)と同義のものへと変容していき、キリスト教世界自体も分裂していき、やがてその本質たる「政治=宗教」体制による世界認識を不可能にならしめていき、やがて消えていったのである。

 

参考文献

堀池信夫『中国哲学とヨーロッパの哲学者 上』1996 明治書院

高橋憲一「ロジャー・ベイコンの生涯と思想」『科学の名著 ロジャー・ベイコン』1980 朝日出版社

降旗芳彦「ロジャー・ベーコンと異教(中世キリスト教思想界における他宗教理解の諸相,パネル,<特集>第六十五回学術大会紀要)」『宗教研究』80-4 pp..86-87 2007 日本宗教学会

Robert Belle Burke(1962) The Opus majus of Roger Bacon New York