言語論的転回の先へ(イスラーム哲学について)

 言語論的転回は、従来の普遍的真実の存在を希求していた哲学に対して重大な挑戦をもたらした。すなわち、真実という外在的なものは存在せず、すべての存在は言語の分節作用によるのである、という言語論的転回の言説は、「われ思うゆえにわれあり」という自己意識認識から出発して演繹的に分析しようとした大陸哲学の根拠となる部分を揺るがしたのである。(この点については深くは言及しない)

 この言語論的転回の状況にあって、すべての根拠は言語とその話者におかれることとなる。転回された根拠において、我々がいかにふるまうべきか、という点については以前、歴史叙述について言及したときに述べたので、関心のある人は読んでほしい。

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 ここですべての根拠が我々に帰結し、我々がそれを支えるということは、無制限の責任を自分たちに課すということである。自らの歴史叙述に対して、その歴史家がすべての責任を負わねばならないように、我々は自らの人生に対して、我々はすべての責任を負わねばならないのである。すなわち、現在から死をつなぐ人生に対して、外部接続的、整合的に叙述しながら生きる全責任を我々は負っているのである。

 実に、この苦しみは結局のところ、すべての根拠が我々自身、すなわち言語の話者にある点によるのである。ならば、この根拠となる言語の分節作用を超えたところに私を再び見出し、言語から「私」を再び自由にすることはできまいだろうか。

 私は、その答えとして東洋の思想を見出す。そこで、まず今回はヨーロッパ世界の隣、イスラーム世界の哲学、特にイブン・アラビーの哲学を見ていくこととしよう。

 

 イスラーム哲学というと諸氏が想起するのは、11世紀のアヴィセンナあるいは12世紀の哲学者アヴェロエスといったアリストテレスの注釈者たちであろうか。ヨーロッパ世界において彼らの影響下にあったトマス・アキナスらによって神学から哲学が独立した。一方で、イスラーム世界においては思弁哲学と神秘道は神と実在にいたる手段として鋭く対立していた。井筒俊彦は両者を「質量的なものに纏綿された肉体的「われ」の思惟であるスコラ哲学と、質量的な要素を離脱して純粋精神に変貌し、いっさいの存在者を無に帰しながら、万物無比の道をたどりつつ、自ら無の主体となる、スーフィー的体験の否定道」と対照的に述べている。

 以下のスコラ哲学の哲学者アヴェロエス神秘主義の思想家イブン・アラビーのエピソードは、両者の峻厳な対立を示すものである。

 

 若いイブン・アラビーは老哲学者アヴェロエスのもとを使いとして訪ねた。イブン・アラビーの超絶した精神的能力を知っていたアヴェロエスは彼を歓待し、敬意を表した。そして、こういった。

 「そうか?」

イブン・アラビーは「はい」といった。

老哲学者は異常な興奮と歓喜を示した。イブン・アラビーは老哲学者の興奮の原因を知ったため、こういった。

「いいえ」

老哲学者は震え、一言も発することなくただ震えるのみであった。

 

 つまり、「はい」とは哲学的思弁の結果として神や実在にいたることを肯定すること。「いいえ」とは、神や実在はそのようなアプローチではいたることができず、ただスーフィー的体験においていたることができる、ということである。

 ここで私が注目するのは「はい」ではなく「いいえ」のほうである。この「いいえ」の方法のことをイスラーム神秘主義あるいはスーフィズムと呼ぶ。

 ここからスーフィズムの世界観をみていく。

 スーフィーを直訳すると「羊毛の人」という意味であり、転じて羊毛というぼろ着をきて修行する人という意味になった。彼らは五感で感じうる世界は表層的なものであり、この表面的世界、そしてその中における意識にはより深いものがあって、その奥底においては、表面における万物の多様性は失われ一に帰していく、それにしたがうように我々の自意識も溶解していくとしている。その状態こそが真実の状態であるとスーフィーは信じる。

 現実世界における意識を瞑想によって深めていくと、我々が現実世界の万物を認識していた光は失われていき、万物の差別が失われた闇にいたる。しかし、その闇の中には、あるいは闇そのものが本当の光であり、偽りの現実を見せていた光が消えるにしたがって、本当の光は全宇宙を煌々と照らす。

 この本当の光のもとにおいて我々の自意識は静まり、真の我を見出すことによって消滅しするのである。この真の我とはスーフィーにとっては神そのものなのであり、この状態に入ったスーフィーは神としての言葉を語るのである。ハッラージというスーフィーは「われは絶対者なり」と宣言し、神を冒涜するものであるとして殺されたが、スーフィーの論理によれば、この状態に入ったスーフィーは神そのものであり、なんら神を冒涜するようなことはしていないのである。

 スーフィーのこのような神秘主義を哲学へと転換させていったのが、先述のイブン・アラビーである。アヴェロエスのような現実世界、スーフィーたちのいう世界の表層のみで哲学を行う行為は、より本源的な深層を顧みない小賢しい行為であるとした彼は「深層の極致」を経たうえで現実世界において哲学を行うこと、すなわち、現実世界の言語的分節を超越した深層世界に瞑想によって至り、これを浅層世界、現実世界の哲学の出発点とするということによって初めて神あるいは実在に迫ることができると主張する。

 現実世界、浅層世界は分節の世界である。しかし、その分節はスーフィー的瞑想の結果、やがて失われていき、つまり「犬」あるいは「dog」「Hunt」として分節されていた存在は、深層に向かうにつれて揺らぎ、ついに他の存在と溶け合っていく。そして意識もまた、「存在」という未分節の海にとけていき、完全に内的になんも含まない一つのものにいたる。これが、イブン・アラビーの「存在」、井筒俊彦のいう「実在のゼロ・ポイント」あるいは中国哲学の「道」「太極」である。

 この絶対無限定者は、内部的に分節可能性をもっている中立的実在へと変化し、さまざまな分節をとげ、「大海から打ち寄せる波のように」現実世界へとあらわれていく。

 この「存在」状態を経たとき、浅層世界、現実世界は再び転回を遂げる。すなわち、AがAであると言語的に認識されたとき、その存在が生まれるのであるという認識に基づく言語が存在に先立つという状態に対して未分節状態の真実在性を根拠として、分節以前の存在性、すなわち自己のうちに分節される可能性を内包した存在体を想定することが可能となる。つまり、言語によらずに意識が存在を存在たらしめる可能性であり、その一つの発露がムハンマドなどが得たとする神の「啓示」であるとするのである。

 この絶対無限定者を根源として考える思想は実に東洋哲学に共通するものであると井筒俊彦はいう。今回、イスラーム哲学を取り上げたのは、東洋のなかでも我々の馴染みのないイスラーム世界においても我々と馴染みのある儒教道教仏教などといった諸東洋思想と共通する要素があるのであるということを示すという目的もあったからである。言語論的転回という状況、そして普遍が失われた現代、我々は如何に生きていくのか、我々はこの難問を解くために多様な挑戦を行う必要があると考える。

 

参考文献

井筒俊彦イスラーム哲学の原像』1980年 岩波書店