ブルガリアの源流とその時代 (ブルガリア史②)

 ブルガールの指導者であるクプラトは、アヴァールから独立すると瞬く間に、黒海の北岸、現代のウクライナコーカサス北部の広い草原に勢力を拡大した。ブルガールの伸長に伴って、かつてのブルガールの支配者であったアヴァールは西進し、現代のハンガリーのあたりに移った。西進したアヴァールフランク王国と境界を接し、農耕民であるスラブ人と結合してフランク、ブルガール、スラブの三者に滅ぼされる9世紀初頭まで勢力を維持したのである。

 当時の世界情勢においてアヴァールにとって、現在のトルキスタン、すなわち中央アジアとの連絡路をブルガールによって遮断されたことは、彼らの従来の生活方式を改めねばならぬほどの衝撃となった。

 アヴァールやブルガールをはじめとする遊牧民族は、その勢力に維持のために絶えず経済力をその手に収めている必要があった。つまり、自らの従属下にある諸集団に対して、経済力を独占することによって優位を維持し、軍事力という「ムチ」と経済力という「アメ」を取り合わせて用いることによって、その集団を維持したのである。

 そして、彼ら遊牧民族にとって、その経済力の源泉は農耕世界であり、それを結合し交易するオアシス民であった。7世紀当時のユーラシアにおける先進地域は、ビザンツ帝国やペルシアを抱える現代の中近東地域と唐、すなわち中国であった。これらの地域で生産された商品を、両者の中間地帯である現代の中央アジアを介して交換するシステムが「シルクロード」なのである。その、ペルシアの工芸品や中国の絹あるいは馬をはじめとする家畜、そして奴隷が盛んに行きかったシルクロード世界における交易の担い手の多くは、「ソグド人」と呼ばれる現代のタジキスタンウズベキスタンにあたる地域に点在したオアシス都市国家民であった。ソグド人の交易ネットワークは中央ユーラシア全域にわたり、西はビザンツから東は唐にまで及んだ。そして、その交易による利益はオアシス都市国家を潤し、それらのサマルカンドやブハラをはじめとするオアシス都市の発展は経済的発展は著しいものがあった。このオアシス都市民に対して遊牧民は、自らの持てる商品である馬あるいは家畜と商品を交換するだけでなく、その卓抜した軍事力をもってオアシス諸都市国家から直接経済的利益を得た。

 つまり、オアシス都市国家の経済力は遊牧民にとって、自らの勢力を確保するために必要不可欠な存在であり、彼らはこの利益をかけて存亡をかけた争いを行った。

 アヴァールの西遷は、この争いに敗れたことを示すのである。黒海北岸草原の東部は遊牧民にとってオアシス民の経済力と結合できる絶好の要衝であり、これを介した交易路をブルガールによって途絶されたことは、アヴァールが従来のシルクロード世界から得る経済的利益を享受できなくなったことを意味している。そして、西進したアヴァールは直接農耕世界から経済的利益を得ようと試み、当時国家を組織するだけの段階になかったスラブ人と連合し、これを組織することによって従来の遊牧民族としての方法を改め、農耕民族と遊牧民族の二元的支配に転換することによって、ほぼ2世紀という草原の遊牧民としては比較長いといえる期間にわたって勢力を維持することに成功したのである。その背景としては、東ヨーロッパ内陸部という自然環境が遊牧と農耕のどちらにも適した土地であったため、遊牧民的生活と農耕民的生活を同じ領域において両立させることができたことがあげられる。

 このアヴァールの先例は、アッティラ死後急速に崩壊した同じ遊牧民族のフン人と比べると、その相違がはっきりとする。アヴァールが農牧複合国家として命脈を維持したのに対し、フンが消えていったことは、彼らの生きた遊牧世界がシルクロード世界の成立以後と以前において決定的に変質していったことを明らかにするのである。アヴァールは、以後に成立する遼、金、元、清あるいはドナウ・ブルガールといった征服王朝の先駆的な例なのである。

 しかし、その先駆的な価値に相反して、アヴァールについて語る歴史書はほとんどない。