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騎兵の歴史

 紀元前5千年紀に馬(あるいはロバ)が家畜化されてから戦闘に用いられるようになったのは、スポークを用いた軽量な車輪を用いることが可能になった紀元前3千年紀のことである。

 歴史に記録されている最古の騎兵の記録は紀元前2600年代の古代初期王朝時代のウルでつくられた所謂「ウルのスタンダード」に存在する。裏表からなるウルのスタンダードのうち「戦争の場面」と呼ばれる面には武装した兵士が乗る4頭立てからなる馬車が描かれており、戦争に用いられていることがわかる。当時の段階では騎乗するということはされず、馬に車をひかせる形で用いられていたことが窺えよう。

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図 ウルのスタンダード「戦争の場面」

(出典 ウルのスタンダード - Wikipediaより)

 このような戦争に用いる馬車は古代世界の各所にみられ、当時のこのことを、古代中国では「戦車」、オリエント世界では「チャリオット」と呼び、「孫子」や「旧約聖書」列王記が示す通り、強力かつ貴重な戦力とされた。当時の戦車は当然として、近代の騎兵と比較すると機動力の点において劣り、「周礼」(偽書とする説が有力であるが)によれば戦車一両に対して20人の歩兵が随伴すると記載されており、基本的には歩兵とほぼ同じ速度で行動するものであったことが推測される。

 騎兵が歩兵に卓越する機動力を獲得したのは、紀元前1千年紀のアッシリアのアッシュールナツィルアプリ2世の時代であるとされ、鐙も鞍も存在していなかったため馬上で武器を扱うことが困難であり、当時の騎兵は騎手と弓手の二人乗りで騎乗していた。その後、鞍が発明されると騎手一人が戦闘を行うようになっていった。ただし、騎乗での戦闘は相当な熟練が必要であり、遊牧という生活スタイルを確立した人々は馬匹を得やすいという点、幼いころから騎乗に慣れているという点において優れた騎兵であり、農耕世界では、馬匹を養うために多大なコストを必要とするため騎兵は一部の貴族層・裕福層しかなることができない存在であり、また騎乗の練度の点からも大きく遊牧民に劣る農耕民は重装歩兵による密集戦術を進歩させ、歩兵中心の軍隊を編成していた。しかしながら、紀元前307年に趙の武霊王が胡服騎射を導入するなど、遊牧民との抗争を通じて草原と境を接する地域に居住する農耕民も騎兵戦術を導入していった。さらに、農耕民は騎兵を持つだけでなく、遊牧民と同盟して、別の遊牧民との抗争のための戦力とすることも往々にしてあることであった。当時の騎兵は馬から振り落とされないために馬体を左右の脚で挟む必要があり、当然ながら前後の衝撃に対して踏ん張ることができず、いかに騎乗技術に長けた遊牧民といえど「パルティアンショット」に代表されるよう騎兵の武器の主体は弓であった。

 4世紀魏晋南北朝時代の中国北部において発明された鐙(あぶみ)は、これまで高速で機動する弓手としての騎兵から、機動力と衝撃力を兼ね備えた戦力として、従来歩兵が持っていた地位を完全に奪うことに成功したのである。そして衝撃力と機動力にみあった防御力を手に入れるため農耕世界・遊牧世界の両方で騎兵の重量化が進行し、騎兵は騎手、騎馬ともに重い鎧に覆われた。この重騎兵はその機動力の一部を犠牲にして衝撃力と防御力を手に入れた槍騎兵となり、従来の高い機動力をもつ弓騎兵とともに用いられるようになった。この重騎兵化の極致として、ビザンツ帝国で主用された6世紀に名将ベリサリウスによって発明された「カタフラクト」はこの槍騎兵と弓騎兵を合わせた重装甲の騎士であった。しかし、このような著しい重装備は結局のところ重騎兵、あるいは歩兵相手であるならば有効であったが、軽騎兵相手にはその衝撃力が用をなさず、逆に犠牲となった機動力を逆手にとられ、不利となったのである。

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図 カタフラクトの再現

(出典 カタフラクト - Wikipediaより)

 

 この重騎兵の発展は遊牧民族の軍事力の農耕民族への卓越を示しており、鮮卑拓跋部による北魏から唐帝国にいたるまで、彼らの国家は農耕民族と遊牧民族の融合体としての性質をもち、遼・金・元と遊牧民族による中国支配が清朝にいたるまで続く「征服王朝」の時代をもたらしたのである。

 この重装化の結果として騎兵は、一方の農耕世界であるヨーロッパ世界においてはその維持が高価なものとなっていき、騎兵は特権的貴族階級と同義のものとなり、騎兵は少数精鋭の衝撃力となっていった。しかし、このような重騎兵はその機動力が防御力に置き換えられた中途半端な性質のために槍騎兵・弓騎兵に分かれた13世紀のモンゴル軍との戦闘においてその弱点を露呈した。また、その衝撃力を発揮しえないときは1415年のアジャンクールの戦いが示すとおり重騎兵はロングボウを装備した歩兵にすら敗れることとなったのである。

 そして、一方でこのアジャンクールの戦いで、初めてヨーロッパにおける戦闘に利用されたとされる火器は、歩兵の攻撃力が騎兵のそれを上回らせ、つまりいかに重装甲の鎧であってもこれを破る火器の前には無力にさせ、従来の重騎兵のあり方を一変させた。

 ヨーロッパにおける火器革命は騎兵を近代的なものへと変容させた。騎兵の近代化は、騎兵を衝撃力と機動力に特化する方面と、その機動力と火器とを組み合わせる方面へと進んだ。

 前者の方面を推し進めた騎兵の精華は、ポーランドの騎兵「フサリア」であるといえよう。彼らは重い甲冑は用いず、その機動力と長槍を生かした密集突撃戦法は騎兵の衝撃力を最も発揮し、その機動力により当時の火器銃撃や砲撃に対しても優位にたっていた。1683年の第二次ウィーン包囲における救援軍のうち、ポーランドのフサリア3000騎の突撃の衝撃力は15万のオスマン軍の中央を突破し、オスマン軍の指揮系統を混乱させ、ほかの救援軍にオスマン軍を分断撃破させた。しかしながら、これは騎兵が戦闘において、その後の歴史を決した最後の例ともいえよう。この強力なフサリアはポーランドの弱体化に伴って、財政的に維持することが不可能になり、18世紀に入ると縮小解体されてしまったのである。

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ポーランドのフサリアの突撃

(出典 ユサール - Wikipediaより)

 

 一方で火器と機動力を組み合わされた騎兵は「竜騎兵」とも呼ばれ、火器によって攻撃力を増した歩兵と、新しく生まれたより強力な火力をもつ砲兵と組み合わせる三兵戦術のもとで運用されることとなった。17世紀のスウェーデン王アドルフ・グズダフによって確立した三兵戦術は、口径を統一したマスケット銃歩兵による斉射、機動力・衝撃力を生かした騎兵による突撃、軽量化によって野戦砲として運用が可能になった砲兵の協同による戦術であり、これは技術とともにフリードリヒ大王などによって更に進歩し、ナポレオンによってひとつの到達点に達した。

 この三兵戦術と同様の戦術は、17世紀18世紀の中国でもみられ、清朝の八旗制度も三兵戦術的な戦術を取り入れた軍隊であり、基本的に八旗満洲・蒙古は騎兵、八旗漢軍は砲兵、緑営は歩兵としての役割を果たしていた考えられる。(もちろん、これは純粋に軍事的な視点から見たひとつの偏った見方であり、実状は時代によってもかなり異なるということには注意)、清・ジューン=ガル戦争においては清側も砲兵を用いたばかりでなく、遊牧民族であるジューン=ガル側もキルギス人砲兵を用いているなど、双方ともに火器を取り入れた戦術を行っていたことは注目するべきであろう。

 この三兵戦術は基本的には、第一次世界大戦まではヨーロッパの軍隊の基本的ドクトリン(戦闘教義)であったが、火器の発達は次第に騎兵の活躍の場を失わせ、普仏戦争におけるブレドー旅団のごとき活躍はついに第一次世界大戦では見ることができなかったのである。(ただし、第一次世界大戦の段階にあっても騎兵将校は騎兵による突破の成功を信じており、ソンムの戦いでも騎兵の集結が行われていたが、結局は騎兵は投入されず、一方この戦いで近代的な意味での「戦車」世界で初めて投入されたということは指摘するに足りる興味深い事実だろう)

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図 ブレドー旅団の突撃

(出典 アーダルベルト・フォン・ブレドウ - Wikipedia)