読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

孔子以前の儒教

 以前から何度か言及している秋山好古の名前である「好古」は以下の論語の一節に由来している。

子曰、述而不作、信而好古、竊比於我老彭(述而)

 この有名な一節は、現代ではその重点を「述而不作、信而好古」の部分に重点を置いて解釈されているが、この一節を儒教というものの歴史を明らかにするという立場で見た場合、この一節の重点はその後半におかれる。すなわち、孔子が私淑したという「老彭」とは一体何者なのか、孔子が創始したとされる儒教とそれ以前のプロト儒教の関係はいかなるものであるのか。すなわち、中国思想の主要な潮流をなした儒教孔子を前後としてどのように変わっていったのか、これをこの一節から明らかにしていこうというのである。

 我々は常識として儒教孔子がはじめたものである、と考えているが、この一節から孔子は明確に自ら以前の伝統の後継者であることを意識していたということがわかる。それでは、一体、孔子はどのような存在の後継者であるというのか。

 孔子は「儒」という伝統のうちにある多くの人の一人であったと考えれる。その孔子の伝記から分かることとして、孔子の母は「儒」であり、彼が若い時代からおよそ40代に至るまでのほぼその前半生ともいえる長い期間、孔子は「儒」として生きてきたのであり、その後も「儒」としての伝統のもとに生き、それを基礎として自らの教えを祖述している。

 それでは、「儒」とは何者か。

 「儒」とはシャーマンである。

  白川静、あるいは加地伸行によれば、「儒」のうち「需」とは頭蓋骨を被った人間の意味であり、許慎の「説解文字」によれば「雨を而(ま)つ」、つまり雨乞いの意味であり、どちらにしても「儒」とはシャーマンと呼ぶことのできる性質をもっていた人物であるということがわかる。

 昔、歴史に残らない時代、すなわち先史時代から存在していたシャーマン的な伝統に従事していたシャーマンを「原儒」という。この「原儒」は葬儀や占いなどといったことを取り扱っていた。しかし、身分が分化し、支配層と被支配層が発生すると、「儒」は、それぞれについて二層化していった。それらを指して、巫(ふ)と史(し)祝(しゅく)という。

 「巫」は主に祭儀に従事するシャーマンであり、巫の字は、呪具(工)を持つ人という形を示す。彼らは主に、民間の祭儀と関係をもっていた。

 「史・祝」は占いに従事するシャーマンであり、史の字は、祝詞を収める器(口)を持つ人という形を示す。彼らは主に、支配者と関係を持っていた。

 

 「巫」はその性質として需要が大きかったために「史・祝」と比較すると比較的多くの人口がいたが、「呂氏春秋」によると共通の祖神として医を創始した「巫彭」、筮を創始した「巫咸」を想定し、一つの擬似的血縁関係を持っていたとされる。この「巫彭」「巫咸」の伝統を直接継ぐ、「彭氏の巫、咸の巫」と呼ばれる巫が春秋戦国時代にも存在していることは、「書」すなわち書経や「荘子」が伝えている。

 孔子の母は巫であった。これを踏まえると「比於我老彭」の老彭は伝統的な巫である「彭氏の巫」のことを示しているとみることができる。「老」とは尊称であり、「老彭」とは「彭氏の巫」のうち優れた「巫」の尊称であるとみることができる。

 これらのことは、孔子の出生以外からもその教えから見て取ることができる。巫のうち、葬礼、祖先祭祀に深くかかわった人物、あるいは家系を「儒」と呼ばれ、これらの伝統は儒教の「礼」に色濃くのこっている。「礼記」の記述の多くは「葬礼」にかかわるものである、ということもこれを示唆しよう。                     

 

 一方の「史」は、もとは占いなどに従事していたシャーマンであると考えられるが、政治を行う階層と結びついた一種の知識人へと変化していった。史と同様に扱われていた「祝」も、占いに従事していたシャーマンであるが、孔子の時代にはすでに衰え祭儀を行うシャーマンとなり(巫祝)、祝の役割は史が担っていた。

 周代の金文には「大史・大祝」とあり、これらは周王朝創業当時の最高聖職者をしめしている。このうち大史は召公の家系がこれを継ぎ、大祝は周公の家系がこれを継いだ。すなわち、かの有名な周公旦は実際には、周王朝における「大祝」と呼ばれる最高聖職者であったということなのである。

 この史は、支配者層にあって有職故実や故事、神話に通じ、その保護を担った集団・人物として記録に現れる。この史が保持した記録を「書」、「詩」と呼び、これらの記録が後世の学者によって整理され「書経」「詩経」という形になったのである。

 これらの記録を残した史の意識というものは激烈なもので、記録・伝統の保持のためには自己投棄すらおしまないほどのものであった。以下の記録に関するエピソードは、史の記録にかけた激烈な自己犠牲精神を表すものである。

 「斉の崔杼、その君、光を弑す」(春秋 襄公25年)

 この記録を残そうとした斉の大史は崔杼に殺され記録を抹消されかけたが、その弟がさらに記録し、この弟も殺されたが、さらにその弟が記録を残し、しかし、その弟も殺されてしまうが、4人目の弟にいたって記録を残すことに成功した。

 この史が残した記録群を取りまとめたものとして、「春秋左伝」「国語」などがある。そして春秋戦国以降も、さらにこの伝統は漢代の司馬遷を経由し、やがて儒者の営為と一体となっていった。しかし、この史の伝統は儒教をはじめとする諸子百家とは別に現代まで継続している。今年(2016年)、北京において「清史」の初稿が完成し、イデオロギー的に大きく変革した中華人民共和国においても、そのような伝統が続いているという事実は現代中国を考える上で有意なことであろう。

 

 孔子の出身は巫であった。巫の習俗から発し、それを一種のハイ・カルチャーである史の伝統(文)によって補強し、人為的に作られた伝統実践形態(つまり伝統そのものというより「伝統の理想」に基づいて再構築された伝統)としての「礼」を周公・老彭に「仮託」し、それを実践することによって、伝統の原点に回帰することによって、現代的な意味を見出し、さらにこの両者をその伝統と現代に共通するイデア的な(向こう側の)状態に付会させる、この三者が統一的に実現される場を「仁」と孔子はいうのである。つまり、仁とは個別具体的な実践の場である。そして、最も強調したいこととして、仁とは現代の状況、伝統の状況によって、如何とも変化しうる、それどころか個人個人によって異なるものであるのである。

 

○参考文献・論文など

白川静孔子伝』1972 中央公論社

宮崎市定史記を語る』1996岩波書店

加地信行『沈黙の宗教 儒教』2011 ちくま学芸文庫