ハザールの西進とブルガールの分裂(ブルガリア史③)

 ここまでアヴァールについて語ってきた。

 ここで、ブルガールに話を戻す。

 アヴァールを西に追ったクプラトは、本拠をシルクロード世界の交易との接続に有利な北コーカサスからアゾフ海沿岸に置き、友好国であるビザンツの支持もと西のアヴァール、東の突厥と対抗し、周辺の遊牧民を糾合した。

 このクプラト率いるブルガールを中心とする政治集団を「古き大ブルガリア」あるいは「オノグル・ブルガール」もしくは単に「大ブルガリア」と呼ぶ。

 一時は突厥アヴァールと並ぶ大勢力となったブルガールであるが、クプラトが死没する前後から東の突厥から分離した突厥可薩部、すなわちハザールが西進、ブルガールに圧力を与えるようになっていった。ハザールはクプラトという強力な指導のもとにあったブルガールにとっても脅威ではあったが、それはブルガールを崩壊させる決定的な要因となることはなかった。

 クプラトが死没すると状況が一変した。東方のハザールへの対応において、クプラトの5人の息子たちの意見が対立したのだ。

 5人の父親はその死にあたって、息子たちにこう語った。

「危機に団結せよ」

 その言葉を忠実に守るべく、クプラトの領民を分割相続した5人の息子たちは一つのユルタ(遊牧民のテントのこと)に集まって、ハザールの圧力に対抗するべく議論を重ねた。

 長子バトバヤンは、たとえハザールに服属することとなっても、父祖の地を守って、ハザールと戦うべきだ、と主張した。

 次子コトラーグは、争いを避けて北東へのがれ、再起を図るべきであると主張した。

 三子アスパルフは、ドニエストル川の南岸まで西進し、ドナウ川の南側にある友好国ビザンツと連合するべきであると主張した。

 四子アルツェクは、「グレク(ギリシア)人たちは信用ならない」として、かつての宗主アヴァールを頼るべきだと主張した。

 五子クベールは、アヴァールビザンツのいずれも頼ることができるよう、両者の国境付近にのがれようと主張した。

 議論はついに一つに決せず、父の遺訓を破ることもやむなし、として各々がそれぞれの部民を率いて、信じる最良の方策をとることを定めるにいたった。

 以下、簡潔に5人の息子たちのたどった道筋を見ていく。

 分裂したブルガールのうち、黒ブルガールと呼ばれるバトバヤンの集団はハザールとの抗争に敗れ彼らの従属民となり、歴史の表舞台から姿を消した。

 コトラーグの領民たちは争いをさけて、ヴォルガ川の上流へのがれ、ハザールに緩く従属し、やがて従来の遊牧生活を放棄し、牧畜農耕に従事し、シルクロード世界と北欧を結ぶヴォルガ川水運を支配し、そこから利益を得た。彼らの政権を一般に「ヴォルガ・ブルガール」と呼ばれ、13世紀ごろまで繁栄し、彼らの子孫は現代のチュバシ人とされ、彼らが話すチュバシ語はブルガール語の唯一の末裔として、学者の注目を集めている。彼らに関する記録としては、ハザールが衰退の兆しを見せ始めた10世紀前半に彼らの支配から脱却しようとこころみた首長アルムシュが新たな同盟相手としてアッバース朝との関係を模索し、アッバース朝からの使者として派遣されたイブン・ファドラーンが記した「報告書」(日本では『ヴォルガ・ブルガール旅行記』として知られている)がある。その「報告書」のうちには、ヴォルガ・ブルガールやルーシ人、ハザール人など周辺の民族の風俗などの情報があり、当時の黒海北岸草原からヴォルガ川流域の状況が明らかにされている。

 アスパルフ率いる領民は、現在のトランシルバニアあたりに移動し、やがてドナウ川を渡り、681年、同地のスラブ人と連合してビザンツ領内に政権を確立した。これが現在のブルガリア国家の原型である。

 アルツェクの領民たちはアスパルフたちよりも早い時期にビザンツ領内に入り、アドリアノープルの城壁に迫ったが、彼らの軍事力ではビザンツの都市を陥落させることができず、やがて周囲のスラブ人たちと同化していった。

 クベールは、アヴァールを頼って西進したが、結局アヴァールの本拠地であるパンノニアからランゴバルト人たちともの南イタリアにのがれ、9世紀ごろまでは独自の文化を維持した。

 彼らのうち、もっとも成功したのはアスパルフ率いる集団であった。以降、彼らがブルガールで最も強力な勢力として、アヴァール、ハザールそしてビザンツと対等に渡り合い、ヨーロッパにおいて、フランク、ビザンツに次ぐ第三の勢力となっていくのである。

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図 大ブルガリアの分裂とアスパルフとコトラーグ(コトラグ)のブルガール集団の移動