イリ地方に生きたキルギス人たちの叙事詩「マナス」に描かれる中央アジア遊牧民から見た中央ユーラシア

①「マナス」に見る被支配側の視点

多くの場合政治史的に述べられる17世紀以降の東トルキスタン史に対して、視点をまず支配側から「被支配側」に移し9世紀にウイグルを滅ぼした後にキルギス可汗国を建国して以来、東トルキスタンを支配したカラ=キタイやモンゴル、カルマク(オイラトのことを指す。またカルムイクともいう)、ジューンガル、大清グルンに支配されたキルギス人の口承によって伝えられた叙事詩「マナス」に現れる彼らの歴史認識について見ていきたい。

「マナス」は八部約二十万行からなる長大な英雄叙事詩である。叙事詩の名称にもなっている「マナス」は叙事詩においてキルギス民族を統合したキルギスのハーンであり、この叙事詩全体ではマナス以下チクテイに至るまで八代の事績が記されている。叙事詩の構成は八部それぞれが以下の通りマナスから始まる八代と対応している。

 

第一部「マナス」

第二部「セメテイ」

第三部「セイテック」

第四部「カイニニム」

第五部「セイイト」

第六部「アスルバチャとベクバチャ」

第七部「ソムビリョク」

第八部「チクテイ」

「マナス」が生まれた時期に関しては諸説あり、それらの説が主張する発生時期は9世紀から17世紀と幅が広い。しかし、口承伝統であるという性質上、その内容は常に更新され続けてきたことは マナスがナポレオンと戦ったという即興部分が付加されたこともあった(奥村 1995)ことからも想像にかたくない。つまり、「マナス」は被支配者であったキルギス人によるイリ川地域の歴史を反映した叙事詩であり、ここに記されている出来事と本節で述べられたイリ川地域の歴史と対応させて見れば、マクロなレベルである中央ユーラシア史の場に生きる人々のミクロな実相を比較することで、本節で示されていることを理解する助けになると考えた。

 

キルギスの歴史

 

以下簡潔にキルギスの歴史について中国の正史の記述を中心として見ていく。

中国文献における初出は「史記」であり、キルギス人は当時の中央ユーラシアの覇権を握っていた匈奴に服属していたことが記されている。「漢書」にも同様の記述があるが、両者ともに具体的な内容は伴っていない。

ついで三国志の底本の一つである魏略はキルギスについて以下のように述べている。

 

 堅昆國在康居西北、勝兵三萬人、隨畜牧、亦多貂、有好馬 (「魏略」西戎伝)

 キルギス国は康居の西北にあって、動員できる兵数は三万、家畜を従え、彼らは貂の皮を多く算出し、良馬がいる

 

「周書」には突厥と並んで契骨(キルギス)の起源に触れている部分がある。「北史」にも同様の記述があるが、成立年代を見れば「周書」を引用したものであろう。また、当時のキルギス突厥あるいは鉄勒に従属していたとされる(高橋 2001)

 

或云突厥之先出於索國、在匈奴之北。其部落大人曰阿謗步、兄弟十七人。其一曰伊質泥師都、狼所生也。謗步等性竝愚癡、國遂被滅。泥師都旣別感異氣、能徵召風雨。娶二妻、云是夏神、冬神之女也。一孕而生四男。其一變為白鴻、其一國于阿輔水、劔水之間,號為契骨、其一國於處折水、其一居踐斯處折施山、卽其大兒也。山上仍有阿謗步種類、竝多寒露。大兒為出火溫養之、咸得全濟。遂共奉大兒為主、號為突厥。(後略) (「周書」 異域伝)

ある人はいう。突厥の先祖は匈奴の北にある索国から出ている。その部落の大人は阿謗步で、彼には兄弟が17人いた。その1人は伊質泥師都といい、オオカミから生まれた。阿謗步たちの性格は総じて愚痴であったので、彼らの国はついに滅ぼされた。伊質泥師都は異様な気を感じることができるだけではなく、風雨を操ることができた。彼は夏神、冬神の娘を娶った。そのうち1人は4人の男を生んだ。その1人は白いおおとりに変じた。その1人は阿輔水と劔水の間に国をつくりキルギス国と号した。その1人は處折水に国をつくった。その1人は踐斯處折施山にいた。それがすなわち大兒である。山上には阿謗步の遺民がいて、総じて寒さと露にあった。大兒は彼らのために火の温もりをもってこれを養生させ、すべて救うことができた。そのため、ついに彼らは大兒を共に君主として奉戴し、突厥を号した。

 

キルギスウイグルを滅ぼして一時、覇権を確立した9世紀の事績を記した「新唐書」においてはキルギス人の事績について、伝は立てられていないとはいえ、まとまった記述がある。これによるとキルギス人は牧畜なども行う農耕民であるとされる。

稼有禾、粟、大小麥、青稞、步硙以為面糜。穄以三月種、九月獲、以飯、以釀酒、而無果蔬。(「新唐書」回鶻下)

(キルギス人は)イネや粟、大小の麦、ハダカムギ、步硙をひいた粉とする。三月に種をまき、九月に収穫して、飯や酒を醸すのに用いる。果物や野菜は作らない。

 

また、キルギス人の風貌については以下のように、白人の特徴を示していて、現在のキルギス人との違いが強く示唆されている。

 

人皆長大、赤發、皙面、綠瞳、以黑髮為不祥(「新唐書」回鶻下)

人の身長は高く、赤い髪、白い顔、緑の瞳で、黒い髪はめったにみない。

 

 キルギス人はエニセイ川上流で牧畜・農耕をしていたが、ウイグルが衰えると可汗を名乗った阿熱という指導者の元、吐蕃との戦いで国力を弱らせていたウイグルを打ち破った。阿熱は唐にウイグルの残党を討つことを願い出て、そこで武宗は右散騎常侍李拭をキルギスに派遣し阿熱を宗英雄武誠明可汗に冊封しようとしたが、武宗が冊封をする前に崩じたので、その後を継いだ宣宗が847年に鴻臚卿李業を代わりに遣わして英武誠明可汗を冊封した。(「新唐書」回鶻下)

 

 こののち、キルギス可汗国は一時期強勢を誇ったが、10世紀初頭に契丹族に征服され、属国となった。1124年に金に遼が滅ぼされるとヤルート・タイシはキルギスに対して徹底的な略奪を加え、さらに西進してカラ・キタイを建国してからもたびたびキルギスへ出兵した。

 モンゴルが強勢になるとキルギス人はモンゴルに従い、モンゴルの勢力が衰えるとオイラトと親密な関係を結んだ。(高橋 2001) ジューンガルがジュンガリアの盟主となると、ジューンガルはたびたびキルギスの地を攻撃し、支配下に入ったキルギス人はジューンガル軍のブルート人と呼ばれ砲兵として従軍した。(宮脇 1995) 1688年に南モンゴルに移った外ハルハを追って南下したガルダン率いるジューンガル軍は北京北方のウラーン・ブトンにて戦ったが、ジューンガル軍の装備する大砲の打ち合いによって決着がつかなかった。(今谷2000) 直接キルギス人がウラーン・ブトンの戦いに参加していたことを示す史料は存在しないが、戦いに砲兵が参加していたことをふまえると、キルギス人がこの戦いに参加していた公算は大きい。

 ジューンガルが滅ぼされるとキルギス人は清朝あるいはコーカンド・ハン国の支配下にはいり、19世紀にはコーカンド・ハン国がロシア帝国に併合され、キルギスもまたロシアの版図に入った。そして、ロシア革命を経て自治州となり、1936年にキルギスソビエト社会主義共和国となり、1991年に現在のキルギスタン共和国が成立した(93年にキルギス共和国へ改称)。

 

③「マナス」から見た中央ユーラシア

 

 キルギス人の歴史を称して高橋(2001)は「被支配、被圧迫の歴史のすさまじさに驚かされえる」とし、しかしながら一度は栄光を経験した歴史の中で「マナス」は醸成されたのだとしている。このマナスには「キルギス人たちの生活様式、習俗、道徳、地理、宗教観、医学知識、そして彼らの国際関係がこの巨大な叙事詩の中に反映して」(奥村 1995)おり、先述した中央ユーラシアの要衝に生き抜いたキルギス人の歴史とこの「マナス」を合わせてみていくことにはマクロの視点ではわからない具体的なミクロなレベルの中央ユーラシア史を解き明かす一端としての意味がある。

 「マナス」は「マナスチ」と呼ばれる語り手によって、基本的には文字に記録されることのなく口承される叙事詩である。アディル・ジュマトゥルディ(2010)によれば、「マナス」のテキストは記録されているだけでも150種に上り、その歌う状況、あるいは聴衆によっても話の詳細は一回一回異なるが、しかしながら、その基本的構造はトゥルク語系民族による叙事詩と同一の以下のような構造をもっている。

 英雄の特異な誕生――苦難の幼年時代――若くして功をたてる――妻を娶って一家をなす――外地への遠征――地下への侵入(あるいは死んで復活する)――災いにあう故郷――敵に殺さる(あるいは簒奪者が懲らしめられる)――英雄の凱旋(犠牲)

 このような構造の同一性と並んで、伝承に由来する「類型化」された語句をマナスチが紡ぐことによって「マナス」という叙事詩は維持されており、一方で「語り」を行うたびに「マナス」は再創作され、その時々と聴衆に見合った要素が入ることによって「マナス」は完成する。

 このような「開放的で開かれた体系」であるから、「マナス」には時たまに奇妙ともとれる要素が入ることがある。先述のナポレオンとマナスの戦いもその1つである。しかし、それこそが「マナス」を「キルギス人のエンサイクロペディア」(奥村 1995)たらしめた理由であろう。

 この「マナス」そのものの内容は事実とそうでないものが混ざっている、ということを「マナス」冒頭で「半ば真、半ば偽り」(西脇 2011)とすでに宣言している。「マナス」の中の出来事を歴史的な事実を直接明らかにするために用いるべきではないが、歴史を考える上の傍証として用いることにはある程度の意味があるのではないか。

 以下に高橋(2001)が紹介した第一編「マナス」のあらすじを紹介する。

 

序詩開篇、キルギス族の族源とマナスの先祖について述べる。マナスの父親チャクプははじめ子どもがなかったので、是非ほしいと願っていた。当時キルギス人を支配していたカルメイック人(オイラト人)の中に有名な占い師、ランコタクが居り、彼はキルギス人の間に一台の英雄マナスが生まれると予言する。カルメイックの王アラオケは其れを聞いて激怒し、手当り次第にキルギス人の妊婦の腹を割いて調べるという暴挙を行ったが、多くのキルギス人に守られてマナスは生まれた。マナスは飛ぶように速く成長して怪力無双の好漢になった。9歳で40人の勇士達を引き連れ、弱きを助け貧しきを救い、暴虐を除き、正しきを安んじ。タシクルガン・カシガル・ウルムチ・アフガンにまで遠征して、14汗王の部落と同盟を結んでキルギス人の汗王首領となった。またカニカイ公主と結婚した。攻めてきたカルメイックのコングルパイを打ち負かした。キタイ人(契丹人のことと言われる)のアリマンペトックと義兄弟の契りを結んで、最後にペイチン(嘗てトルフアンの郊外にあった北庭、つまりベシバリクのことと言われる)をうって大勝したが、其の時の気の緩みに付け込まれて、敵の毒斧を後頭部に受け、重症のままタラスに帰ってから死去した。(高橋 2001)

 

さて、まず、キタイ人とは契丹人であるのか、それとも漢人のことであるのか。それはマナスが語られる場面によって変わっていったとみることができる。しかし、近代のマナスチたちは、このキタイ人のことを明確に中国人であると認識して歌っていたというのは、以下の「ペイチン大遠征」を巡る論争から明らかである。

奥村(1995)は「マナス」のクライマックスである大遠征の先である「ペイチン」をベシバリクではなく北京のことであると明言していて、この架空の「北京大遠征」のために社会主義共和国時代キルギスでの「マナス」は中ソ友好にとって問題があるとしてキルギス共和国の最高権力と科学アカデミーの間に会議がもたれたが、結局「マナス」擁護派が勝利して、会議の帰趨を心配した数千のキルギス人たちが「マナス」を大合唱しながら村落へ帰って行ったというエピソードからも、少なくとも近代において、この「ペイチン大遠征」は「北京大遠征」という文脈で歌われた。

また、若松(2003)はこの「クィタイ」を最初のマナスチたちは遼であると解釈し、次時の時代のマナスチたちはカラ・キタイであると解釈し、そののちの時代のマナスチたちは中国であると理解したとする。そして、これらの共通点はキルギス人を支配した民族であるということであり、これらの東からの圧迫が、反実仮想的に「マナス」の遠征へとつながっていった。

 さて、中央ユーラシア史という視点に戻ってこの「マナス」を見たとき特徴的な点は以下の4点である。

 

 ①その悲劇性

 ②豊かな国際性

③東から来る敵

 ④クライマックスとしての「北京大遠征」

 

 ①その悲劇性

 若松(2005)はマナスがその物語の最後において悲劇的な死を遂げるというのは他のトゥルク系民族の叙事詩には見られない特徴であるとするが、坂井(2006)はトゥルク系民族の叙事詩には英雄の悲劇的死は比較的よくあることであると批判している。しかし、この悲劇的死を遂げる英雄というモチーフがキルギス人の苦難を象徴しているという若松(2005)の意見は中央ユーラシアの要衝を生き抜いたキルギス人によって作られた「マナス」という叙事詩をみる上で重要なものである。

②豊かな国際性

先述のソ連時代のマナス擁護者たちはマナスの国際性を取り上げて擁護に努めた。「マナス」の登場人物には中国人、オイラト人、カザフ人、タジク人など天山地方を行き来した多くの民族が含まれている。この中央ユーラシアの特質である民族的多様性と流動性の高さは「マナス」の中にも強く反映されている。

③東から来る敵

 「マナス」においてキルギスに攻め入る敵が来る方向は常に東である。これは、中央ユーラシアの民族移動が東から西へ行われていたことを、ミクロ的な視点においてもキルギス人たちは認識していたことを示す。中央ユーラシアのマクロな動きをキルギス人たちは叙事詩の中において認識していたのである。

 ④クライマックスとしての「北京大遠征」

 この「北京大遠征」は採録によっては存在しないこともある(奥村 1995)が、紛れもなく叙事詩「マナス」においてこの軍事行動は紛れもなくクライマックスであり、その壮大さのために全くの作り物語であるとみる論者が多い。(若松 2001:奥村 1995) しかし、この「北京大遠征」を奥村(1995)はウイグルを滅ぼした記憶あるいはジヤアンゲル・ハンの反清暴動が背景にあるとみているが、しかし、さらにこの「北京大遠征」にふさわしい出来事があることに気づかされる。1688年のジューンガル軍と清軍が北京北方のウラーン・ブトンにて衝突した戦いにおいて活躍したジューンガル砲兵の担い手はブルート(キルギス)人をはじめとするブハラ人たちではなかったろうか。

 さらに実際に北京大遠征の一節に目を通してみると、戦闘描写の生々しさもさることながら、伝統的な遊牧民の騎兵は用いないさまざまな火器が登場する。「コイチャグル銃」「スィル・バラン銃(フリントロック銃)」「アクケルテ(銃)」など、それらは英雄たちが用いる名のある得物の一つとして高い扱いを受けている。アクケルテ銃の描写をマナスチは「遠くも近くも変わりなく、遠くも近くも区別なく、百発百中、銃身は鋼鉄、銃口はダマスカス鋼、硝煙は濃霧、銃床はイスファアン製、照星は恐怖の的、弾丸は死、これぞ聖なるアクケルテ」として、この一斉射とともに大砲、小銃の射撃が続いたのち、騎兵が突撃する。(若松 2003)随所に叙事詩らしく、英雄の突撃や魔法などが織り込まれているものの、この戦法は17・18世紀のジューンガルのそれである。

 これらの叙事詩が記録された年代とウラーン・ブトンの戦いは200年の時を経ていて、これらの出来事が叙事詩の中に定着していてもおかしくはない。以上のさまざまな情報をから、ウラーン・ブトンの戦いに北京遠征のモチーフがあるのではないか、と私は考える。

 

 以上、「マナス」というミクロの視点から中央ユーラシア史的事実を見出し、その深い理解を行うために4つの点を指摘し、これを検討した。

 

○参考論文・文献

史料

三国志」魏略 西戎

「周書」異域伝

「北史」突厥

新唐書」回鶻伝下

 

論文

 西脇隆夫「中国におけるキルギス族英雄叙事詩「マナス」の研究」『中国』 (8) pp.268-276  1993-06 中国社会文化学会

奥村剋三「キルギスタン叙事詩『マナス』と辺境の知識人」『立命館経済学』44(4・5)  pp.653-661 1995-12 立命館大学経済学会

 高橋庸一郎「中国北方少数民族伝承文学概説(六)-キルギス族英雄叙事詩「マナス」(上)」

『阪南論集 人文・自然科学編』Journal of Hannan University Humanities & natural science 36(4) pp.1-8 2001-03

 高橋庸一郎「中国北方少数民族伝承文学概説(七)-キルギス族英雄叙事詩「マナス」(下)」『阪南論集 人文・自然科学編』Journal of Hannan University Humanities & natural science 37(1・2) pp.29-38 2001-09

 ジュマトゥルディ・アディル 西脇隆夫訳「翻訳 英雄叙事詩「マナス」の特色」『名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇』47(1) pp.71-82 2010-07 名古屋学院大学総合研究所

 坂井弘紀 書評「若松寛訳, 『マナス 壮年篇-キルギス英雄叙事詩-』, (東洋文庫 740), 平凡社, 二〇〇五・七刊, 全書判, 四一二頁, 三一〇〇円」『史學雜誌』115(2) pp.242-243 2006-02

 西脇隆夫「キルギス族英雄叙事詩「マナス」第一部(一)」『名古屋学院大学論集 言語・文化篇』THE NAGOYA GAKUIN DAIGAKU RONSHU; Journal of Nagoya Gakuin University; LANGUAGE and CULTURE 22(2) pp.98-112 2011-03

 

書籍

護雅夫 岡田英弘編(1990)『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』山川出版社

宮脇淳子(1995)『最後の遊牧帝国―ジューンガル部の興亡』講談社

若松寛(2001)『マナス 少年篇―キルギス英雄叙事詩平凡社

若松寛(2003)『マナス 青年篇―キルギス英雄叙事詩平凡社

若松寛(2005)『マナス 壮年篇―キルギス英雄叙事詩平凡社

今谷明(2010)『中国の火薬庫—新疆ウイグル自治区の近代史』集英社