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アクス鋳造の「乾隆通宝」にみる中華帝国としての乾隆期清朝

 杉山(2008)は中央ユーラシア史の概念が提唱される以前から「ユーラシア」という語を学問的分析の対象として取り上げた地政学者のうちマッキンダーが過去のモンゴル帝国や現代のロシア帝国といった中央ユーラシアの陸上勢力の危険性を指摘していたことを踏まえ、近代にも大きな影響を及ぼした前近代における草原の遊牧民とその周辺の定住民の間で巻き起こるダイナミズムに注目してモンゴルを中心とした遊牧民の歴史を叙述した。このような中央ユーラシア史の視点においては、清朝をダイチン・グルンとして遊牧国家の延長線上において捉える傾向が強い。しかしながら、ハーンであり皇帝でもある聖主によって支配されたダイチン・グルンは中華王朝ではなく大元ウルスの後継国家であると主張する中央ユーラシア史の視点ではむしろ中華王朝としての清朝という側面を無視し、入関から100年たった乾隆期をそれ以前の康熙期と何の批判もなしに同一に語っているという側面がある。

 田村(1975)によれば康熙帝儒学を深く学んでいたということ、雍正帝は『大義覚迷録』において儒教の理論を援用して中央ユーラシア型帝国の統治理念として掲げ、乾隆帝が中国文化を愛好していたということは紛れもない事実であり、新疆に対する統治策を政治構造の面から見るだけでは清朝中華帝国ではない中央ユーラシア型の国家であると批判することはできない、と私は考える。また、庄(2016)によれば入関以前の後金国時代においても盛んな漢籍の翻訳がなされ、ホンタイジといった指導者さえも漢籍の教養を背景とした発言を行っている。また、康熙帝の数学教師も務めた宣教師ブーヴェは漢籍満洲語翻訳活動について、以下のように述べている。

 

(康煕帝の宮殿には)漢文の名著を韃靼語に絶えず飜訳している練達の士が控えております。その結果、韃靼語がきわめて豊富になります。特に韃靼人に対しては漢文の名籍に対する理解がたやすくなります。彼らの多数は殆ど漢文に熟達しておりませんから、漢文の名著が韃靼語に飜訳されてなければ、碌に読むことも出来ないでありましょう。この利益は彼らにとっても、宣教師にとっても共通なものであります。 (後藤末雄 1970 カッコ内は報告者)

 

このような盛んな翻訳活動は乾隆期以降次第に形骸化していくが、それは清朝の中国化によるものであり、このような状況は既に雍正期から起こっているのである。このようなことを踏まえると、18世紀後半という清朝中期において清朝がはたして本節が述べるような純粋な「中央ユーラシア型」国家であったのか、この点について疑問を持たざるを得ない。

さらに直接的な新疆統治における清朝の中国化の影響の表れとしては、新疆成立直後から発行されたアクス鋳造の「乾隆通宝」があげられる。アクス銭と呼ばれる、この「乾隆通宝」はジューンガル領内において発行されていたプル銭と呼ばれる貨幣に替えて、主にカシュガリアでの流通を目指したもので、表面に「乾隆通宝」の4文字が、裏面にはウイグル文字と満洲文字で鋳造所に相当する文字が鋳込まれている。ここで、注目することは、カシュガリアという「非漢人」地域で「乾隆通宝」という文字が鋳込まれた貨幣が用いられている、ということである。通常の清朝が発行する貨幣は表面に漢字が裏面に満洲文字が鋳込まれているが、両面満洲文字が鋳込まれたものもあり、すべての清朝が発行した貨幣に漢字があるわけではない。そう考えると、アクス銭というものの奇妙な性格が明らかになる。これは、本節で述べられていた中央ユーラシア国家としての「大清国」という文脈においては理解が難しいものである。むしろ、本節で批判されていた「中華王朝としての清朝」という文脈においてこそ理解が成り立つものであろう。

以上、簡潔であるが中央ユーラシア史という立場で清朝を見たとき「中央ユーラシア型国家」という連続面と「中華王朝」という断続面の両方を見つめなければならない(むろん逆もまた然り)、という考えをアクス銭を通じて検討した。

 

○参考文献

田村実造 編さん(1975)『世界の歴史〈9〉最後の東洋的社会』中央公論社

庄声(2016)『帝国を創った言語政策 ダイチン・グルン初期の言語生活と文化』京都大学出版会