『荘子』をよむ ――荘子の実践論――

 なぜ、『荘子』は存在するのだろうか。『荘子』がなぜ、書物として、「ことば」として綴られているのだろうか。荘子を一読して、この点について私は疑問を抱いた。

 もし、かりそめに荘周が蝶であり人であることが賽の目のように常に同様に確からしく変わりゆくものであると捉えたならば、なぜ荘周は『荘子』を記す必要があっただろうか。茫漠たる道に溶けたまったくの酔いどれ眼で「汝がために試みに妄言」したのだろうか、それとも綿中蔵針、その突拍子もない言葉のうちには秘めたる意図があったのだろうか。

 私は、荘周は荘周であり蝶ではないと彼は確信している点に彼が『荘子』を記した根拠がある、と考える。確固とした我とそれ以外の彼があるからことを知っているからこそ、彼は『荘子』を記したのである。我と彼が同一であり、まざりあい、くっつきあい、「道」の上に一つであるとするならば、何かを主張することはまったくの無意味である。何かを主張してもそれは既に一に帰しているのであり、何をなしたことにもならない。そう理解する者が果たして荘子三十三篇を記すだろうか。そこには能動的に何かを主張する理由があるはずである。私はその理由が、荘周が我と彼の区別が確かに存在し、この世界に是非は存在する、という前提をおいている、という点にあると考える。そして、その前提があればこそ彼の論は記される意味を持つのである。私は荘子の教えを、是非や彼我の区別がある世界において、是非を越え坐忘するといった形而上の世界に思弁や突拍子もない寓話を通じて到達し、そしてまた是非のある形而下の世界に立ち返る、形而上の体得を踏まえた形而下における実践の教えである、と捉えるのである。「人の中にいて人を忘れる」というのは形而上を踏まえた形而下の教えとして捉えられる荘子の思想を端的に表した表現ではなかろうか。

 では、この「区別」というものに対して、荘子はどのように論じたのだろうか。まずは「区別」についての荘子の記述を斉物論篇を基にして見ていく。

 まず、「区別」はなぜ生まれるのか。区別とは単なる物と物、つまり「これ」と「あれ」というのもではなく、「主観」「客観」ととらえる。(当時の術語において「彼」は「客観」を「是」は主観を表す(楢崎2004))この客観は主観がなければ成り立たない、つまり主観を経由しなくては外物を認識することはできない。一方で、主観も客観がなければ成り立たない、つまり、主観的認識は外物に依存している。これが、「彼は是より出づ、是も亦た彼に因る」いうことである。つまり、主観的な「我」の存在があることが区別の根源であるのであるとするのである。しかし、このあと荘子は「雖然」と逆説的に「方死方生」と述べ「主観」と「客観」の内、ある認識が主観であるならば、その認識は客観ではなく、ある認識が客観であるならば、その認識は主観ではないとする。しかし、この節の冒頭に「物無非彼、物無非是」であると言明しており、そうであるならば、物=彼、物=是である、これはすなわち彼=是であり、矛盾である。というのも荘子は「彼亦一是非。此(この字は是と解釈する(楢崎2004))亦一是非」と言及しており、この「物無非彼、物無非是」が可とされるならば、矛盾律が崩れ、是でありながら非であり、非でありながら是である、という問題が発生する。これを可とするのは恵子の「今日越に出発し、昨日到着した」ということと同じことである。この矛盾に対して荘子はどのように解決を施したのか。彼はそこに道枢の比喩を持ち出した。つまり、道という場における扉の回転軸(枢)を中心に等距離に「主観」と「客観」を置くならば、「主観」と「客観」が出会って矛盾することなく、「主観」と「客観」がともになくなる、ということもまたない。この立場に立つことを「其の環中を得」るあるいは「明を以てする」といい、その立場に立てば事物Aに対して是という判断を下してもまた、同時に非という判断を下すことが可能であり、是非の判断は矛盾律から解放され無限に至る。(是亦一無窮。非亦一無窮。)

 あるいは区別というものに対して、もっと簡単に以下のようにとらえることができるのでないか。

 すべての問題は基準となる確からしい自己と他者、あるいは主客に分別されうる部分の間から生ずる。「主観」と「客観」は互いに反しながら依存関係にあり、「このウマはまたあのウマ、あのウマはまたこのウマであって、万物はついにこのウマ一つに尽きるとも言える」(原1972)というように、およそ世界は彼我の主観・客観の関係によって成立している。故に一つの立場に固着することは結局はそれに対立する立場につくことと同じなのである。儒家が仁に固執し、墨家がそれに反対して兼愛を掲げるが、それは反しあいながら依存関係にあるという点で、どちらかが優れているということを判断することができない。自らが我ならぬものを彼として客観化してものを見る時、このような問題が発生する。

 区別こそがすべての問題の根本であり、区別されたものに固執しては区別するものと相互依存関係となってしまい、区別したものに区別されたものが働きかけようとしても、あたかも影と影の主のようなもので、なにも起きない。ここに区別から解き放たれ、区別を離れる必要性が生まれてくる。

 では、区別に固執せずに区別から離れるためにはどうすればよいのか、荘子は「およそ相反すること・ちがうものみなが、ひとしく道のなかで――道に支えられてこそ、それぞれそのようでありうるのだ。(中略)およそものごとのできあがることもこわれることも、ひとつの過程で、ひとしく道のなかで――支えられてある」(原1972)ということを自覚し、いつどこでも普遍的に当てはまる庸(はたらき)に任せることが区別の上にたって区別から離れるということである。ここでいう庸に任せるとは道枢を環中に置く、ということである。つまり、区別差別がすべて道に支えられているということを自覚すれば「彼と是が対をなす概念でなくなるとき、それを道枢という。枢が環の中心にあれば、無窮に応じる。是もまた一無窮であり、非もまた一無窮である」(中島2009)という立場に立つことができる。 あるいはさらに具体的に「彼(客観)と是(主観)とがその相手を得ないこと、これを道の扉の回転軸(を中心として彼と是が対峙しあっていること)に喩えることができる。この回転軸がはじめて、円環の中心に身を置いて、(彼と是との二項対立から自由になり、状況に)無限に対応してゆくならば、是とする判断を無限に下し、非とする判断を無限に下すことができる。(そうなれば、「是」と「非」との対立は実質超えられたことになる。)」(楢崎2004)      

 そして、庸に任せることができた聖人は以下のような境地に至る。

 

「是も非もともにあえて、天の立場に立って(おのずからなる釣り合いの内に)、おちつく。これを「両つながら行く」(ひととわれと、それぞれそのところを、うる――それぞれの主張を、それぞれ捨てないそのままで、それぞれにこだわらないですませる、という境地)という」(原1972)

 

 つまり、聖人もまた「主観」に因ったまま、明の働きを以て、しかしながら何にも依拠せずに物を判断する、ということはこういうことである。

 荘子はこのように「区別」を越えることについて論じている。区別を消去することなく、むしろ区別を並び立たせて区別の上に立つ、ということを荘子は主張するのである。そして、ここで最後に強調することは、理想とする聖人もまた「主観」に立脚している、ということである。

 では、ここで最初に挙げた「胡蝶の夢」の寓話に立ち返る。

 ここにおいて最後に「此之謂物化」と荘子は言っているが、この物化とはどのようなものであるのだろうか。これについては中島(2009)と郭象に基づいた解釈を授業では扱ったが、これに関して先ほどの斉物論と様々な物化の解釈を踏まえて、自分の意見を述べたい。

 まずは、中島(2009)が従来の説とする森樹三郎と福永光司の解釈を見ていく。

 森(1968)は「「物の変化」というのは、一つの物が他の物に変わることであり、そこには一と他との区別がある。しかし、それは常識の立場のことであり、すべてをひとしいとみる立場から見れば、自分と他者の区別がないのであるから、胡蝶はそのまま荘周である」とする。

 福永(1978)は「実在の世界では、夢もまた現実であり、現実もまた夢であろう。(中略)一切存在が常識的な分別のしがらみを突き抜けて、自由自在に変化しあう世界、いわゆる物化の世界こそ実在の真相なのである。」という。

 また、ほかの類似したいくつかの解釈も挙げる。

 岸陽子(1980)は莊周と胡蝶の区別は現在の形に過ぎない、として、その区別は事物の極まりない変化の中における一様相にすぎない、と中島の言う旧説に近い見解を述べる。

 阿部吉雄(1969)は単純に物化を生死と捉え、生死の間にはこの寓話のように大きな区別はない、と禅における遷化に引き寄せて解釈する。

 次に中島(2009)の解釈を見ていく。

中島(2009)は、「一つの区別された世界に二つ(あるいは複数)の立場があり、それらが交換しあう様子を高みから眺めて、無差別だということではない。そうではなく、ここで構想されているのは、一方で荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容する事態」を物化と捉える。

 さらに郭象と中島(2009)に近い解釈を挙げる。

 郭象本人は、万物は天に成るがそれぞれが勝手に変化していくので、運命などはなく胡蝶であるときは胡蝶であることを楽しみ、莊周であるとき莊周であることを楽しめば良いのだ、と主張する。

 赤塚(1974)は郭象の説をおおむね同意しつつも、刹那的快楽主義として行き過ぎとし、胡蝶の夢を現実の射影と捉え、苦しい現実と自由な夢の世界の対比によって、区別を直視し、区別からの解放と超越を探るところにあると、この寓話の意味を解釈する。

 赤塚(1974)はこの寓話における「物化」の意味を混沌無差別におけるゆらぎの謂と取るのではなく、「あまねく生きる物の真の生意を自分の内に感得して、不言の静かさの中に自分に満足し、他人や他物とも自然に調和して、安らかでしかも充実した生を送るのが、「物の化」である」と捉えている。つまり、「物化」を変化ととらえるのではなく、同一化ととらえるのである。

 以上にいくつかの解釈を挙げたが、私は「主観」に立って区別を超越する聖人を理想とする荘子がどのような物化像を構想したのか、ということを踏まえて考えると、郭象や赤塚(1974)、あるいは中島(2009)などの説がそれに沿っているというように感じられる。これらの説を踏まえて物化を考えるならば、物化とは性そのものが転変すること、区別の体系が変容すること、ある「主観」がひとりでに変化して新たに区別を超え区別を作ること、とも、不変の性をもった確固たる自分があるということを前提とし性に満足し自然に調和し同一化する、と捉えることもできる。確かに中島や郭象の主張するように、性は固有であり「荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容する事態」(中島2009)を物化とする立場は物化を単純に見るならば正しいと考えられる。しかし、この寓話において物化というものを見る場合、物化を単純にとらえるのは、赤塚の解釈を踏まえると含みが少ないように感じられ、また刹那的快楽主義に陥る可能性もまたある。赤塚があえて従来の「物化」と分けて「物の化」と表した理由は従来の解釈との区別化にあるとする。私もまた、物化を一歩進めて、区別の上に立って区別を超越し、その上で自らの性に満足し調和し従う、というように捉えることがこの寓話の意味をもっとも明らかにするものであると考える。

 さて、このように物化を解釈するならば、また、至楽篇の荘子と髑髏との対話もまた「死への賛美」ととらえるよりも、「生と死の対比において、生きる人は生きることに全うし、死せる人は死せることに全うし、それぞれ各々楽しむ」というように解釈するほうが良いと思われる。あるいは死した荘子の妻への荘子の態度もまた、死した妻は死後の世界を全うするまでで、荘子は生きる世界を全うしているのである、ととらえられないだろうか。

 矛盾する判断を並び立てる明知を発揮し、区別の世界にありながら区別を超越した無制限の判断を行う立場に立ち、そして再び現実の場に立ち返り、そして「物の化」を尽くして自らの性に満足し、周囲に調和する、これが、私が捉えた形而上の世界を踏まえた形而下の実践論である、ということである。

 ここまで、荘子の哲学を絶対無差別の道の世界に遊ぶものである、と捉えるのではなく、形而上の世界に立ち返り、そこから形而下の実践を目指すものである、と捉える見方を提示してきた。このような実践的な哲学としての荘子の思想について、「老荘思想」と従来示されてきた老子荘子の連続という見方ではなく、白川静らによる孔子荘子に連続が見られる、という説について考察する。

 白川(1972)は孔子の時代と荘子あるいは孟子墨子の時代の思想の状況は大きく変化した、と主張する。孔子の時代には先王の理想、つまり伝統が生きていたが、都市国家の領域国歌への発展という歴史的な状況変化の前に周公の伝統は息絶え、荘子の時代には教条的道徳あるいは法律といったノモス的な社会秩序へと変容していった。孟子墨子も王道天下あるいは天志といったノモス的な秩序体系を抗争したが、その内容は必ずしも現実の社会秩序に迎合しない反ノモス的な要素を持っていた。真にこれに対応した理論を構築しえたのは、後王思想を成立させた荀子であり、それをさらに敷衍した法家思想家たちである。

 このノモス的な世界は孔子に立ち戻った時、否定されるものであった。仁といった徳は個人の内において体現せざるを得ず、実践者として再現されなくてはならなかった。このあり方は四端の心として、仁義を普遍的、共通的なものとして、ノモス的な社会秩序に適応させようとした孟子の立場とは大きく異なる。

 後に宋学に発展した孟子の思想は曽子・子思の道統にあり、その思想は白川(1972)によれば孔子の正統にはない、とされる。孔子のあり方はむしろ顔回に受け継がれ、荘子はその顔回の思想の後継者である。『淮南子』に見える荘子が学んだ儒教顔子の系統に属するそれではなかったのではなかろうか。

 荘子は徹底的な反ノモス主義者であった、ということは、大宗師篇の孔子顔回の対話に現れる。「仁義を忘れたり」の「仁義」とはノモス化された儒教であり、最後に至った「坐忘」の境地とはノモスを去った個人体験の元に還元された、個人の主体性の回復の境地である。

 ノモス的な社会秩序は必ず区別を内包している。これは荘子の超越せんとするところである。彼はノモス的社会秩序において形而上の世界に立ち返り、形而下の実践の方法を探った。白川(1972)も同様に「荘周は、新しいイデアの探究者であった。そしてノモス的な世界にあって、イデアを回復した」という。孔子はただ「仁」として体認することを求めたが、荘子は「道」として実体化して名を与えている。

 もちろん、荘子の中に老子的な部分があり、老荘思想として連続して語られることもまた正しいと私は考える。白川(1972)の時代においては、老子荘子に先立つものではない、と考えられており、老子荘子の発展であると捉えられていたが、帛書の発見からその説は正しくない、ということが分かった。つまり、荘子という人物に先立って孔子老子が存在しており、それらの思想をそれぞれ受け継いで反ノモス的な哲学を構築したのが荘子である、と見ることができるのではないか。

 これはあくまで私の根拠の薄い想像であるが、荘周死後の弟子たちは荘周の内なる老子的な部分を敷衍する一派、孔子的(顔回的)な部分を敷衍する一派などに分かれたのであないだろうか。『荘子』外篇雑篇にみられる老子的な部分や孔子的な部分がムラになって現れるのもこのような理由によるのではないか。しかし後世において『荘子』が老子の思想、あるいは仏教と結び付けられてとらえられるようになると、儒家的側面を称揚する考えは異端となっていった。ゆえに、儒教的側面を見出し実践した郭象は変節者あるいは自らの政治思想のために老荘思想を利用した政治家、と評価されたのである。

 そこで最後に郭象という人物についての評伝と後世の評価について概観して、上に述べた荘子の解釈者としての郭象を踏まえて、郭象という人物の旧来の評価に対して他の見方をあげる。

 晋書は、彼の人柄は弁舌には長けているが軽薄である、とする。さらに、東海王司馬越に取り立てられ高官となり権勢を内外に得た後、旧説(老荘思想)を捨ててしまった、とあり、また彼の荘子注も世に行われていなかった向秀の注釈に多少の加削を行ったに過ぎないと批判されている。

 この向秀の注釈を郭象が改変し自らのものとした、ということは『世説新語』にも見られ、当時一般に流布した言説であるということが伺える。

 しかし、この向秀の注釈は現代に伝わっておらず、この説を確かめる手段もない。

 この郭象が向秀の注を剽窃したという言説には異説もあり、『世説新語』の注に引用される『向秀本伝』では向秀は注釈を記さなかった、とあり、『文士伝』にはただ郭象が荘子の注釈を作ったとある。

 以上の記録からも郭象という人物が高い評価をうけていたとは言えない、と判断することができる。この低い評価の要因として、司馬越に抜擢された郭象が旧説を捨て去ってしまい、評判を落とした、という『晋書』庾峻伝の記述にあると考えられる。つまり、老荘思想を捨て去り現世の出世や政治に汲々とする儒家のような行動をとった郭象を当時の老荘思想家が批判したために、このような低い評価が与えられたということである。

 しかし、郭象の思想は旧来の老荘思想家とは一線を画するところにあったということは先に明らかにしたところである。郭象は自ずから然ることを徹底することが性であり、人間の性とは仁義である、と主張した。この世界において自ずから然る性は必然である。郭象は司馬越に取り立てられる前の郭象の性は、取り立てられた後にはもはや存在しない変容してしまった、と考えたのではないか。彼は旧説を捨てて権勢を求めたのではない。変容した性に従ったのではないか。黄錦鋐(1990)は郭象注を自らの政治論の依り代であり、荘子そのものは尽くされてはいない、と評価しているが、私はそれは荘子老子と結びつけようとする立場、あるいは仏教と結びつける立場からの見方であると考える。先に述べた孔子荘子の連続性を見たとき、郭象の行動はまさに彼が見出した荘子の思想そのものの実践のように私には映るのである。孔子儒教の創始者たるゆえんを白川(1972)は「述べて作らず」という祖述者として無主体的な主体の自覚の甘んじ、原点に立ち返りそこから新しい可能性を生み出す、という思想の運動の定式を生み出した、という点にある、とする。この思想の定式はなるほど春秋戦国時代において老子が『老子道徳経』を、墨子は『墨子』の一部を、孫子は『孫子』を自らの言葉として作ったことを踏まえると、儒家独自のものであるように見受けられる。もちろん、直接は儒家ではない荘子もまた「作る」人であったが、彼の内にあった儒教的側面を敷衍した郭象はこの運動定式の中にある。

 このように郭象注に示される思想と彼の伝記から、荘子儒家的部分を敷衍する実践者としての郭象像見出すことができるのではないだろうか。形而上に立ち返り形而下の実践との合一を目指す荘子をまことによく実践した人物としての郭象像を私は提示できるのではないか、と考える。

 

参考論文・文献

論文

黄錦鋐「郭象の『荘子注』について」『中国哲学論集』16 pp.1-7 1990-10-10 九州大学中国哲学研究会

楢崎 洋一郎「『荘子』斉物論篇における「彼」「是」の問題について」哲學年報 63 pp.133-153 2004-03-05 九州大学

橋本敬司「荘子胡蝶の夢――物化の構造と意味――」『哲学』51 pp.61-72 1999  広島大学

 

文献

目加田誠『新釈漢文大系 第76巻 世説新語(上)』1975 明治書院

原富男『現代語訳 荘子』1972 春秋社

白川静孔子伝』 1972 中央公論社

阿部吉雄『荘子』1969 明徳出版社

岸陽子『中国の思想12 荘子』 1980 徳間書店

赤塚忠『全釈漢文大系 第十六巻 荘子上』1974 集英社

中島隆博書物誕生――新しい古典入門 『荘子』――鶏となって時を告げよ』2009 岩波書店

福永光司『『荘子』内篇』 1978 朝日新聞社

森三樹三郎『荘子』1968 中央公論社

 

webサイト

房玄齡「晋書卷五十 列傳第二十 曹志 庾峻(子瑉敳)郭象 庾純(子旉)秦秀」ウィキソースhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B%E6%9B%B8#.E5.88.97.E4.BC.9D(参照2016-02-15).