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隆慶和議成立に見るモンゴルの外交と内政の関係

はじめに

 今回の講義ではモンゴルと明朝の関係を明朝側の視点から見ていった。しかし、そこには モンゴル側からの視点が不足しているように私には感じられた。やはり当然、当時の明蒙関 係をより正確に見るためにはモンゴル側の外交と内政の関係を見て行く必要がある。 そこで、本稿では講義で取り扱った隆慶和議の成立について、モンゴル側の視点から考察 を加えていくこととする。

 

隆慶和議にいたるまでの経緯に対する疑問

 16 世紀前半より、モンゴルの指導者たちは明朝へ求貢、あるいは馬市の開設を要求する ようになった。しかし、明朝側はその要求を容れることができず、モンゴル側からの軍事的 圧力さらされるようになった。

 16 世紀後半のモンゴル側の有力な指導者であったアルタン=ハーンは明朝に三度使節を 派遣して正式な交易を求めたが、明朝はこれを拒絶した。そのため、1550 年(嘉靖 29 年)モ ンゴル軍は数日間北京を包囲し、自らの力を誇示した。(庚戌の変) 明朝はモンゴルへの一時的な対応策として、馬市を開設(嘉靖馬市)したが、明朝側、モン ゴル側双方の問題により 1 年余りで閉鎖された。 馬市が閉鎖された後、20 年にわたりアルタンは明朝の北辺を侵略した。しかし、1570 年にアルタンの息子(明朝側資料では孫)のダイチン=エジェン=タイジ(バ ハンナギ)が明朝側に投降したことをきっかけとして、モンゴル側と明朝側は和議を結び、 明朝はアルタン=ハーンとその一族に官爵を与え、額は制限されてはいたが、交易と朝貢を許可した。

 ここに一つの疑問点がある。モンゴル側は自らのことを大元ウルスの後継と自認してお り(吉田 1998 p142)、かつて支配していた中国に対して形式上でも臣従するようなことを肯んじえたのか。しかも、庚戌の変に示されるように、モンゴル側は明朝に対して軍事的に優 位を保っており、優位な状況にあるなかで、この和睦が結ばれた理由としてバハンナギの投降とその返還のみを挙げるのは不自然であるように感じられる(森川 1999 pp.253-255)。 そこで、この隆慶和議の成立の背景として何があったのか、これについてモンゴル側の同 時代史料であるアルタンの伝記『アルタン=ハーン伝』の訳注を手がかりに考察していく。

 

 

『アルタン=ハーン伝』より見る隆慶和議成立までの経緯

 『アルタン=ハーン伝』によるとバハンナギの投降を受けて、彼を奪還するためにアルタ ンは明朝に侵攻した。それに対して、明朝側はブチネベイという使者を遣わして、称号と賞を条件にモンゴル軍の撤退と和睦を求めた。(吉田 1998 p.136) このような記述は明朝側では当然見られず、明朝側の記録によれば、王崇古は穆宗に対し て「アルタンが以後明朝を侵犯しないことを約束し、報貢と互市の実施をもとめたこと、及 びノヤンダラが楡林・寧夏両衛の明軍の侵攻停止を要請した」(城地 2004 p.259)とあり、モ ンゴル側の記述とは正反対のことが示されている。

 当時のモンゴルの軍事力として『アルタン=ハーン伝』では「四十万モンゴル」(吉田 1998 p138)と称しており、一方の明朝が以前アルタンの北京侵攻を食い止められなかったこと、 明蒙交渉に際して重要な役割を果たした王崇古がモンゴルの脅威を強調していることを考慮すれば、バハンナギ投降からの明蒙交渉の主導権を握っていたのはモンゴル側であると 見る方が自然であろう。 では、なぜアルタンは明朝の和平申し入れを受け入れたのだろうか。それを考察する際に、アルタンが隆慶和議の数年後にダライ=ラマ三世と会見していた ことに注目する。

 1571 年ダライ=ラマとの会見に先立って、アシン=ラマはアルタンと会見し「生ごとに 福徳の資量を積んだことにより、最も尊いハーンとして生まれたのがあなたである」として 称え、アルタンが仏法を守るならばアルタンは菩薩王としてさらに地位を高めるであろう と言った。(吉田 1998 p143) 以上の会見では、アルタンはアシン=ラマから権威を授けられることに、アシン=ラマは アルタンの保護を受けることに成功した。 そして、そのアシン=ラマの手引きによって、アルタンはダライ=ラマと会見した。これ によってアルタンはチベット仏教の保護者としてのさらなる権威を得ることに成功した。

 では、なぜアルタンはアシン=ラマ、ダライ=ラマから権威を授けられる必要があったのだ ろうか。アルタンはオイラトとの勢力圏争いにおいて、青海地方はなんとしても掌握しなくてはならないと考え、そのためにチベット仏教を利用した。また、当時アルタンは老齢であった ため西方に遠征することもできず、現地の部下の統率にも苦しんでおり、チベット仏教の力 を借りることによって、部下への支配を安定させオイラトに備える必要があったのである。 オイラトとは、隆慶和議の 2 年前にアルタンによるオイラトへの遠征が行われるなど、 緊迫した関係が続いていた。以上の状況を踏まえると、私は、このオイラトとの抗争とアルタンの老齢が明蒙関係の急速な改善をもたらしたのではないか、と考えるのである。隆慶和議の 2 年前のオイラトへの遠征から 1578 年のダライ=ラマとの会見にかけ て、アルタンはオイラトとの抗争が続いていたことから、アルタンは中国と和睦することで オイラトとの抗争に集中する必要があったと考えられる。 また、当時のアルタンは老齢であり中国への侵攻は体力的にも厳しいものがあったこと も、急速な関係改善の要因となったとも考えられる。 以上が隆慶和議に見られる急速な明蒙関係改善の理由であると筆者は考える。しかし、和議成立の過程において明朝側資料と『アルタン=ハーン伝』の間には重大な食い違いが見られる。次節では、その理由をモンゴル側の視点から考察する。

 

 

隆慶和議にいたるまでの明蒙交渉

 ここでは『アルタン=ハーン伝』に見られる明蒙交渉について、中国側の記録を合わせて みながら、双方の認識の違いとその理由を明らかにしていく。 先に述べた明朝側の使者ブチネベイがアルタン=ハーンに伝えた内容を『アルタン=ハ ーン伝』では以下のように述べている。

力ある聖ゲゲン=ハーン(アルタン)よ恵みをたれたまえ。この城を囲んで取ることを疾く止められよ。あなたのかわいい子ども(バハンナギ)を引き渡して和睦し、キダド(中 国)とモンゴルは平安に和睦するべきだ。称号・賞を出そう。(吉田 1998 p136)(カッコ 内筆者注)

 このブチネベイの和議の提案を受けて、アルタンは以下のように官人と協議した。

奸計の多いキダド=オルス(中国)をどうして信用できよう。一切の真偽を確かめるため に、清く知恵のある官人たちを使者として送り込めばよいぞ(吉田 1998 p137)(カッコ 内筆者注)

 として、5 人の使者を明に送った。また、その一方で息子センゲをして明の北辺を攻撃させた。それに対してバヤンダラを使者として送り明朝はさらに低姿勢に和睦を乞うた。これに 対して、センゲはバハンナギの無事をモンゴル側の官人に確認させにいったところ、バハンナギは明朝から厚遇を受けており、「平安に大明皇帝の子どものように暮らしている」(吉田 1998 p137)ということが分かったので、センゲは侵略を中断した。 一方、アルタンが送った使者は以下のように明朝に伝えた。

(前略)(あなたがたが)尊んでアルタン=セチェン=ハーンに申し上げた言葉によって、 あなたがたの元にわれらを遣わした。決して八十万キダドは多いと傲慢に考えるな。(中 略)大ハーンのお言葉の通りにその子ども(バハンナギ)を引き出せば安泰だぞ。四十万 モンゴルが続々と出発して迫り、あなた方の四角の諸城砦(北京)を打ち壊し、あなた方 の政道を奪って昔の通りにするだろう。それゆえダイチン=エジェイ(バハンナギ)をだ せ。泰平の大政を和せしめよう。(吉田 1998 p138)(カッコ内は筆者注)

 以上の上奏をもって、明朝はバハンナギの返還と称号と賞を約束し、使者をアルタンの元に 帰らせた。その報告を受けたアルタンはそれを受け入れたので、バハンナギはアルタンの元 に送還された。そして、明朝とモンゴルはジューレ=ハールガという土地で和議を結んだ。 しかし、その時のアルタンの表文(和田 1959 p765)には、アルタンが明朝皇帝に対して全面 的な服属を誓い、貧しいモンゴルに対して憐れみを乞うている記載があり、明らかにモンゴ ル側と明朝側の認識の違いがみてとれる。 この認識の差について、表文が漢文にて書かれていることに注目する。和田清は「恐らく 蒙古の貢表には漢人の手が加はつてゐたためであらう」と述べており、モンゴル側の漢人に よってアルタンの言葉が翻訳された時にこのような改変が発生したと考えることができる。 以上の検討より、明蒙交渉の実体はモンゴル側、明朝側双方の記録に齟齬がある。そして、 それは明朝側の体面の問題、モンゴル側の表文が改変されたことによる問題であることが わかった。

 

まとめ

 本稿のまとめとして、隆慶和議成立当時におけるモンゴルの内政と外交の関係について 述べる。 アルタンは隆慶和議成立当時既に老齢といえる年齢であり、また青海地方などをめぐる オイラトとの抗争が続いており、国力的に中国と戦火を交えることは得策ではないと判断 したことが明蒙関係を改善する内政的要因となった。 また、外交場面において『アルタン=ハーン伝』ではアルタンは大元ウルスの後裔として の態度を以って明朝と対等の立場で交渉しているが、明朝側の記録ではアルタンが明朝に 服従をもとめているかのような記述がなされている。これは、明朝側への表文を漢文に改め る際にモンゴル側の漢人によって改変されたことが考えられる。同様の現象が朝鮮出兵後 の日本と明朝の交渉によって起きていたことからも、十分その可能性は高いと筆者は考え る。 隆慶和議成立の理由にはモンゴル側の以上で検討したような理由があることが分かった。

 

今後の課題

明朝側の史料の検討が不十分であり、今回取り上げたアルタンの使者の上奏に対応する 漢文史料を明実録から発見することができなかった。また、モンゴルとオイラトの関係につ いての考察も不十分であると感じた。 そのため、明蒙交渉の実態の更なる考察とモンゴル・オイラト関係についてさらに調べて いくことを今後の課題とする。

 

 

参考文献

吉田順一,賀希格陶克陶,柳澤明,石濱裕美子,井上治,永井匠,岡洋樹 訳注 『「アルタン=ハー ン伝」訳注』風間書房 1998 年

和田清 『東亜史研究(蒙古編)』東洋文庫 1959 年

城地孝 「隆慶和議の政治過程―明代後期の内閣専権の背景―」『東洋学報』第八十六巻二号 pp.274-278 2004 年

松丸道雄,斯波義信,浜下武志 編 『中国史〈4〉明~清(世界歴史体系)』