善く生きるとは① (「中庸」概説)

1. 「中庸」とは

 「善く生きる」とはなにか。

 古今東西分け隔てなく人々の課題としてありつづけたこの問題に対する一つの答えとして、中国では儒教が生まれ、孔子孟子らによって多くの著作が記された。この教えは、孔子以来、2500年の時を経てなお、常に新たであり続ける不朽の教えである。そして、その根本には「四書五経」と呼ばれる経典群が存在し、移り変わる時代に合わせてその解釈は不断に移り変わり、現代においても新しい解釈が提示されつづけている。

 「中庸」とは、この「四書五経」のうち「四書」の四番目に位置づけられる書物である。「四書」は「大学」「論語」「孟子」「中庸」からなり、このうち「大学」と「中庸」は、南宋朱熹、いわゆる朱子によって「五経」の一つである「礼記」の中のチャプターである「大学篇」と「中庸編」から独立させられ、従来から個別の経典として存在していた「論語」「孟子」と合わせて、儒教の理論を示す重要な経典の一つとした。

 「中庸」の作者は孔子の孫、孔伋、通例では字の子思に尊称をつけて子思子とすることが一般的である。この根拠は史記の「伯魚生伋、字子思。年六十二、嘗因於宋、子思作中庸」という一節に求められ、前漢には「中庸」は子思の著作の一つとしてかぞえられている。これを戴聖が現在の「中庸」の部分を「礼記」の一篇として採録した、というのが通説である。

 「四書」のうち、「大学」と「中庸」の直接の出典となった「礼記」は別名を「小戴礼記」といい四十九編からなっている。「小戴礼記」の編者は前漢の戴聖であり、同門の礼学者戴徳と区別するために「小戴」と呼ばれている。この「小戴礼記」は、前述した戴徳の記した「大戴礼記」八十五編を基礎として、これを要約・補足することによって成立した。以降、「大戴礼記」「小戴礼記」が併存する時代が続いたが、「小戴礼記」には、後漢末の礼学者鄭玄(じょうげん)によって注釈がほどこされ、この注釈は後世の学者における不動のスタンダードとなり、以降は「礼記」といえば「小戴礼記」(以下、礼記)であるといわれるようになった。そして、鄭玄注「礼記」には、唐代に孔穎達(くようたつ)によってより詳しい注(正しくは「疏」と呼ばれる)がつけられた(「礼記正義」)。北宋の二程とよばれる程顥(ていこう)・程頤(ていい)兄弟は「礼記」のうち「大学篇」と「中庸篇」に着目し、儒教理論の概説として両篇に特別の地位を与えた。そして、二程に私淑していた南宋朱熹は「大学」「中庸」を現在しられている「四書」の一つという形にまとめ、両書は「論語」「孟子」に並ぶ儒教理論の概説書としての地位を確立したのである。

 「礼記」は礼について記した書物である。「論語」の中で孔子が何度も言及する「礼」という実践論の具体的な内容が「礼記」においては孔子の実践の記録あるいは言葉、問答、第三者の客観的叙述のような形をもって記され、天子、すなわち王や皇帝から士大夫と呼ばれる官僚にいたるまでの人々が守らねばならない礼の制度を説明している。「礼記」は「儀礼」「周礼」という礼に関する古典と合わせて「三礼」と呼ばれるが、このうち「礼記」はもっとも礼の中にある意味というものに注目していたことから、「三礼」のうちでもっとも重視され「五経」の一として数えられる。

 四庫全書提要には「聖賢の微言精意は、その中に雑わり見はる」(古の聖人の微かにして妙なる言葉やその精髄は、それ(「礼記」)の中で見ることができる)とあり、礼という儒教の中でももっとも具体的実践的な部分の基礎理論が「礼記」の中には示されているのである。こと、「大学」「中庸」両篇というものは、礼を包括する儒教の思想体系を表したものであり、「礼記」の内容を一身の行動の参考とすれば自らの行動を「善いもの」とすることが可能になり、敷衍して統治の参考とすれば家庭を整え、国を治め、天下を平和にすることが可能になる、ということを示したものである。このうち「中庸」は「中庸の徳たる、其れ到れるかな。民に鮮きこと久し」(中庸の徳というのは、徳の諸要素の中でも高いレベルにあるものだが、そんな中庸を心得ている人はめったになくなった)という論語の言葉を根拠とし「中庸の徳」をはじめとする「誠」や「慎独」といった儒教の人間修養における重要な概念について述べている。(たぶんつづく)