「満洲国建国歌」と「大学」八条目 (「中庸」番外編)

 今回は「満洲国」の国歌をとりあげる。

 満洲国とは、現代の中国東北地方に1932年に建国され1945年に崩壊した国家である。満洲国は日本の強い影響下におかれていたものの、建前としては清朝最後の皇帝であった宣統帝愛新覚羅溥儀国家元首として据える満洲人(つまり、マンジュ人)・漢人・蒙古人の三者合同による国家であり、その点においては清朝の後継国家ということができる。

 清朝の統治理念は、遊牧民的な中央ユーラシア型統治理念と漢人的な儒教型統治理念の複合体からなっており、その象徴としては康熙帝の「聖諭十六条」や雍正帝の「大義覚迷録」がある。

 これらの統治理念の特徴としては、先に述べたとおり、中央ユーラシアと中国という二つの大文化圏の包摂にあり、これらの特徴は実質を伴っていたか、という議論はさておき、20世紀に建国された満洲国にも清朝統治理念の継承が見られる、という点は指摘される。

 その一つの足掛かりとして、今回は満洲国の建国歌の歌詞の内容を分析し、そこから儒教的特徴を見出していくこととしよう。

 

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【歌詞】

天地內有了新滿洲
新滿洲便是新天地
頂天立地無苦無憂
造成我國家
只有親愛並無怨仇
人民三千萬人民三千萬
縱加十倍也得自由
重仁義尚禮讓
使我身修
家已齊國已治
此外何求
近之則與世界同化
遠之則與天地同流

 

【拙訳】

天地の内にはすでに新しい満洲国がある

新しい満洲国はこれはすなわち新天地である。

天命を奉じ、国土に立てば、苦しみも憂いもない

そんなわれらの国家を建国した。

ただ、(そこには人々の)親愛の情のみがあり、怨みや仇などはない。

この地には、人民は三千万が息づく。

たとえ、これが十倍に増えようとも、みな自由を享受できようぞ。

ここは、仁義を重んじ、礼儀と謙譲の徳を尊び、

自らの身を修める人々の国だ。

ゆえに家庭は円満であり、国家は治まっている。

このほかに何をもとめる必要があるだろうか。

近くの国とは、世界とともに融和し、

遠くの国とは、天地とともに協調しようではないか。

 

 

 さて、今回問題にする部分は以下の部分である。

重仁義尚禮讓
使我身修
家已齊國已治

  この一節の出典は儒教文献の中でも重要な書物である四書五経のうち「大学」八条目にあることは、疑うべくもない。以下は「大学」経一章より。

【原文】物格而后知至。知至而后意誠。意誠而后心正。心正而后身修。身修而后家斉。家斉而后国治。国治而后天下平。

【通釈】物にいたってのち、知にいたる。知にいたってのち、意が誠になる。意が誠になってのち、心が正しくなる。心が正しくなってのち、身が修まる。身が修まってのち、家庭が整う。家庭が整ってのち、国が治まる。国が治まってのち、天下は平和になる。

  この、物にいたる、朱子の説によれば多くの物についての知見をためる、という個人に具体的な行動から、次第に拡大し、最終的には世界平和にいたる、というこの図式を称して「八条目」という。「八条目」は「格物」「致知」「誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」から構成され、有機的な連関構造にある。これらのうち「格物」から「修身」までが個人にかかわる問題、「斉家」から「平天下」までが社会にかかわる問題であり、ここで性質が分かれる。

 ここで、歌詞に立ち返ると、「重仁義尚禮讓 使我身修」までが「修身」以下に相当し、「家已齊國已治」は後半部に相当する。

 「重仁義尚禮讓 使我身修」のうち、「使我身修」は「大学」が出典であるが、「重仁義」は「孟子」が出典であり、「尚禮讓」は歴史書である「国語」が出典である。

 「大学」出典部分に注目すると、「使我身修」は「修身」に相当し、「家已齊」は「斉家」に「國已治」は「治国」に相当する。

 それでは、なぜ「格物」~「正心」と「平天下」は省略されたのだろうか。

 おそらく前者は過分に思弁的であり、より具体的な前述の「重仁義尚禮讓」二句に置き換えられたのであろう。また「王道」を標榜する満洲国としても、「王道」を最初に主張した孟子の言葉には大きな価値を置かねばならず、「尚禮讓」については前者を提示するための対句的表現のために引用されたとみるべきで、「重仁義尚禮讓」の重点は前半にあると考えることができる。

 後者は、主権国家体制と「八条目」理念の対立のために省略され、「近之則與世界同化 遠之則與天地同流」として言い換えられているとみることができる。

 

 以上、簡潔ではあるが、満洲国建国歌の出典をみていくことで、満洲国が清朝の後継国家として、その儒教統治理念を否定せず、近代的主権国家体制に適合させた形でこれを唱導していた、という点についてみてきた。辛亥革命以降、儒教理念を前近代的なものとして否定されたという従来の見方に対して、満洲国における統治理念というものの位置づけと、それの清朝の統治理念との関係を探っていくことは一つの有意義な考察になると考えられる。