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ブルート(キルギス)人砲手とキルギスの英雄叙事詩「マナス」

 

  以前、キルギスの英雄叙事詩「マナス」についての記事を書いた。ここにおいて、私は「マナス」のクライマックスである「北京大遠征」のモチーフは1690年のジューンガルのガルダンと清朝が北京北方300kmのウラーン・ブトン(現在の内モンゴル自治区赤峰市)における交戦にあるのではないか、という意見を示した。今回は、さらにこれに関して、「マナス」における北京大遠征とジューンガルの軍制あるいは軍事技術とを相互に比較していくこととする。

confu-han.hatenablog.com

 「最後の遊牧騎馬国家」と呼ばれるジューンガルの勢力が強大なものとなった理由として、ジューンガルが保有した卓越した軍事技術を挙げることに異論は無いだろう。

 まず、ジューンガルの軍事技術の内、従来の遊牧騎馬民族の軍事技術と比べて特筆すべき点は、野戦において砲兵を運用したことである。ジューンガルの火砲技術導入は既にバートル・ホンタイジの時代に見られ、佐口(1967:133)によれば1650年ごろには通交関係のあったロシアに鍛冶屋二人、鉄砲鍛冶二人、甲冑一具、大砲一門、鉛、金箔、ノコギリなどを求めている。このようにジューンガルの火器は基本的にロシア経由で導入され、また、ジューンガル領内においても複数のヨーロッパ人が軍器生産に従事していた。特に北方戦争によって捕虜となっていたスウェーデン人レナートは、ガルダン・ツェリンの支配下において、4ポンド砲を15門、小口径砲を5門、10ポンド臼砲を20門製造(佐口1967:135)していた。

 これらの火砲の運用について、清朝側史料『西域図志』巻41によれば、

包(ぱお)は火砲である。鉄を砲身として、その中に硝石、硫黄、鉛玉の類をこめる。あるものの高さ(砲身長)は2-3尺、口径は3寸で、ラクダに載せて発砲する。あるものの高さは2-3尺、口径は5-6寸で、木製の砲架の乗せて発砲する。あるものは長さが4尺あまりあり、内地の鳥槍のように作られ、手で支えて発砲する。砲手の名前を包沁(ぷーちん)と呼ぶ。(『西域図志校注』p534より)

 とあり、このうち、1つ目の火器は、足を縛って横倒しにしたラクダに乗せて発砲していたことからも分かるように、実際に野戦部隊に随従する火砲であったことが想像され、2つ目の火器は砲身に比して口径が大きいことから臼砲であることが考えられ、3つ目の火器はマスケット銃のようなものであることが分かる。これらの火器の他の軍事技術について『秦辺紀略』は、

ガルダンは沙油汁を取って、土を煮て硫黄とする。また、瀉鹵土を取って、煎って硝石とし、その色は雪よりも白い。銅・鉛・鉄なども地中から出る。石が堆積する河岸には、砂金や珠玉が産するものの、退けて用いない。馬が優れ、これが多いことは普通であり、及ぶところがない。このように軍需物資があらかたそろっているから、遠方から供給をする必要がなく、技巧や思考を凝らして、精密で堅牢な武器類を製造している。(『秦辺紀略』ガルダン伝)

  と述べており、当時のジュンガリアには火器運用のための資源が豊富であったことが分かる。イリ渓谷の生産性の高い草原と、上述の優れた兵器類が、ジューンガルの強大化の基礎となったことは疑う余地はないだろう。

 それでは、実際にジューンガル軍はどのように戦闘したのであろうか。ジューンガル軍の戦闘教義について、『秦辺紀略』は、

イスラム教徒に火器の使い方や戦闘技術を教え、まず、鉄砲、ついで弓矢、そして刀槍の順序で戦わせる。兵士には鉄砲と短槍をもたせ、腰には弓矢をつけ、刀を佩く。ラクダには大砲を載せる。出師に際しては国中の人を3分し交代させる。これを聞いて、遠近の人々は恐れて、ジューンガルに服属している。(『秦辺紀略』ガルダン伝)

 としている。ジューンガル軍は基本的に騎兵で構成され、そのうちに伝統的な遊牧民族の軍隊の主力であるオイラト人を中心とする槍騎兵、弓騎兵、さらにブルー卜(キルギス)人を中心としたプーチンに分かれていたと考えられる。プーチンの主力であったブルート人は元来遊牧民であり、騎乗に長けていたことからカシュガリアのウイグル人よりも兵士としての素質が高く、このためにプーチンはブルート人とジューンガルの征服の過程で得たテュルク系遊牧民の捕虜によって構成されていたと考えることが妥当であろう。

 ここで、一度「マナス」の北京大遠征に立ち返える。

 まず、ここで、マナスたちキルギス人が自らを「ブルート」と称している点に注意する。彼らの軍装は背に銃を背負い、手には槍を持つ、というもので、まさにジューンガル軍のプーチンと一致している。そして、キタイ軍との戦闘の開始に伴って、まず「幾千万のオチョゴル(銃)が火を噴き、ジャザウィル(大筒)の発射は数限りなく、大砲の発射はまして多い」と大筒、鉄砲の連射の描写があり、その後、弓兵、それについで白兵戦が描かれ、この順序はジューンガル軍の戦闘教義と一致している。「マナス」における北京郊外の戦闘はこのような順序で始まり、双方一歩も引かぬ乱戦の中、キルギス側に援軍がきたことにより状況が打開し、英雄マナスを先頭にキタイ軍を追撃し、北京城外に到達した。そして、キタイ王であるエセン・ハーンは和平を決意し、幾多の財宝をキルギス人に与え、彼らは凱旋する。

 以上のような「マナス」の北京大遠征において、戦闘様式などの点から、ブルート人のジューンガルの戦争、特にウラーン・ブトンの戦いに従軍した体験が反映されている蓋然性は高い。この点から「マナス」は、ジューンガルと清朝の戦争をジューンガルの視点をもって描いた文学作品としての価値をもっている、と考えることができる。口承によって伝えられた「マナス」を史料として用いることは勿論できない。しかし「心性」に着目した中央ユーラシア史を構築するとき、清朝側ではなく、ジューンガル側の視点によって描かれた「マナス」を看過することも出来ない、と私は考える。