「最初?」の征服王朝ブルガールの興亡

0. 目次 

  1.  はじめに

2. 中世ブルガリア史の概観

2-1. ドナウ・ブルガール・ハン国成立までの経緯

2-2. 建国後のドナウ・ブルガール・ハン国の発展とクルムの登場

2-3.  ブルガリアの改宗とその絶頂期

2-4.  ブルガリアの内憂外患と衰退

2-5.  ブルガール人王朝の断絶

2-6.  「ビザンツの周縁化」と旧ブルガリア領における独立運動

2-7. 小結

3.  「征服王朝」とブルガリア

附 中世ブルガリア歴代君主一覧

参考文献一覧

 

 

1. はじめに

まず、ブルガリアが存在する地理的空間に関して考察する。

 ブルガリアの歴史に大きな影響を与えた地理的条件として、ブルガリアの東西を横断するスタラ・プラニナ(バルカン山脈)と現代のルーマニア国境をなすドナウ川がある。(図1参照)             ドナウ川あるいはスタラ・プラニナ以北はフン族アヴァール族タタール族などが割拠した遊牧民族の世界である。この遊牧世界はステップを中心として、東はハンガリーから西はマンチュリアまでひろがり、定住する農耕民族と比べて高い文化的共通性をもっていた。

 一方で、スタラ・プラニナ以南は現代のマケドニアまで広がる穀倉地帯を抱え、さらに黒海からエーゲ海にかけて地中海世界が広がっている。スタラ・プラニナ以南はキリスト教を文化的な共通の基礎においた、コンスタンティノープルの影響下にある文化的世界も構成していた。

 このような北方の遊牧世界、南方の農耕世界の中間に位置するという地理的な特徴がブルガリアの歴史に対して大きな影響を与えたのである。

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(図1 ブルガリアの地理)

 ついで、日本において通説的なブルガリア通史における時代区分をみる。

 ブルガリアの歴史を区分するにあたって、先史時代からブルガールの侵入、ブルガールの侵入からオスマン帝国による占領、オスマン帝国時代からブルガリア独立、ブルガリア独立から現代という、4つの時代区分を設ける方法は、ブルガリア国定教科書(ディミトロフ 1985)の唯物史観を強く反映した通史にも、クランプトン(2004)、金原(1998)の叙述にも共通している。

 本稿は、この4つの時代区分のうち2つ目、ブルガールの侵入からオスマン帝国による占領までの、いわゆる中世ブルガリアにおけるブルガリア人国家の成立の背景、特に大ブルガールの出現から第一次ブルガリア帝国までに焦点をあてて、その歴史をディミトロフ(1985)、クランプトン(2004)、金原(1998)、ブラウニング(1995)を底本として適宜参照しつつ叙述する。

 

2. 中世ブルガリア史の概観

 

2-1. ドナウ・ブルガール・ハン国成立までの経緯

 

 ブルガールの起源については論争がある。少なくとも、6世紀半ばに指導者クプラトのもとに南ロシア平原に大勢力を築き上げた大ブルガリアまではさかのぼることはできるが、それ以前のブルガール族の起源については不明な点が多い。以下、金原(1983)に沿って、ブルガール族の起源について考察する。

 まず、実証的な研究が開始された19世紀の段階において、ブルガールの起源として有力な説となったのは、フン=ブルガール説であった。デチェフによる「ブルガリア民族名の東グルマン起源」(1926)では、ブルガールの語源を印欧語で「戦う、膨張する」などを意味する”balg”に比定し、「人」を表す”-ari”という接尾辞をあわせて「好戦的な人」という意味にあるとし、これはフン族を示す呼び名である。また『ブルガール汗名録』にみられるアヴィットホルはアッチラに比定され、イルニクはエルナップに比定されると、フンとブルガールが同一民族であることを主張する。

 しかし、その後の言語学的な研究によってフン=ブルガール説は否定された。ミヤテフの「チュルク・ブルガールとチュバシュ」(1938)によれば、ブルガール語においては、子音zがrにかわるという転換がある。しかし、フン語には「デンギジィップ(Dengizich)」という人名からわかるとおり、この転換が見えない。現在この転換がみられるのは西シベリアにすむチュバシ人だけであり、彼らはヴォルガ・ブルガール族の後裔である。ブルガール自体の起源はフンとは関係はなく、オノグール・ブルガールあるいはオノグントゥール・ブルガールとブルガールのことを示す史料が明らかにするとおり、イルティシ川沿いの地域に居住したオグール族(中国では丁令)がブルガールの起源であると比定されると主張した。

 また、ブルガリア史における大著を残したブルモフの「ブルガールの起源に関する問題について」「ブルガールの歴史の諸問題」(1948)では、ブルガールに関する記録はフン族がヨーロッパに侵入する354年のローマ年代記にすでに記録されており、さらに5世紀から7世紀にかけての年代記作者もブルガールとフンを別個の種族として認識している。また、北方の異民族をフンと総称することは当時のローマ世界では往々にしてよくあることだった。また、アッチラとアヴィットホルの類似も他の確固たる証拠がなければならない。ブルガール語とフン語の差異から両者に直接の関係はなく、同族とはいいがたい。また、従来ブルガールが分かれて出でた部族とされたクトリグール・ウティグールについても、6世紀のビザンツ政治家プロコピオスの記述によると両者はブルガールが南ロシア草原にクトリグール・ウティグールはそれぞれアラル海の東西にいる部族とされ、フンの影響下を離れたブルガールが今度は5世紀後半に強大になったクトリグールに支配されたという事実がこれを誤認させたものである。さらに、354年のローマ年代記にブルガールは北コーカサスに住む民族として「生じた」としており、オグール族あるいはフン族以前からブルガール人は北コーカサスに住んでいた民族、すなわちサルマート人の後裔であると主張した。

 近年ではサルマート=ブルガール説はサルマート語とブルガール語の言語的な連続性からみて、否定的な見解が多く、また、354年の年代記に関してもその記述の信頼性に疑問がもたれ、4世紀前半のランゴバルト王国の記録からブルガールはフン帝国に服属する諸遊牧民族の一つであったことが示されているが、この記述も後世の竄入ではないか、という批判が存在する。クトリグール・ウティグール族同族論に関しては、クトリグール=コトラーグ同一説が根強く、いまだ論争が確定していない。ただし、”-gur” とつく民族はブルガール出現の一世紀後ほどに出現しており、ブルガールと同族関係にあるとされるクピ、ドゥチ、チダル、オルホントル、オノグントゥールと並列して述べられているため、これを否定するブルモフの説にたいして同族である主張する学者も多い。しかしながら、古代から中世にかけてのブルガールの歴史については史料的制約が大きく、現代まで議論を進めることが困難な状況が続いている。

 一方で、考古学的成果によれば、ブルガール人と同様の墓制がイルティシ川近辺にも見られ、これを踏まえたとき、ミヤテフの主張の傍証となり、ブルガール=オグール説を検証する余地が生まれる。

 

 そこで、同時代のオグールすなわちテュルク系遊牧民に関する中国側の史書をみてみると、康居の支配下にある阿蘭(アラン)と近接した地域に住む部族として、隋書「鉄勒伝」に以下の記述がある。

 

拂菻東則有恩屈、阿蘭、北褥、九離 、伏嗢昏等,近二萬人

(東ローマの東にはオグール、アラン、ペチュネグ、キル、ブルガールなど二万人ほど)

『隋書』「鉄勒伝」

 

  鉄勒は突厥集団に属さなかったテュルク人の総称と呼ぶべきものであり、北史における「高車」、魏書における「丁令」と同様の存在である。

 ここにあげられるブルガールがどこに居住していたかは不明であるが、ここからわかることとして、オグール族とブルガール族が別の民族として記述されていることである。また、北史「高車」伝にはイルティシ川沿いの草原にすむ高車の部族のうちに、ブルガールの王族ドゥロ氏と比定される「吐盧氏」が見いだされる。

 

高車之族又有十二姓:一曰泣伏利氏,二曰吐盧氏,三曰乙旃氏,四曰大連氏,五曰窟賀氏,六曰達薄氏,七曰阿侖氏,八曰莫允氏,九曰俟分氏,十曰副伏羅氏,十一曰乞袁氏,十二曰右叔沛氏。

『北史』「高車伝」

 

以上の中国側史料から、オグールとブルガールは別の種族と認識されていたこと。オグールとブルガールを包括する鉄勒の前身である高車においてブルガールの王族である「ドゥロ氏」と同様であろうと推測される「吐盧氏」がみられる、ということが明らかになった。ここから、ブルガールのアイデンティティの起源、すなわち実際の生物的な形質ではなく文化的帰属意識の中核として丁令、高車、鉄勒とよばれるテュルク系集団にもとめられると私は考える。

ブルガールは故地であるイルティシ川より西進し、南ロシア草原にうつり、一時はアヴァール支配下にはいったが、クプラトの時、周囲の遊牧民を糾合し草原の支配権を得た。イスラーム・ネットワーク成立以前より、南ロシア草原はシルクロード・ネットワークと接続できる適地であり、アヴァールやブルガール、ハザール、ペチュネグなどの諸遊牧民族が抗争を繰り広げた。

クプラトのたてた大ブルガリアはクプラト死後、5人の息子たちによって分割され、クプラトの遺訓にそむいて西進するハザールの圧力を前に離散、あるいはハザールに併合された。(坂井2016)この離散した息子のうち、アスパルフは南下し、ドナウ川とスタラ・プラニナの間に勢力をはり、681年に現在のブルガリアと連続関係にあるドナウ・ブルガール・ハン国を建国した。一方で、コトラーグに従った集団はハザールの圧力をうけながら、9世紀の初頭までにヴォルガ川とカマ川が合流する流域に新たな拠点を築き、この拠点を中心に10世紀初めまでにヴォルガ・ブルガール王国が建国された。(家島2009:14-15)

これらの大ブルガリア継承国家の間には相互に生活習慣などといった面で連続性があった。また、原初年代記においてもドナウ・ブルガールとヴォルガ・ブルガールの双方を「ボルガル」と記述しており、両者が同一の集団(大ブルガリア)を淵源とする集団であったと認識されていたことがわかる。

 6世紀までのブルガリアをはじめとするバルカン半島内陸部に居住していたトラキア人は、前5世紀に独自の王国であるオドリュサイ王国を建国した。彼らは独自の黄金文化をもっていたが、ギリシア人との活発な交流の結果、ギリシア風の都市を形成するようになるなど次第にギリシア化していった。オドリュサイ王国はマケドニアフィリッポス2世によって弱体化させられ、アレクサンドロスによって滅亡させられた。トラキアはその後、ローマ人の支配下に入り、その元で急速な農業と手工業の発展をみることとなった(前掲書)。また、交通網の整備の結果、幹線道路の結節点となった現代のソフィアであるセルディカなど都市もまた発達した。

 ローマ帝国が東西に分裂した4世紀以降、トラキアにおける経済発展の背景となった大土地所有が崩壊し、自由な共同体農民層が急速に復活し、経済的な構造が一変していった。この転換の結果、トラキアの経済力は比較的温存され、コンスタンティノープルを中心としたビザンツはこの経済力を背景として繁栄を続けることとなった。

 しかしながら、民族移動による異民族のトラキアへの侵入は激しいものとなっていき、ビザンツの努力にもかかわらず、スタラ・プラニナ以北においては異民族が多数を占めるようになり、従来のトラキア人農民はスタラ・プラニナ以南に存続した。この状況はビザンツの支配のもとしばらく続いたものの、6世紀に入ると、スラヴ人の侵入が激しいものとなっていき、7世紀前半にビザンツがペルシアとの戦いを激化させるなかで、バルカン半島は短期間のうちにスラヴ化した。スラヴ人達はアヴァールあるいはビザンツ帝国との抗争の中でプロト国家的な部族・軍事共同体を形成した。

 以上がブルガール侵入までのブルガリアの状況のあらましである。

 ついでブルガール侵入までの歴史を概観する。

このブルガール人の起源については、具体的にそれを記した同時代史料がなく、文化的類似などで示すしかないが、ブルガールのテングリ信仰や暦法、故地などの情報から、彼らの起源はある程度中国と交渉を持ちえたところにあったと想像される。4世紀から5世紀にかけての当時のイルティシ川沿いに勢力を持っていた高車(あるいは丁零のちの鉄勒、オノグルの一派とも)はトゥルク系遊牧民であり、中国魏晋南北朝時代の史書『北史』の高車伝にも記述がある。同伝には、高車は中国に似た呪術を行っているという記述や太和11年に北魏朝貢した記録があり、高車と中国の間になにがしかの文化的関係があったことがわかる。『北史』によると高車には12の有力氏族があった。そのうちに列挙されている「吐盧」氏の反切から見た古音はtǔ-lōであり、tとdは有声無声の差異しかもたず、後述のブルガールの有力氏族「ドゥロ」とほぼ同音と比定しうる。以上から見て、ブルガール人が西進し、諸部族を統合する中核となった人々は高車の部族の一員であったと推定しうる。そして、ブルガール結合の中心となったハンを排出したドゥロ氏は高車の氏族である「吐盧」氏と比定しうるものである。

 

 現代のキルギスあるいは新疆にあたるジュンガリアを故地とする突厥は、当時彼らを支配していた柔然から独立し、6世紀なかごろムカン・カガンの時代に柔然を打ち破り、東は渤海から西はアラル海にいたる第一突厥可汗国の最大版図を確立した。突厥に破られた柔然は西へ逃亡し、アヴァールとしてヨーロッパに現れる。アヴァールは優れた統治組織をもち、ハガン(可汗)配下の強力な軍事力とそれと結合したスラヴ人の生産力を背景として9世紀まで繁栄した。

 西進したアヴァールによって、それまでは西突厥勢力下にあったブルガールは支配されブルガール人は離散したが、ドゥロ氏の指導者クブラトのもとに、離散したブルガール人をはじめとする突厥に追われて東ヨーロッパに移動したトゥルク系遊牧民を統合し、大部族連合としての大ブルガリアを形成した。アヴァールとサーサーン朝との勢力均衡のためビザンツ帝国はこの大ブルガリアと同盟を結んだ。しかし、クブラト死後、属人的権力構造をもっていた大ブルガリアは5人の王子に分割された。

 アヴァールは大ブルガリアの成立によって、現在のハンガリーのあたりまで更に西進し、フランク王国と境を接するようになる。582年に東西分裂した西突厥の内紛によって独立し移動してきた突厥可薩部、すなわちハザールの圧迫の結果、クブラト死後、7世紀後半に大ブルガリアはハザールに隷属しハザールとやがて同化していった黒ブルガリアコトラーグによって率いられ東進しヴォルガ川流域に進出したヴァルガ・ブルガール、アスパルフによって率いられ西進しドナウ川流域に進出したドナウ・ブルガール、アヴァールに西進した後、マケドニアに進出し早期にスラヴ人と同化したクベル率いるブルガールに分裂した。

 このうち、コトラーグによって率いられたヴォルガ・ブルガールは9世紀後半から10世紀にヴォルガ川とカマ川の合流域に拠点を築き、ヴォルガ・ブルガール王国を建国した。ヴォルガ・ブルガール王国はハザールに貢納を続けていたが、10世紀の国王アルムシュによるイスラーム改宗政策によってアッバース朝と結びつきを強め、一時はイスラームに改宗したものの当時はユダヤ教を信奉していたハザールから独立した。アッバース朝と結びついたヴォルガ・ブルガール王国は河川交通による交易活動と中央ユーラシア世界のイスラーム化に大きな役割を果たした。この王国は13世紀に入り、ルーシ諸国の圧迫をうけつつもモンゴルの征服を受けるまで繁栄をつづけたのである。この王国に関する記録は、アッバース朝の第十八代カリフ=ムクタディルの使者とし王国を訪れたイブン・ファラドラーンの残した『ヴォルガ・ブルガール旅行記』(訳注 家島 2009)、正確には『報告書』が残っている。彼がみたヴォルガ・ブルガールは典型的な当時の遊牧民としての生活形態をもっていることを伝えている。

 一方、アスパルフによって率いられたドナウ・ブルガールは現在のドナウ川河口域に移動した。その数は諸説あるが、藤(1978)はドナウ川を渡ったブルガールは通説的にはおよそ1万程度であろうと推測し、さらに人数を多く見積もるその他の説(ロマンスカ説)によっても3万〜5万であるとされている。ドナウ・ブルガールは遊牧生活を行いつつ、周辺の農耕民と交易を行い生計をたてていたが、やがて定住するものも現れた。このドナウ・ブルガールの政治集団はオルホントゥール=ブルガール国とされる。ブルガール人の宗教はトゥルク系に共通するタングラ(テングリ、天)信仰やトーテム信仰が混交したものであり、可汗が最高の神官を兼ねるものであった。また、ブルガール人の暦は中国のそれであり、十二支を用いた。

 以上が、ブルガールがドナウ川河口域、現在のブルガリアルーマニアの地域に移動するまでの概略である。

 

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(図2 ブルガールの移動)

 

 ブルガリアの建国はディミトロフ(1985)によると681年、クランプトン(2004)によると

680年のことであり、679年説、680年説、681年説が並立しており一致するところ見ないが、現代のブルガリアにおける通説としては681年説が取られている(藤1978)。7世紀後半、オルホントゥール=ブルガール国のハン、アスパルフはビザンツ帝国の領土をたびたび略奪し、678年にはコンスタンティノープルまで到達した。これらの散発的侵入、攻撃は一種の威力偵察であり本格的なドナウ川渡河は679年のことである。この時、ドナウ川南岸のブルガールと現地のスラヴ人が盟約を結んだ。ブルガールの南下に対して680年にビザンツ帝国のコンスタンティノス4世はハザールと連合してブルガールとスラヴ人を攻撃したが、ブルガール人の持久戦術の前に撤退を余儀なくされ、撤退際にビザンツ軍は大損害をうけた。結果、ブルガール人はドナウ川と渡り、現在のヴァルナにあたるオデッソスを占領し、拠点をプリスカにおいた。プリスカにはハンのための宮殿などの公共建築が作られ、その城壁の内にはドナウ川を渡ったすべてのブルガールを収容出来る規模をもっていた。681年にはビザンツ帝国はブルガールと平和条約を結び、国際的にこの「ブルガール=スラヴ連合国家」が承認された。この戦いと並行して、アスパルフは現地のスラヴ人首長たちとブルガール人が領土の保全と北方のハザールとの戦いを、「スラヴ7部族」が西方のアヴァールとの戦いを、スタラ・プラニナに居住するセベレイス族がビザンツとの戦いを担当するという条約を結び、ブルガール人とスラヴ人による国家を建設した。この国家は首都をプリスカとし、ブルガール人の主導による中央政権とスラヴ人首長による部族自治が並立する体制をとった。

 ドナウ・ブルガールの君主号については金原(1997)が当時のギリシア文字碑文をもとにこれを明らかにしたが、当研究によると建国後のブルガリアは内的にはトゥルク系に普遍的に用いられるqaγan(可汗)が変形したハン号が用いられており、対外的にはローマ式の王号「アルコン」を用いていた。このハン号の使用例はボリス一世以降においては見られない。そこで、ボリスの改宗以前のブルガリアと以降のブルガリアを分けて、前者を金原(1998)にならってドナウ・ブルガール・ハン国とし、後者を第一次ブルガリア帝国、とする。従来の通史では、アスパルフ以降のブルガリアの国号には統一した訳語が定められておらず、先述の両者を併せてブルガリアとするディミトロフ(1985)の記述ではドナウ・ブルガール・ハン国と現在のブルガリアとの差異を明確にしているとは言いがたく、ドナウ・ブルガール・可汗国とする記述もまた、可汗のブルガールにおける正確な音写であるハン号を用いる方がより正確であるため、本稿ではアスパルフとその後継者によって率いられた政治集団をドナウ・ブルガール・ハン国とする。そして、現在のブルガリアとの連続体の上にあるという意味合いで、ドナウ・ブルガール・ハン国以降の現代のブルガリアに連なる国家群を「ブルガリア国家」とする。

 

 

2-2. 建国後のドナウ・ブルガール・ハン国の発展とクルムの登場

 

 681年の和議の結果、ビザンツはブルガールに貢納をすることが義務付けられた。この和議は688年に破られるが、アスパルフは再びビザンツ軍を破った。アスパルフの軍事力はスラヴ人アヴァールあるいはビザンツ、すなわちギリシアやフランク、すなわちラテン・ゲルマンから保護するために大きな役割を果たした。

 701年(あるいは700年)にアスパルフがハザール軍の前に戦死し、その後を継いだテルベルは705年に失脚していたビザンツ皇帝ユスティアノス2世を支援し、復位を果たさせた。この結果、ザゴリア地方を支配下におき、ブルガールのスタラ・プラニナ以南への勢力伸長の基礎を築くことに成功した。717年から718年に及ぶアラブ人の侵入に対しても、ブルガリアはこれを打ち破り、コンスタンティノープルを包囲から救い軍事力を示した。

 8世紀中葉にブルガールの王権はアスパルフの血統にあたるドゥロ家からヴァキル家に移った。この政権の移り変わりにあたる内紛に乗じて、ビザンツ軍はブルガリアに数度にわたって侵攻したが、その試みは失敗に終わり、768年にテレリグがハンになると、ブルガリア内の親ビザンツ派を粛清し、ビザンツ帝国に対して攻勢にでた。テレリグは敵対派貴族によってビザンツへの亡命を余儀なくされたが、777年にテレリグを継いだカルダムは789年にビザンツ軍を壊滅させ、マルケライ要塞の会戦においてコンスタンティノス6世の軍隊を破り、791年には条約によってビザンツはブルガールへの貢納を再開することになった。

 803年にハンになったクルム(803-814)はアヴァール崩壊後、ブルガールの西方進出を図り、それに乗じてブルガール自体を西遷さえようと807年に攻撃を仕掛けたビザンツに対して反ビザンツ的なスラヴ人と連携し撃退、さらには交通の要衝で現在のソフィアであるセルディカを支配下にいれた(809年)。さらに報復として、811年にプリスカを略奪したビザンツ軍をスタラ・プラニナ山中において壊滅させ、当時の皇帝ニケフォロス1世を戦死させた。その後、クルムは716年に結ばれた条約の復活を求めたが交渉は決裂し、ブルガール軍は広範囲にわたってアドリアノープルをはじめとするビザンツ領を占領し、813年のベルシンキアの会戦においてビザンツ軍を破ると、コンスタンティノープルに迫り、城下の盟を誓わせようとしたがビザンツ側はこれを拒否し、クルムの暗殺をはかったがこれに失敗した、814年、コンスタンティノープル攻城戦の準備の最中にクルムは病死することとなる。このクルムを継いだオムルタグ(814-831)はビザンツへの攻勢を放棄し、30年間の期限付き和平条約を815年にビザンツと結んだ。オムルタグは和平条約を背景にフランク王国カール大帝の子供ピンによってアヴァールが崩壊し空白地帯となった西方への勢力伸張を目論見、フランクの支援をうける離反したスラヴ部族を攻撃し、現在のルーマニアにあたるトランシルバニアを手中におさめ、さらハザールを打ち破り、ドニエプル川まで支配下にいれた。オムルタグの死後、息子マラミル(831-836)が跡をつぎ、マラミルの死後、兄の息子、プレシアン (836-852)が後継となり、和平条約を破って侵入したビザンツ軍を打ち破り、バルカン半島南部、南西地方のスラヴ人を併合した。この結果、ブルガールはビザンツ、フランクに次ぐ、第三の軍事・政治勢力となった。

 このブルガールの膨張の背景には、ブルガールにおけるスラヴ人の割合がスタラ・プラニナ以南進出によって急増したことがある。この結果、スラヴ人の発言力が増大し、クルムはスラヴ人を国家の上部行政機関に加え、従来の個別の慣習法による法体系から、新しく統一された成文法を施行し、ブルガール人のスラヴ化がすすみブルガリア民族が次第に形成された。このスラヴ化の結果、ブルガールの国策としてスラヴ民族の統一が志向されるようになり、これが9世紀におけるブルガールの膨張の要因となった。しかしながら、ブルガールの遊牧民族的伝統は宗教や慣習において未だ強く残り、有力首長による合議による相続には遊牧民的な要素が残存していた。このような遊牧民的要素もプリスカ周辺へのブルガール人の定住などを経て次第に失われ、スラヴ民族との混交を推し進めたクルム以後、急速に消滅していった。ここにおいて、クルム以前と以後のブルガリアはその国家としての性質を変え、クルム以前の遊牧民族的要素の色濃い国家から、クルム以後ヨーロッパ的な初期封建国家へと姿を変えていったのである。(金原 1997)クルム以後、強力に推し進められた民族的な混交は、藤(1978)によればボリスによるキリスト教改宗、キリルとメトディによるスラヴ文字の発明によってより一層加速的に進み、最終的に10世紀初頭に完了したとする。

 

2-3. ブルガリアの改宗とその絶頂期

 

 852年にプレシアンの後継となったボリス一世は、856年にビザンツ帝国に占領地を承認させた。この南部国境の安定化に対して、北西部国境はアヴァール東フランク王国との抗争にさらされ続けていた。この状況にあってハンを頂点とする中央政権を担うブルガールとそのもとで自治を行うスラヴ人によるブルガールの政治体制は、スラヴ人の増加によって限界を迎えつつあった。そのため、クルム以降のハンはブルガールとスラヴの融和を推進し、スラヴ民族の力を加えて自らの国を維持しようと図った。クルム以降の異なる宗教をもつブルガールとスラヴの融和を促進が図られたブルガールを支配するイデオロギーとして、従来の遊牧民族的なそれは適したものではなくなった。862年にアラブ人あるいはアヴァールの侵略から国力を回復させたビザンツとの戦争における敗北と864年の「深い和平」はブルガールがすでに国内で一定の勢力をもっていたキリスト教を公式に導入する契機となり、ブルガールの一斉改宗が行われた。この改宗に対しては国内において強烈な反発を招いたが、ボリス一世は強硬な手段をもってこれを鎮圧した。この改宗をもってドナウ・ブルガール・ハン国は第一次ブルガリア帝国へと移行した。ボリス一世は従来のハン国において宗教をハンが独占していたように、皇帝がブルガリアにおけるキリスト教を独占することを目指して、より有利な条件を得るためにローマ教会に使者を送った。しかし、ローマ教会にはブルガリアに独立を与える気はなく、結局のところローマとビザンツの関係の緊張に伴うビザンツ側の態度の軟化により、870年の公会議においてコンスタンティノープル総主教の主権のもとで、ブルガリアは独立大主教座として分離させる、ということでこの問題は決着した。このブルガリアの集団改宗はブルガリア民族の統一に大きな役割を果たしたが、ボリス一世がローマへ派遣した使者の携えた106条におよぶ質問状のうちにみられるブルガリアの伝統的な食事作法には、イブン・ファラドラーンが見聞したヴォルガ・ブルガールと共通する遊牧民的伝統が生きており、この時期のブルガール人がスラヴ人と同化しつつあったとはいえど、ある程度の伝統を有している過渡期であったことがわかる。

 改宗以後、優れた外交家でもあったボリス一世の元でブルガリアビザンツは平和的な協力体制を築き、コンスタンティノープルの職人や聖職者たちがブルガリア内にそれぞれの目的のために入っていった。その結果として、ブルガリアの文化的地位のコンスタンティノープルに対する低位が浮き彫りになってきたため、ボリス一世は独自のスラヴ語典礼を積極的に取り入れた。このスラヴ語典礼導入もまた宗教を政権がコントロールするための手段の一つであった。

 889年に老齢となったボリス一世はウラディミルに譲位した。ウラディミルは反ボリス派の廷臣と結託し、旧来の宗教へ復帰しようとするなど反動政策を行った。これに対して修道院に入っていたボリス一世は旧近衛部隊を率いてウラディミルを退位させ、ブルガール人スラヴ人による貴族会議の同意のもとにシメオンを即位させた。さらにこの貴族会議によってボリス一世は首都を旧来の宗教の色が濃いプリスカから、プレスラフに遷都を決定した。シメオンはボリス一世の政策を基本的には踏襲したものの、ブルガリアビザンツの協調政策を放棄した。シメオンはビザンツブルガリア商人に与えた不利益を理由としてビザンツに対して開戦した。開戦後、マケドニアに派遣されたビザンツ軍はブルガリア軍に敗北し、しかしこれに対してもビザンツ皇帝レオン六世は東方にあった主力軍を西方に移動させず、手元の兵力で南から、北方からマジャールに攻撃させた。この南北の攻撃に対してシメオンはあえて最初はマジャール軍に抵抗せず、南から侵攻するビザンツに対して和平を求めて、ビザンツ軍を一時的に撤退させた。この間にブルガリア軍とこれと連合したトゥルク系のペチュネグ軍とともにマジャールを攻撃し、ハンガリー平原に彼らを追いやった。そして、シメオンはビザンツとの交渉によってブルガリア人捕虜を奪還すると、交渉を中断した。ついにレオン六世は主力軍を東へ送ったが、シメオンはその軍をブルガロフュゴンにおいて迎え撃ち、これを破った。この勝利ブルガリアの国土を荒廃させたものの、ビザンツからの貢納と有利な国境画定を定めた講和が896年に結ばれた。この講和は912年まで有効であったが、レオン六世の死後、ビザンツの強硬派がブルガリアへの貢納を停止したため、ブルガリア軍はコンスタンティノープルに進軍し、城壁の前に野営した。これを恐れたビザンツは貢納を支払い、コンスタンティノープル主教をしてシメオンを「皇帝」として宣言させた。さらにシメオンは幼い皇帝に自らの娘を嫁がせて、自らの血統がローマの皇帝となることを願った。しかしながら、シメオンは軍事的勝利を示しておきながら、政争に敗れてついてローマの皇帝になるという機会を逸した。ブルガリア軍はビザンツを攻撃したものの、海軍力を持たないブルガリアコンスタンティノープルを落とすことはついにかなわず地方都市を落とすばかりであった。その内にビザンツセルビアマジャール、ロシアなどブルガリア周辺国と外交関係をもち、ブルガリア軍はしばしば多方面への遠征を余儀なくされた。また、ブルガリアイスラーム教徒であるファーティマ朝のカリフと交渉をもち、彼の海軍力を借りようとしたが、その経済力にものをいわせたビザンツの外交の前に破れ、その試みは924年に失敗した。シメオンは「ブルガリア人とローマ人の皇帝」を名乗り、そのために常にビザンツから外交上の抗議を受け続けた。シメオンはビザンツセルビアとの戦争には勝利したものの、マジャール人によって後背地たるトランシルバニアを奪われ、926年にはクロアチアに大敗北を喫した。そしてついに927年、シメオンはビザンツへの戦争を準備する最中にプレスラフにおいて死去した。シメオンの治世においてブルガリアではスラヴ・キリスト教の中心地として文化を著しく発展させ、現代のバルカン半島をほぼ統一するほどの著しい「ブルガリア人とローマ人の皇帝」の名にふさわしい軍事的な成功があったものの、一方において経済的な面ではブルガリアはその絶頂期に到達し、後退局面に入っていたのである。

 

2-4. ブルガリアの内憂外患と衰退

 シメオンの跡を継いだのは、シメオンの長子ミハイルではなく、次子ペータル(927-969)であった。ペータルの治世に入った直後にビザンツと30年間の和平条約を結び、シメオン時代のブルガリアの対ビザンツ政策を一挙に転換させた。ビザンツとの国境を904年の時点に戻し、その代償として、ブルガリアに年貢を納める義務を負うものであった。この和平条約において、ビザンツブルガリアの支配者は皇帝(ツァール)の称号を認められ、ブルガリア教会の独立も承認した。

 この方針転換はブルガリア人貴族の反発を招き、シメオンの長子ミハイルによる反乱など貴族反乱が多発した。この反乱はすべてペータルによって鎮圧されたが、その鎮圧のさなかに発生したセルビア人の蜂起には対応することができずに、セルビア人は独立を回復することに成功した。

 また、934年には北西からはハンガリー人が、北東からはキエフ=ルーシのイーゴリ一世とペチュネグ人が、ブルガリアの国内に侵入した。ルーシは海軍力をもっていたため海軍を持たないブルガリアは苦境に立たされたが、「火を備えた船にのって彼らを迎え、筒で火をルシの船に放ち始め、恐ろしい奇跡が見られた」(國本 1988 )とルーシの年代記が語るようにビザンツ軍はその秘密兵器である「ギリシアの火」を用いて、ルーシ海軍をまたたくまに破った。その後もハンガリー人の侵入が相次ぎ、ブルガリアの国土は荒廃した。

 以上のような内乱の多発、外敵の侵入という状況に加えて、ブルガリアの民衆は、ボリス一世の改宗以降、ビザンツの社会制度を導入したことに伴い、賦役と現物税の増加に見舞われた。そして、貴族層もブルガール人の質実剛健な伝統を放棄し、ビザンツの文化を導入した結果として奢侈に走るようになっていった。この状況において、社会的な負担の増加への不満は公権力、ひいては公式な教会へと向けられ、民衆の間にボコミール派の勢力が広がっていった。ボコミール派は物質をすべて悪とみなし、華美を排し、平等を重んじ、皇帝権力に対しても非協力的な態度をとった。その国家権力において危険な教義のためにボコミール派はたびたび皇帝によって弾圧された。

 この内乱の多発、外敵の侵入、ボコミール派の隆盛、この3つの苦難のために、ペータルの治世はブルガリアの衰退期であるとされる。シメオンの時代に膨張した帝国は様々な面において、その限界を表しつつあったのである。しかし、ペータルの対ビザンツの平和政策はブルガリアが内憂外患を抱えているにもかかわらず、帝国をある程度維持することに成功していたのである。

 しかし、この対ビザンツ平和政策が崩壊すると状況は一変した。966年、ビザンツは国内の情勢を整え、アラブの危機を乗り越えると、ブルガリアに対する貢納を停止した。これに対してブルガリアビザンツに侵攻しようとしたが、この試みは失敗した。ビザンツは、ブルガリアの行動に対し、ハザールに大打撃を与え隆盛を誇っていたキエフ=ルーシのスヴャトスラフに贈り物を与えてブルガリアに侵攻させ、968年にルーシ軍はドナウ川北岸を占領した。折しも発病したペータルは国政を貴族に委ね、彼らはビザンツとペチェネグに援助を求めた。ビザンツは新しく即位したペータルの息子ボリス二世(969-971)と新条約を結び、ビザンツキエフ軍を排除する際には援助を与える義務を負った。また、ペチュネグはキエフを攻撃し、スヴャトスラフはブルガリアからの撤退を余儀なくされた。

 翌年の969年、ルーシ軍は再びブルガリアに侵攻した。ボリス二世はビザンツに救援を求めたが、ビザンツ側は援助を与えなかった。この時、スヴャトスラフはその貴族と母に、「私はキエフにいるのが嫌です。ドナウのほとりのペレヤスヴェツに住みたいと思います。そこがわが国の中心であり、そこにはありとあらゆるよい物が集まって来るからです。(後略)」(國本 1988)と語り、ブルガリアを占領した後も、継続して支配する意思を示した。ここに窮地に陥ったボリス二世は敵であったルーシと連合し、970年ビザンツへ侵攻した。この侵攻に対し、ビザンツ軍はブルガリアに逆侵攻し、包囲の後に、971年4月5日、ブルガリア軍とルーシ軍の守る首都プレスラフを陥落させた。そして、ルーシ軍をドナウ川南岸、現在のシリストラにあるドラスタルに追い詰め、ルーシ軍を北方へ追い払った。この時の和約ではビザンツはルーシに貢納の義務を負うことを約束したが、スヴャトスラフはその帰途にペチュネグ人との戦いに破れ戦死し、彼らによって髑髏杯にされた。ルーシの北走直後にビザンツ軍はブルガリア皇帝を捕虜とし、東部ブルガリアビザンツ支配下に入った。この時点をもって、アスパルフから始まり、クルムより連綿と連なるブルガール人の血統によるブルガリア全域支配は終わりを迎えたのである。

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(図3 ブルガリアへの外敵の侵入)

 

2-5. ブルガール人王朝の断絶

 ビザンツによる占領を免れた西ブルガリアでは、地方長官ニコラの息子たちによるサムイルらによって実効支配されていた。ボリス二世の息子ロマンは捕虜となっていたが、ビザンツ国内から脱出し、西ブルガリアへ帰還することに成功した。ロマンはオフリドを首都としブルガールの血統を引く最後のブルガリア皇帝(976-991)となり(西ブルガリア帝国)、共治帝サムエルと共にビザンツへの抵抗を行った。西ブルガリア帝国はボリス一世とシメオンの国家組織を継承したが、結局のところ地方的な勢力であることに終始していた。991年、ロマンは戦死するが、跡を継いだサムエル(991-1014)は精力的な軍事活動を行い、1000年頃には、ドナウ川北岸の領土、東ブルガリアを回復し、さらにはセルビアなどアドリア海方面に攻撃を加え、北西のハンガリーとの関係も改善させた。しかし、1001年から1004年にかけて再びアラブに勝利したビザンツ軍は東ブルガリアを征服し、1009年にクレタの会戦においてサムエル軍は破れ、アドリア海における勢力を失った。さらに1014年のベラシツァの会戦では「ブルガリア人殺し」バシレイオス二世は集中したブルガリア軍を包囲殲滅し、捕虜となった1万5千のブルガリア兵士は100人の内、1人の片目を除いて目を潰された。この軍事的打撃と相まって、この目を潰された兵士たちを見たサムエルはショックのあまり心臓発作におちいり、2日後に急死した。サムエルの跡を継いだガウリル・ラドミル(1014-1015)はブルガリア貴族の分裂を抑えることに失敗した。そのためガウリル・ラドミルは甥のイヴァン・ウラディスラフ(1015-1018)に殺された。イヴァン・ウラディスラフはバシレイオス二世に臣従を申し出るも受け入れられず、1018年にイヴァン・ウラディスラフは戦死し、ブルガリア国家は急速に崩壊し、バシレイオス二世はブルガリアを占領した。

 翌年1019年までにブルガリア国家による組織的抵抗は終結し、ブルガリア全域はビザンツ支配下に入ることとなった。しかし、それはスラヴ人侵入以前のビザンツの状態に戻ったのではなく、他のスラヴ人においては進行したギリシア化となじまないブルガリアの言語を操る「ブルガリア民族」は残存したのである。

 

2-6. 「ビザンツの周縁化」と旧ブルガリア領における独立運動

 その後のビザンツ支配下におけるブルガリアでは、ビザンツ経済へブルガリアが編入された影響によって、従来の現物経済から貨幣経済への転換が図られ、さらに大土地所有が進んだ。このように封建体制が強化された結果として、ブルガリア地域のみならず各地の貴族の独立傾向が強まり、1204年にビザンツ帝国一時滅亡すると、それ以降地方勢力はさらにその独立性を増し、頻発する貴族反乱に対して帝国の後背地たるブルガリアを重要視したビザンツ皇帝は度々遠征を行っていったものの、帝国は解体へと向かっていった。さらに経済構造の転換は農民に対する負担を増大させ農民反乱も頻発した。その中で、西欧勢力、特にイタリアの勃興による「ビザンツの周縁化」の過程において生じた増税に反対したアセンとペータルの反乱によって、ビザンツ帝国ブルガリア支配は1185年に最終的に失われた。この反乱によって、ビザンツ帝国からブルガリアが独立した背景として、従来の貴族反乱に対して、ブルガリア人という民族意識を掻き立て民衆を反乱に引き込むことに成功した在地貴族アセンとペータルの反乱が「ビザンツの周縁化」という世界システムの変革によるビザンツの衰退という時期に発生した、ということがある。(井上1994) 

この反乱の結果成立した第二次ブルガリア帝国は、ドナウ・ブルガール・ハン国や第一次ブルガリア帝国におけるハンや皇帝と比較すると弱体な君主権力しか持たない、独立傾向の強い貴族たちの封建体制の上に象徴として立つ体制、つまりビザンツの体制の完全なる模倣をせざるを得ず、これまでのブルガリア国家と比べると、その性質を大きく異にしていたのである。

 

2-7. 小結

 ここまで、ドナウ・ブルガール・ハン国から第一次ブルガリア帝国、西ブルガリア帝国、第二次ブルガリア帝国成立にいたるまでのブルガリアの辿った歴史を概観してきた。以上の歴史を踏まえて、本節では小結として、この時代のブルガリア国家の国家組織と社会について概観する。

 井上(1994)によれば、第一次ブルガリア帝国(ドナウ・ブルガール・ハン国)はその成立以降膨張を続けていったが、その反面、領内に多数のスラヴ系農耕民を抱えるようになった結果、国家支配体制としては従来のブルガールの遊牧民族的な統治方法は限界を迎え、ブルガリアの支配層はビザンツとの交易を独占し、ビザンツの国家制度を導入することによって、従来のブルガール的支配体制を脱却し、新しい状況に対応した。しかし、その早急な導入は国内の農村経済の停滞と反ビザンツ勢力による反発の発生という矛盾を生み出し、この矛盾を抱えたまま第一次ブルガリア帝国ビザンツに併合された、と指摘する。

 このブルガール人の統治制度について、ブラウニング(1995)の議論を元に概説する。ブルガール人は遊牧民において始原的である多頭制の支配ではなく、オルホン・エニセイ突厥碑文にみえるトゥルクの発達した強固な政治組織、発達した官僚組織、政治の伝統を持っていた。『ブルガール・ハーン名録』からは、ブルガールにおいてはドゥロなど特定の家系の長子相続による世襲支配が行われていたことが分かる。このハンの元に、ブルガール人貴族たちは「内」と「外」に別れ、「内」貴族は中央政府において高官をつとめ、彼らのうちから貴族会議が行われハンの権力を強化・制限した。地方においては、ブルガール人が貢納と保安に関わり、スラヴ人の地方領主が日々の生活を取り扱っていた。そして戦時には、ブルガール人の男子は皆騎兵として、スラヴ人は徴発され軽装歩兵として外敵にあたるという民族別の軍制をもっていた。しかし、ハン国の征服地が広まるとスラヴ人の有力者と支配者であるブルガール人との間で摩擦が発生し、クルムはスラヴ人の有力者を貴族層に編入することで摩擦を解消しようと図った。このスラヴ人の貴族化に加えてブルガール人とスラヴ人の共通法典を制定した結果、スラヴ人在地社会はブルガール人による国家機構と融合し、封建的な半独立的な在地領主と中央政府からなる新しいブルガリア国家制度へと変化していった。ボリスによる改宗によって導入されたキリスト教の支配概念とビザンツの統治制度はさらにこの統一的ブルガリア国家制度を強化していった。さらに、国家と教会の言葉としてスラヴ語典礼が導入されると、共通の民族的感情や伝統が発達した。

 このようなブルガール人の支配体制は彼らと遠く関係を持つと考えられる突厥の支配構造と類似していることが考えられる。突厥の支配構造の特徴を護(1992)は、

1)国家の中心から比較遠くに住む諸族は、可汗から直接任命・派遣される官僚、トゥクドゥンの下にあって、それぞれ固有の族長を通じて観察・「徴税」されていた。

2)多くの諸族は、いくつか集まって、阿史那氏一門出身の「封建」的諸侯の采邑をつくり、多くは、これまたそれぞれ固有の族長をへて、その「封建」的諸侯に支配・「徴税」され、また軍事力を提供していた。

3)阿史那政権に敵対せず、または、それに貢納をおさめているかぎりは、みずからの首長・君長をたてて国家をつくり、一種の「独立」を許されるものであった。

 これをみると建国当初のブルガール人は、以上のような特徴を持つ突厥の支配体制を踏まえた支配体制を持っていた、といっても十分に妥当であろう。しかし、ブルガールと突厥の相違点としては、突厥は中国人やソグド人などと結合してもあくまで大多数は遊牧民族である国家を当然に維持しつづけたのに対して、ブルガール人は多数を占めるスラヴ人を含んだがために、遊牧民族国家としての性質に加えて農耕民族国家としてのスラヴ人社会を大きな割合をもって並立させざるを得なかったのである。

 このように建国当初の二重性をもった支配機構は、ブルガリア国家の発達に伴ってビザンツ様の封建社会へと変貌していった。そして、ブルガリア国家としての紐帯は半独立的な封建貴族たちの誕生によって緩み、井上(1994)の指摘する状況において、衰退していったのである。そして、ビザンツの辺縁化はビザンツの紐帯の弱体化を招き、昔日の第一次ブルガリア帝国のように独立的な封建貴族層の離反を招き、その結果としてアセンとペータルの反乱をきっかけとしてトラキアでは、封建貴族たちの新しい紐帯としての性質をもった第二次ブルガリア帝国が成立したのである。

 ここから明らかになることは、ブルガリア国家の性質は建国以来、遊牧民的なそれから封建社会へと大きくその性質を変えていったことである。そこで次節では、このブルガリア国家の性質を「征服王朝」という概念を元に、中国の「征服王朝」と比較しながら、これを分析していくこととする。

 

3. 「征服王朝」とブルガリア

  ドナウ・ブルガールから第一次ブルガリア帝国(以降、両政権を併せてブルガリアと称する)にかけての国内経済は都市部を除いて、全体としては自給自足的な貨幣も市場も存在しない状態であった(Browning 1995:148)。一方で、ブルガリアに南接するビザンツの経済においては、すでに国内においては貨幣経済が定着し、国際的にはビザンツの生産する商品は、イスラーム・ネットワークに受動的に依りつつも、北欧、西欧に存在する需要によって常に一定の貿易の利益を得ることができる立場にあった。

 経済においてブルガリアは全くビザンツよりも発展途上の状態にあり、同時代の西欧諸国がそうしたように、自国の通貨を鋳造し、国内市場の創出を目指すよりも、ビザンツと直接交易を行うことによって、すなわち経済的にはビザンツ帝国に組み込まれることによって支配階層の需要を満たすという方法で、自らの経済を成立させた。

 また、ブルガリア経済においては、セルディカ(現在のソフィア)を経由する街道などを通過する交易から上がる関税とビザンツからの貢納が重要な立場をもっていたことは十分に予想されることである。しかし、ブルガリアの関税システムはビザンツのそれと比べて、下級官吏が存在しないこととあいまって精緻なものであるとはいえず、(Browning 1995:151)貢納についてもビザンツ側からしばしば打ち切られることがあり、これらは国内から上がる現物収入と比べると不安定な収入源であった。

 このようにビザンツに経済的に従属しつつもブルガリアが独自の立場を保持しえた理由として、彼らの卓越した軍事力が挙げられる。徴兵によって構成されたビザンツの軍隊とは異なり、ブルガリアの軍隊は装備の整った強力なブルガール人の常備軍、碑文によると「扶養された者達」を中核とし、適宜動員されたブルガール人軽騎兵スラヴ人歩兵によって構成された。(Browning 1995:180)ブルガリアの軍事力は、その強い力に比して、補給を現調達に依存するなど、遊牧民的要素を強く持っていた。また、クルムのコンスタンティノープル攻撃に準備された膨大な攻城具などに示されるように、兵器の生産はブルガリアにおける重要な課題であり、これはブルガリアに経済において大きな比率を占めていた。(Browning 1995:150)つまり、ブルガリアの軍事力はビザンツから独立を維持するために、あるいは自国の経済を維持するために、必要不可欠な要素であり、ブルガリアビザンツの間の関係の基調は以上の理由によるのである。

 本章では、このブルガリアの経済的な特徴を比較的に考察したのち、中世バルカン半島の交易の様相とそこから明らかになるブルガリアの世界交易システムにおける位置づけをすることを目的とする。

 以前指摘したように、ドナウ・ブルガールの特徴は農牧の二重性にあり、その国家的性質は「征服王朝」と呼ぶべきものであるという点を考慮した際、ブルガリアと比較するべき対象として挙げられるのは、「征服王朝」として本来位置づけられた遼・金・元といった王朝があるが、今回は特にその中でも遼に注目して相互の比較を行うこととする。

 まず、両者の国家体制を比較する。

 島田(2014:50)によれば、遼の官制の特徴として「「国制を以って契丹を治し、漢制を以って漢人に侍す」と、『遼史』百官志の序にあるように北面(契丹人以下の遊牧民に対す)・南面(漢人渤海人などの農耕民に対す)の二元制をとったところに特色がある。しかしその基底には、国家の枢機や軍国の大事は、これを契丹人(北面官)の掌中ににぎり、漢人(南面官)には参与させないという、契丹人による一元主義が基調となっていた」とし、このうち、南面官については基本的には漢人の伝統的な統治体系、すなわち三公六部など唐制にならった形態をとり、建前としては「漢人漢人」を治めるというような制度設計がなされていたが、島田(2014:65) の指摘によると、実態としては重要な決定に関する役職には契丹人がついており、実質的に契丹人による一元的支配がなされていたことが明らかになっている。

 このような農牧双方を本来の方法で一元的に支配するシステムは、一方で中世ブルガリアにおいても存在していた。Browning(1995:170)は「ブルガリアでは一種の二重の行政構造が生じたと思われる。それは一方ではハーンと彼のブルガール人貴族が貢納と保安に係わり、他方ではスラヴ人小領主と村長が彼らの同胞の日々の生活を扱うといったものであった」と言及し、これはすなわちアスパルフが現地のスラヴ人首長たちとブルガール人が領土の保全と北方のハザールとの戦いを、「スラヴ7部族」が西方のアヴァールとの戦いを、スタラ・プラニナに居住するセベレイス族がビザンツとの戦いを担当するという条約を結び、ブルガール人とスラヴ人による国家を建設した、というブルガリア成立の事情と密接に連関するものである。

 しかし、ブルガール人とスラヴ人の関係は条約関係通りの対等なものではなく、少なくともクルムの時代におよぶまでブルガール人優位であった。つまり、大ブルガリア以来の政治的伝統から中央集権をすでに確立したブルガール人と、部族制社会を構成し一体的なまとまりをもたなかったスラヴ人の間の力関係は、クルムのスタラ・プラニナ以南の征服によって、ビザンツ化し中央集権制度のうちに適応していたスラヴ人ブルガリアに取り込まれることによって、集権的統治に適応したスラヴ人の比重が増し、彼らを政権に組み込むための統一法典に象徴される同化政策、すなわちブルガリア化政策が行われるまでは、ブルガール人の優位にあり、基本的にはスラヴ人とブルガール人の複合国家であるブルガリア国家のイニシアチブは遊牧民的なブルガール人が一元的に担っていた。

 これらの点をかんがみるに、統治における農牧二元制と軍事に代表される国家の枢機における遊牧民による一元制の支配という特色において、クルム以前のブルガリアと遼朝において共通する要素がある、ということがいうことができるだろう。

 では、他の要素についても比較を重ねることとする。

 ついで、軍事システムについて比較する。

 遼朝の軍事システムは皇帝直轄の「御帳親軍」と契丹人の部族ごとに編成され有事には主力として動員された「衆部族軍」、各州県の治安維持を基本的には担い、特別の有事には戦列に参加した徴兵された農耕民による「郷兵」からなっており、軍事力の根幹は契丹人以下遊牧民によって構成されていた(島田 2014:67-70)。

 一方で、ブルガリアの軍事システムもまた、ハン直轄の「扶養された者達」と、おそらくは部族ごとに編成されたブルガール人騎兵、そして、有事の際に部族ごとに動員されたスラヴ人歩兵からなっていた。

 両者ともに中央集権君主の直轄軍と、遊牧民による主力軍、そして適宜動員される農耕民軍からなる軍隊を編成していた、という点において共通する特徴をもっていたことがわかる。

 また、「文字」という側面についても両者は興味深い共通点を有していることがわかる。

 遼朝は「契丹文字」とよばれる特徴的な文字システムを構築した。島田(1979)によれば、遼朝は、彼らの使用言語であったモンゴル系の言語である契丹語のシステムに合致した突厥文字を参照した「契丹文字」を考案し、使用した。契丹文字はいまだ解読中の段階にあるが、彼らが文字を創作したことについて島田(1979:45)は「契丹族が自らの文字を作製することによって、その思想を表現しようとしたことは、彼らが単なる漢文化の模倣者ではなかった証拠であり、また原字を組み合わせて一見漢字に似たかたちをとったのは、漢文化への対抗意識をあらわす民族的自覚のあらわれといえよう。契丹族による新文字作製の風は、やがて近隣の民族にも大きな影響をおよぼし、タングート族の西夏文字、ジュシェン族に女真文字モンゴル族のバスパ文字、満洲族満洲文字などを出現させる先駆となった点にも大きな意義を認めねばならない」と、南方の文明圏に対する独自性の確保という目的で行われた文字政策についての先駆としての契丹文字に対して大きな評価を与えている。また、岸本(2015:126)は「契丹・金・西夏ともに、自ら皇帝を称したが、これは唐の皇帝が唯一の皇帝として周辺地域と朝貢冊封関係を結んでいた唐代の東アジアの秩序とは大きく異なる。また、契丹・金・西夏はそれぞれ独自の文字をもっていたが、これら周辺諸国の台頭は、文化的自覚とも結びついていた。そのような「自立化」の潮流は、北方や西方のみならず、日本をも含みこむものであった」とし、遼朝を契機とする文明に同化せずに自立した文化を形成する動きが当時の東アジア世界における同時代的状況であることを指摘している。

 一方で、ブルガリアにおいても周知のとおり、スラヴ語を表記するための文字として、キリルとメトディの兄弟によって発明されたグラゴール文字と、その後改良されたキリル文字ビザンツ文明に対してブルガリア文化の醸成を促した大きな要素であった。

 このように、隣接文明圏に対して独自文化を確立するための文字政策の重要性は、中国においては「征服王朝」とよばれた(元朝は例外的ではあるが)王朝にとって無視できないものであった。グラゴール文字・キリル文字の発明とブルガリア独立正教会の成立は、これと同様の課題がブルガリアにも存在したことを示しているのである。そして、グラゴール文字・キリル文字がルーシに伝播し、スラヴ文化圏の成立の契機となったことを合わせれば、ブルガリアの文字政策とその同時代的な役割は遼朝のそれと近しい性質をもっていると考えることができる。

 それでは、最後にブルガリアにおけるブルガリアとの、遼朝における北宋との関係について、貢納という点から考察することとする。

 北宋から遼朝への貢納の契機が1004年の澶淵の盟にあったことは、周知の事実であろう。1004年に内紛をおさめ宋への征服戦争を決意した遼の聖宗は20万を号する大軍を率い、宋軍の守る諸都市を攻囲しつつ南下し、澶州にいたった。一方、宋の真宗もまた江南あるいは成都への遷都論を排し、禁軍を率い澶州への親征を決意し、両軍は澶州において対峙することとなった。真宗は遼軍によって主力が敗れることをおそれ、聖宗もまた未だ陥落しない宋軍の支配下にある都市からの反撃をおそれ、両軍は和平交渉を行い、以下の条件で妥結した。

 

1)宋は軍費として遼に毎歳絹二十万匹、銀十万両を贈遺する。ただし、上記の歳幣は雄州まで送致する。

2)(前略)両国は兄弟の誼をもって交わる。聖宗は真宗に兄事し、互いに南北とする。

3)両国の国境は従前のままに瓦橋関(雄州)を境とし、関南の地は宋の有とする。(後略)

4)両国の俘虜は相互に送還する。

(田村1964:183)

 

 この和平条約、澶淵の盟をもって、両国の関係は確定し、歳幣の額をめぐった紛争は幾度と無く発生したものの、戦争状態に入ることはなく、両国の関係は遼の滅亡まで概ね平穏な状態を継続した。この歳幣は遼朝における北面の遊牧民の各部の結合の維持の資として用いられた。半ば機械的に部族に分けられた遊牧民集団は従来の氏族集団の結合と比べれば強固な結合であるといえたが、一方で遼朝皇帝、すなわち遊牧民からみたイェケ・キタイ・オルン(大契丹国)をヤリュート氏の権力下で維持するためには常にハンとしての恩恵を部族に施さなければならず、宋からの莫大な歳幣はこの遊牧民システムの安定的な維持へとつながった。この「澶淵システム」(杉山2005)によって、宋と遼の関係は世界史上類をみないほど安定した。

 これを踏まえて、ブルガリアビザンツ関係をみると、「澶淵システム」のような安定した構造を両国の間に与えることはできない。しかし、アスパルフからテレヴェルの時代、あるいはボリス一世の時代に示される通り、ブルガリアビザンツの間に歳幣関係が存在する時期もあり、両国の戦争の理由も大方ブルガリアビザンツに歳幣の支払いを促すものであり、歳幣というものが大きな意味を両国関係に与えていたことが分かる。遼朝のように国家維持のためにブルガリアにおいて歳幣が用いられたことを示す直接的証拠は管見の限り存在しないが、テュルク系遊牧民の統治システムを応用していたブルガリアにおいて、テュルク系のみならず、おそらくフィン系なども含む雑多な出自をもつ「ブルガール族」を維持するためのシステムとして、歳幣システムは重要な意味をもっていたと考えることができる。

 以上の、ブルガリアと遼朝について、政治機構、軍事制度、文化、対南関係における比較から、両者の性質が近しいものをもっていることがわかる。すなわちこれは、遼朝とブルガリアとの双方が基盤として遊牧民の文化をもっていたこと、双方が国内に少なくない定住民を含んでいたこと、隣接した経済的に優越した国家をもっていたことによるものであり、これらの点において中央ユーラシア世界の東西をみたとき、杉山(2005)が指摘するように安禄山勢力が中央ユーラシア周縁国家、すなわち従来の征服王朝の先駆であるとのべたように、ブルガリアもまた中央ユーラシアと農耕世界の双方にまたがる中央ユーラシア周縁国家であった。

 

 

 

附 中世ブルガリア国家歴代君主一覧(ブラウニング(1995)参照)

 

ブルガリア (7世紀中ごろ)

1 クプラト(ドゥロ)

 

ドナウ・ブルガール・ハン国 (680-852)

2 アスパルフ(ドゥロ)680-700

3 テレヴェル(ドゥロ)700-721

4 コルメシイ(ドゥロ)721-738

5 セヴァル(ドゥロ)738-753/4

6 ヴィネフ(ウキル)753/4-760

7 テレツ(ウガイン)760-763

8 ザビン(ヴォキル)763-766

9 ウマル(ウキル)766

10 トクトゥ(不明)766-767

11 パガン(不明)767-768

12 テレリグ(不明)768-777

13 ガルダム(不明)777-803

14 クルム(クルム)803-814

15 オムルタグ(クルム)814-831

16 マラミル(クルム)831-836

17 プレシアン(クルム)836-852※マラミルと同一人物とする説あり(プラウニング 1995)

 

第一次ブルガリア帝国 (852-971)

18 ボリス一世(クルム)852-889

19 ウラディミル(クルム)889-893

20 シメオン(クルム)893-927

21 ペタル(クルム)927-970

22 ボリス二世(クルム)970-971

 

西ブルガリア帝国 (976-1018/19)

23 ロマン(クルム)976-991

24 サムイル(地方封建貴族)991-1014

25 ガブリル・ラドミル(地方封建貴族)1014-1015

26  イヴァン・ウラディスラフ(地方封建貴族)1015-1018

 

 

○参考文献・論文

 

論文

藤盛美郎「ブルガリア史の諸問題(Ⅰ)」『バルカン・小アジア研究Ⅳ』1978

井上浩一「第二次ブルガリア王国の成立――民族問題と「世界システム論」――」『人文研究  大阪市立大学文学部紀要』第46巻 第11分冊 1994

金原保夫「第1次ブルガリア王国における君主号」『オリエント』第40号 第2分冊 1997

文献

(日本語)

田村実造『中国征服王朝の研究(中)』1974 東洋史研究会

I.ディミトロフ M.イスーソフ I.ショホフ 著 寺島憲治 訳 『世界の教科書 ブルガリアⅠ』1985 ほるぷ出版

護雅夫『古代トルコ民族史研究Ⅱ』1992山川出版社

島田正郎(2014)『契丹国――遊牧の民キタイの王朝』東方書店

島田正郎(1952)『遼代社会史研究』三輪書房

島田正郎(1979)『遼朝史の研究』創文社

ロバート・ブラウニング 著 金原保夫 訳『ビザンツ帝国ブルガリア』1995 東海大学出版会

金原保夫「中世のバルカン」柴宣弘 編 『新版世界各国史 バルカン史』1998 山川出版社

R.J.クランプトン 著 高田有現 ら訳『ブルガリアの歴史(ケンブリッジ国史シリーズ)』2004 創土社

イブン・ファドラーン 著 家島彦一 訳注『ヴォルガ・ブルガール旅行記』2009 東洋文庫

(欧文)

Karl.A.Wittfogel (1949) HISTORY OF CHINESE SOCIETY;LIAO NewYork

(中文)

唐作藩『上古音手册』 1982 江苏省人民出版社

 

(史料)

李延寿「列伝八十六列伝八十六  蠕蠕 匈奴宇文莫槐 徒何段就六眷 高車」『北史』第十冊 巻九十八 中華書房

國本哲男 ら訳『ロシア原初年代記』1988 名古屋大学出版会

 

webサイト(白地図)

旅行のとも、ZenTech「ブルガリア白地図」(図1)「東ヨーロッパ地図」(図2.3) 2016年7月25日閲覧 筆者修正

http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/Bulgaria/Outline_Map.htm