キタイとブルガール —二つの牧農帝国—

 前回は通史として、ブルガールの興亡についてかいてみたが、今回は「最初?」の征服王朝ブルガールと伝統的な中国史においては「最初」の征服王朝とされる遼朝、イェケキタイオルンとを「経済」「軍事」「文化」の三側面から比較してみようと思う。

 

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 ドナウ・ブルガールから第一次ブルガリア帝国(以降、両政権を併せてブルガリアと称する)にかけての国内経済は都市部を除いて、全体としては自給自足的な貨幣も市場も存在しない状態であった(Browning 1995:148)。一方で、ブルガリアに南接するビザンツの経済においては、すでに国内においては貨幣経済が定着し、国際的にはビザンツの生産する商品は、イスラーム・ネットワークに受動的に依りつつも、北欧、西欧に存在する需要によって常に一定の貿易の利益を得ることができる立場にあった。

 経済においてブルガリアは全くビザンツよりも発展途上の状態にあり、同時代の西欧諸国がそうしたように、自国の通貨を鋳造し、国内市場の創出を目指すよりも、ビザンツと直接交易を行うことによって、すなわち経済的にはビザンツ帝国に組み込まれることによって支配階層の需要を満たすという方法で、自らの経済を成立させた。

 また、ブルガリア経済においては、セルディカ(現在のソフィア)を経由する街道などを通過する交易から上がる関税とビザンツからの貢納が重要な立場をもっていたことは十分に予想されることである。しかし、ブルガリアの関税システムはビザンツのそれと比べて、下級官吏が存在しないこととあいまって精緻なものであるとはいえず、(Browning 1995:151)貢納についてもビザンツ側からしばしば打ち切られることがあり、これらは国内から上がる現物収入と比べると不安定な収入源であった。

 このようにビザンツに経済的に従属しつつもブルガリアが独自の立場を保持しえた理由として、彼らの卓越した軍事力が挙げられる。徴兵によって構成されたビザンツの軍隊とは異なり、ブルガリアの軍隊は装備の整った強力なブルガール人の常備軍、碑文によると「扶養された者達」を中核とし、適宜動員されたブルガール人軽騎兵とスラブ人歩兵によって構成された。(Browning 1995:180)ブルガリアの軍事力は、その強い力に比して、補給を現調達に依存するなど、遊牧民的要素を強く持っていた。また、クルムのコンスタンティノープル攻撃に準備された膨大な攻城具などに示されるように、兵器の生産はブルガリアにおける重要な課題であり、これはブルガリアに経済において大きな比率を占めていた。(Browning 1995:150)つまり、ブルガリアの軍事力はビザンツから独立を維持するために、あるいは自国の経済を維持するために、必要不可欠な要素であり、ブルガリアビザンツの間の関係の基調は以上の理由によるのである。

 このブルガリアの経済的な特徴を比較的に考察したのち、中世バルカン半島の交易の様相とそこから明らかになるブルガリアの世界交易システムにおける位置づけをすることを目的とする。

 以前指摘したように、ドナウ・ブルガールの特徴は農牧の二重性にあり、その国家的性質は「征服王朝」と呼ぶべきものであるという点を考慮した際、ブルガリアと比較するべき対象として挙げられるのは、「征服王朝」として本来位置づけられた遼・金・元といった王朝があるが、今回は特にその中でも遼に注目して相互の比較を行うこととする。

 まず、両者の国家体制を比較する。

 島田(2014:50)によれば、遼の官制の特徴として「「国制を以って契丹を治し、漢制を以って漢人に侍す」と、『遼史』百官志の序にあるように北面(契丹人以下の遊牧民に対す)・南面(漢人渤海人などの農耕民に対す)の二元制をとったところに特色がある。しかしその基底には、国家の枢機や軍国の大事は、これを契丹人(北面官)の掌中ににぎり、漢人(南面官)には参与させないという、契丹人による一元主義が基調となっていた」とし、このうち、南面官については基本的には漢人の伝統的な統治体系、すなわち三公六部など唐制にならった形態をとり、建前としては「漢人漢人」を治めるというような制度設計がなされていたが、島田(2014:65) の指摘によると、実態としては重要な決定に関する役職には契丹人がついており、実質的に契丹人による一元的支配がなされていたことが明らかになっている。

 このような農牧双方を本来の方法で一元的に支配するシステムは、一方で中世ブルガリアにおいても存在していた。Browning(1995:170)は「ブルガリアでは一種の二重の行政構造が生じたと思われる。それは一方ではハーンと彼のブルガール人貴族が貢納と保安に係わり、他方ではスラブ人小領主と村長が彼らの同胞の日々の生活を扱うといったものであった」と言及し、これはすなわちアスパルフが現地のスラブ人首長たちとブルガール人が領土の保全と北方のハザールとの戦いを、「スラブ7部族」が西方のアヴァールとの戦いを、スタラ・プラニナに居住するセベレイス族がビザンツとの戦いを担当するという条約を結び、ブルガール人とスラブ人による国家を建設した、というブルガリア成立の事情と密接に連関するものである。

 しかし、ブルガール人とスラブ人の関係は条約関係通りの対等なものではなく、少なくともクルムの時代におよぶまでブルガール人優位であった。つまり、大ブルガリア以来の政治的伝統から中央集権をすでに確立したブルガール人と、部族制社会を構成し一体的なまとまりをもたなかったスラブ人の間の力関係は、クルムのスタラ・プラニナ以南の征服によって、ビザンツ化し中央集権制度のうちに適応していたスラブ人がブルガリアに取り込まれることによって、集権的統治に適応したスラブ人の比重が増し、彼らを政権に組み込むための統一法典に象徴される同化政策、すなわちブルガリア化政策が行われるまでは、ブルガール人の優位にあり、基本的にはスラブ人とブルガール人の複合国家であるブルガリア国家のイニシアチブは遊牧民的なブルガール人が一元的に担っていた。

 これらの点をかんがみるに、統治における農牧二元制と軍事に代表される国家の枢機における遊牧民による一元制の支配という特色において、クルム以前のブルガリアと遼朝において共通する要素がある、ということがいうことができるだろう。

 

 ついで、軍事システムについて比較する。

 遼朝の軍事システムは皇帝直轄の「御帳親軍」と契丹人の部族ごとに編成され有事には主力として動員された「衆部族軍」、各州県の治安維持を基本的には担い、特別の有事には戦列に参加した徴兵された農耕民による「郷兵」からなっており、軍事力の根幹は契丹人以下遊牧民によって構成されていた(島田 2014:67-70)。

 一方で、ブルガリアの軍事システムもまた、ハン直轄の「扶養された者達」と、おそらくは部族ごとに編成されたブルガール人騎兵、そして、有事の際に部族ごとに動員されたスラブ人歩兵からなっていた。

 両者ともに中央集権君主の直轄軍と、遊牧民による主力軍、そして適宜動員される農耕民軍からなる軍隊を編成していた、という点において共通する特徴をもっていたことがわかる。

 また、「文字」という側面についても両者は興味深い共通点を有していることがわかる。

 遼朝は「契丹文字」とよばれる特徴的な文字システムを構築した。島田(1979)によれば、遼朝は、彼らの使用言語であったモンゴル系の言語である契丹語のシステムに合致した突厥文字を参照した「契丹文字」を考案し、使用した。契丹文字はいまだ解読中の段階にあるが、彼らが文字を創作したことについて島田(1979:45)は「契丹族が自らの文字を作製することによって、その思想を表現しようとしたことは、彼らが単なる漢文化の模倣者ではなかった証拠であり、また原字を組み合わせて一見漢字に似たかたちをとったのは、漢文化への対抗意識をあらわす民族的自覚のあらわれといえよう。契丹族による新文字作製の風は、やがて近隣の民族にも大きな影響をおよぼし、タングート族の西夏文字、ジュルチン族に女真文字モンゴル族のバスパ文字、満洲族満洲文字などを出現させる先駆となった点にも大きな意義を認めねばならない」と、南方の文明圏に対する独自性の確保という目的で行われた文字政策についての先駆としての契丹文字に対して大きな評価を与えている。また、岸本(2015:126)は「契丹・金・西夏ともに、自ら皇帝を称したが、これは唐の皇帝が唯一の皇帝として周辺地域と朝貢冊封関係を結んでいた唐代の東アジアの秩序とは大きく異なる。また、契丹・金・西夏はそれぞれ独自の文字をもっていたが、これら周辺諸国の台頭は、文化的自覚とも結びついていた。そのような「自立化」の潮流は、北方や西方のみならず、日本をも含みこむものであった」とし、遼朝を契機とする文明に同化せずに自立した文化を形成する動きが当時の東アジア世界における同時代的状況であることを指摘している。

 一方で、ブルガリアにおいても周知のとおり、スラブ語を表記するための文字として、キリルとメトディの兄弟によって発明されたグラゴール文字と、その後改良されたキリル文字ビザンツ文明に対してブルガリア文化の醸成を促した大きな要素であった。

 このように、隣接文明圏に対して独自文化を確立するための文字政策の重要性は、中国においては「征服王朝」とよばれた(元朝は例外的ではあるが)王朝にとって無視できないものであった。グラゴール文字・キリル文字の発明とブルガリア独立正教会の成立は、これと同様の課題がブルガリアにも存在したことを示しているのである。そして、グラゴール文字・キリル文字がルーシに伝播し、スラブ文化圏の成立の契機となったことを合わせれば、ブルガリアの文字政策とその同時代的な役割は遼朝のそれと近しい性質をもっていると考えることができる。

 それでは、最後にブルガリアにおけるブルガリアとの、遼朝における北宋との関係について、貢納という点から考察することとする。

 北宋から遼朝への貢納の契機が1004年の澶淵の盟にあったことは、周知の事実であろう。1004年に内紛をおさめ宋への征服戦争を決意した遼の聖宗は20万を号する大軍を率い、宋軍の守る諸都市を攻囲しつつ南下し、澶州にいたった。一方、宋の真宗もまた江南あるいは成都への遷都論を排し、禁軍を率い澶州への親征を決意し、両軍は澶州において対峙することとなった。真宗は遼軍によって主力が敗れることをおそれ、聖宗もまた未だ陥落しない宋軍の支配下にある都市からの反撃をおそれ、両軍は和平交渉を行い、以下の条件で妥結した。

 

1)宋は軍費として遼に毎歳絹二十万匹、銀十万両を贈遺する。ただし、上記の歳幣は雄州まで送致する。

2)(前略)両国は兄弟の誼をもって交わる。聖宗は真宗に兄事し、互いに南北とする。

3)両国の国境は従前のままに瓦橋関(雄州)を境とし、関南の地は宋の有とする。(後略)

4)両国の俘虜は相互に送還する。

(田村1964:183)

 

 この和平条約、澶淵の盟をもって、両国の関係は確定し、歳幣の額をめぐった紛争は幾度と無く発生したものの、戦争状態に入ることはなく、両国の関係は遼の滅亡まで概ね平穏な状態を継続した。この歳幣は遼朝における北面の遊牧民の各部の結合の維持の資として用いられた。半ば機械的に部族に分けられた遊牧民集団は従来の氏族集団の結合と比べれば強固な結合であるといえたが、一方で遼朝皇帝、すなわち遊牧民からみたイェケ・キタイ・オルン(大契丹国)をヤリュート氏の権力下で維持するためには常にハンとしての恩恵を部族に施さなければならず、宋からの莫大な歳幣はこの遊牧民システムの安定的な維持へとつながった。この「澶淵システム」(杉山2005)によって、宋と遼の関係は世界史上類をみないほど安定した。

 これを踏まえて、ブルガリアビザンツ関係をみると、「澶淵システム」のような安定した構造を両国の間に与えることはできない。しかし、アスパルフからテレヴェルの時代、あるいはボリス一世の時代に示される通り、ブルガリアビザンツの間に歳幣関係が存在する時期もあり、両国の戦争の理由も大方ブルガリアビザンツに歳幣の支払いを促すものであり、歳幣というものが大きな意味を両国関係に与えていたことが分かる。遼朝のように国家維持のためにブルガリアにおいて歳幣が用いられたことを示す直接的証拠は管見の限り存在しないが、テュルク系遊牧民の統治システムを応用していたブルガリアにおいて、テュルク系のみならず、おそらくフィン系なども含む雑多な出自をもつ「ブルガール族」を維持するためのシステムとして、歳幣システムは重要な意味をもっていたと考えることができる。

 以上の、ブルガリアと遼朝について、政治機構、軍事制度、文化、対南関係における比較から、両者の性質が近しいものをもっていることがわかる。すなわちこれは、遼朝とブルガリアとの双方が基盤として遊牧民の文化をもっていたこと、双方が国内に少なくない定住民を含んでいたこと、隣接した経済的に優越した国家をもっていたことによるものであり、これらの点において中央ユーラシア世界の東西をみたとき、杉山(2005)が指摘するように安禄山勢力が中央ユーラシア周縁国家、すなわち従来の征服王朝の先駆であるとのべたように、ブルガリアもまた中央ユーラシアと農耕世界の双方にまたがる中央ユーラシア周縁国家であった、といえるのではないだろうか。

 

参考文献

宮崎正勝(1994)『イスラーム・ネットワーク』講談社

杉山正明(2005)『疾駆する草原の征服者 遼西夏金元』講談社

Robert Browning 著 金原保夫 訳(1995)『ビザンツ帝国ブルガリア東海大学出版会

島田正郎(2014)『契丹国――遊牧の民キタイの王朝』東方書店

島田正郎(1952)『遼代社会史研究』三輪書房

島田正郎(1979)『遼朝史の研究』創文社

田村実造(1964)『中国征服王朝の研究(上)』東洋史研究会