アウトラインプロセッサは論文執筆や読書メモ管理に便利

表題の通り、アウトラインプロセッサを使うことが便利だと気付いた。ちなみにこの記事もアウトラインプロセッサを用いて執筆している。

アウトラインプロセッサ自体の解説は適当に「アウトラインプロセッサ」とかでググると出てくるので、各自見てほしい。ハンダは以下のリンクの情報をみて興味を持った。

https://www.chiikiiryo.jp/inoue-methods/software/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%BB%E3%83%83%E3%82%B5/

要するにアウトラインプロセッサというのは、階層的にテキストを扱うのが得意なソフトのこと。個々の情報カードを「テーマA」の下に「カードA」「カードB」として配し、階層構造として個々の情報カードを管理することができる。もちろん、「テーマA」の下に「小テーマA」を設けることもできて、それが一覧として画面上で見ることができるので便利だ。

今までの文献を読んで得た情報の整理には京大式の情報カードを使っていた。梅棹忠夫(1969)『知的生産の技術』に紹介されている情報整理法に範をとっていたのだ。

https://www.amazon.co.jp/%E7%9F%A5%E7%9A%84%E7%94%9F%E7%94%A3%E3%81%AE%E6%8A%80%E8%A1%93-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%A2%85%E6%A3%B9-%E5%BF%A0%E5%A4%AB/dp/4004150930

確かに梅棹式のやり方は非常に合理的で、情報の外化・蓄積の技術として大いに魅力がある。

しかし、時は2020年。50年を経て技術は大いに進歩した。梅棹式のやり方を単に踏襲するのみならず、これをブラッシュアップさせることができるのではないか。

ついでに言えば、ハンダは悪筆、というか字を書くのが苦手である。ぶっちゃけ名前の漢字すら時々書けない(形は想起はできるのだけど出力できない)。

すなわちハンダにとっての梅棹式の最大の欠点は「手書き」という点にあった。これを乗り越える利器はある。それはパーソナルコンピューターである。キーボード経由で文字を入力できるパソコンは情報を出力するための辛さというのを文字通り半減させた。

しかし、パソコンで情報管理をするのにはいくつかの困難があった。つらつらと挙げると、

・情報の参照元と出力先が同じ画面上にあると作業が面倒(この点、紙と画面の往復の方が楽)

ワープロソフトがとろい(最初は馬鹿正直にMicrosoft officeのWordを使っていた)

・情報が取っ散らかる(絶望的にバージョン管理が下手、特に読書メモ)

 

といった困難がある。それぞれ、何年かかけて以下のように解決策を模索していった。

 

・情報の参照元と出力先が同じ画面上にあると作業が面倒→デュアルディスプレイ

ワープロソフトがとろい(最初はMicrosoft officeのWordを使っていた)→アウトラインプロセッサの導入

・情報が取っ散らかる(絶望的にバージョン管理が下手、特に読書メモ)→アウトラインプロセッサの導入

 

まずやったのはデュアルディスプレイ化であった。これは革命的だった。片側のディスプレイで作業しながら、片側で実録データベースや他のファイルを参照できる。これは便利だった。作業しながらTwitterも見れる。

しかし、これはあくまで作業環境のこと。肝心の情報そのものの整理がとっちらかっているのは変わらなかった。そこで情報の管理のために京大式カードを使った。修論では大量の人名を処理する必要があったが、そういう点でも情報カードは大変便利だった。ついでに先行研究整理も情報カードでやった。これは別に他の方法でもよかったが、モノがあるなら使わない手はない、という発想だった。

そういうわけで右手にデュアルディスプレイを、左手に情報カードを手に修論を戦い抜いたわけだが、以下のようにいくつかの課題があった。

情報カードでの人名整理は個々の区別には便利であるが、検索性が悪い(一応、ソートはしていたが、wang(王)だけで10枚近くあるカードの管理を手作業でやるのは無謀だった)

・手書きがだるい(最初からわかってたけど、必要悪と思って我慢していた)

・そもそも整理したのにどっか行く(これはハンダの性格の問題)

結局、こういう弊害を取り除く方法としては、電子ファイルへの一元化が必要な作業であった。そうしたときに、なんとなーく「論文 書き方 コツ」とか、そんな感じで検索したら「論文執筆にはアウトラインプロセッサを使おう!」的なサイトが出てきた(冒頭のリンク)。

まあ、ものは試しだ、と、FitzNOTEというソフトをダウンロードしてみた。

http://hp.vector.co.jp/authors/VA009019/

驚くなかれ、最終バージョンが1999年のものである。あれじゃん、チャチャ―ンっていってパソコンが終わる時代のやつ。あるいはノストラダムスの大予言。win95の日本語版発売とほぼ時を同じくして生まれた自分の物心があるかないかってレベルだ。

そんな中国学でいうと『説文解字』クラスに古いソフトだが、その分、めっちゃ快適に動く。Wordが固まって面倒とか、起動まで時間がかかる、とかそういう問題とは無縁だった。まだ使って一週間ちょっとなので、致命的にマズいって感じのところは見つけられてない。解像度が低い時代のソフトなので、フルHDの画面に出力するとやや文字が小さいが、その辺は気合で色々いじくってたらなんとかなった。

これは論文などのまとまった文章を書こうとするのにも便利であるが、情報カードを作るのにも便利だ。紙のように物理的な紙面の制約もなく、データベースとかにある情報ならコピペもできる。もちろん活字本ないし影印本との対校はすべきだが、それでもやるべき動作の数はかなり減る。紙のように使いたければ印刷すればいい。共用フォルダやクラウドにアップしておけば、手元の端末からいつでも編集できる(ここはまだ改良の余地がありそう)。あと地味に常に原稿用紙換算してくれるのは便利。

まとめよう。情報整理の書き方は梅棹式を踏襲しつつも、アウトラインプロセッサに移行したことで、情報整理の最も重要な側面といっていい検索性が格段に向上した。さらに執筆やメモ作成においても、Wordのように固まる心配もなく、サクサクとストレスなく作業できる。以上のことからアウトラインプロセッサの導入は、人文系の人々においても大いに作業効率を高めることが期待できる。

 

付記 情報カードの現代的価値

ここまでアウトラインプロセッサの価値を論じてきたが、アウトラインプロセッサを導入しても情報カードの価値がなくなることはない。というのも、人文系の場合、史料館がPC持ち込み不可なところが結構ある。資料・環境保全のための措置であるのだろう。そういうところで調査するのに頼れるのは現在でも情報カードと鉛筆だけだ(これはしばらく手書きの情報カードを使っていた理由の一つでもある)。