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今、歴史家は何を学び、何をなすべきや――史学徒のかんがえること③――

 前々回、前回と歴史叙述のありかたに関する話を歴史哲学の側面から考察してきた。そして最後に紹介した「歴史の物語り」論から導きだされた、ランケ以来の「素朴実証主義」や歴史法則の実在を前提する「方法的一元論」、政治性・倫理性が先行する唯物史観皇国史観といった歴史叙述に対する、叙述者の政治性・倫理性に基づく問題関心から導き出された、外部接続的で合理的な歴史叙述を行うべきだ、という歴史叙述論について、我々は歴史叙述を行うために何を学べばよいのか、何をする必要があるのか、歴史哲学の領域から歴史叙述の実際の場にひきつけた実践論というものに立ち返って、しばらく続けて投稿してきたテーマの一応の結論としたいと思う。

 歴史叙述というものの二重性、すなわち、政治・倫理性と論理性について、戦後の日本の歴史家たちの多くは後者によって考えることが多いように私には感じられる。戦後の東洋史をリードしてきた宮崎市定は「歴史家はなるべく現実の政治運動に参加しないほうが適当である」と述べているように、戦前の政治・倫理性が先行した歴史叙述が横行したことへの反省も含めて、実際の叙述という行為そのものに内包する政治・倫理性を意識的に遠ざけて、努めて論理性のうちに置こうと、あるいは「素朴実証主義」に立ち返ったり、あるいはマルキストたちの唯物史観の方法を借りた「方法論的一元論」に沿った歴史叙述を行おうと努めてきた。

 このうち前者は結局のところ、現在のいわゆるネット右翼と呼ばれる層が信奉する「国民の正史」たらんとする自由主義史観に対する反論たりえず、後者は歴史法則の反証不可能性という理論的な批判とソ連崩壊という現実的現象によって、その足場を打ち砕かれ瓦解した。

 「歴史の物語り」論において、フィクションでもノンフィクションでもない、その中間的性質を備えた歴史叙述を行う歴史家の責任は、歴史叙述の信頼性を高めるということに尽きる。この歴史叙述の信頼性を高めるということは、前回も述べた通り、叙述者自身の叙述した歴史の内部において無矛盾的であるということ、史料批判に耐えうる叙述の強度を持っていること、並行する叙述と接続的であるということである。

 ここから分かる「歴史の物語り」論が、第一に歴史家に要求する行動は、歴史叙述において一貫した政治・倫理的立場で臨むこと、存在する史料の記述と歴史叙述が十分な整合性が取れていること、並行する諸研究(先行研究のみではない)の潮流をつかみ自らの叙述をその潮流に参加させるということ、である。

 すなわち、より具体的にいうならば、歴史家は叙述を始めるにあたりアウトラインとしての自らの立場を明確にすること、引いてはその立場を明確にするためのスタンスというものを確立すること、そのスタイルを確立するための前提的知識を身に付けること(その前提的知識は、政治学、国際関係学、社会学、経済学、哲学、言語学など文系学問をはじめとして、生態学、地質学など理系学問など多岐にわたる)が必要である。要するに、各自の政治・倫理的立場を明確にすることは、「未来に開かれた」歴史叙述をより深みのあるものとするために必須の過程である。そのために必須になることは、自らの政治・倫理的立場の出発点となる問題関心の水準を高めること、すなわち、政治・倫理的立場に関する学問分野における知見を持つことである。この政治・倫理的立場に関する学問の知見は、より本質的・核心的な問題関心を生み出すことに繋がる。これは、学際的な視点による歴史叙述の必要性を示唆するものである。このような歴史叙述の必要性を示唆する国際関係学者ジョセフ・ナイは以下のように述べる。

  理論だけでも十分ではないし、歴史だけでは十分ではない。事実をただ書き連ねれば理解に達することができると信じている歴史家にしても、実際には、事実の取捨選択を行っている。彼らはその取捨選択の隠れた基準を明示できていないだけなのである。同様にまちがっているのは、抽象的な理論の迷宮に閉じ籠もり、彼らの知的構築物が現実だと勘違いしている政治学者である。歴史と理論の間をつねに行き来することによってのみ、このようなまちがいから逃れることができる。(ジョセフ・ナイ国際紛争 理論と歴史』第八版 2011 より)

 

 このような叙述の立場にたった歴史家は次のことを忘れてはならない。歴史叙述というものは、如何に叙述者の手に構築されるといっても、それが歴史叙述であり、歴史小説でない限りは、叙述者は集めうる限りすべての関係する史料に目を通さねばならない。これは、歴史叙述に求められる、あらゆる史料批判に耐えうる叙述の強度を担保するために必要な営為である。歴史家が歴史家であるということは、歴史叙述を行う語り手であるということ以外の何者によっても担保されない。そうであるならば、歴史叙述を歴史叙述として努めて真正なものとする営為は歴史家にとって必須の行為であり、自らのアイデンティティーを維持する手段でもある。

 ここで、叙述された歴史叙述がその自己完結性において、内部矛盾が放置されていないことは歴史叙述が成立するための重要な条件である。そして、この歴史叙述がいかに自己矛盾をはらんでいないとしても、その多元性において存在する他の歴史叙述との間に理由なき矛盾をはらんでいてはいけない。すなわち、歴史叙述というものは過去の同一性を担保するものでなければならない。つまり、叙述者は自らの叙述を行う上で、先行研究や類似研究、同時代を取り扱った研究に共通する潮流を理解し、それと自らの問題関心と適合させる形で歴史叙述を行うことは、その歴史叙述を学問とするということ、歴史叙述が完全に自己完結的なフィクションとは異なるという点を明確にするということである。

 

 以上を再びまとめると、歴史叙述者たち、すなわち史学徒が叙述において心得るべき点は以下の三点である。

歴史学以外の学問に対する知見を深め、自らの問題関心をより現代において核心的なものとして、歴史叙述に深みを持たせること

②歴史叙述が歴史小説でなく歴史叙述である以上、叙述者は史料批判によって得られた強度の高い叙述をしなければならない

歴史学という視点にたった時に、叙述者は様々な叙述の間にある「傾向」というものを読み取って、それに叙述者自身の問題関心を携えて参加する形で歴史叙述を行う必要がある

 このような見方には、もちろん批判するべき点は多くあるだろう。しかし、私は歴史家であって歴史哲学者ではない。歴史叙述という行動に移るためにはある程度の妥結に基づく結論が要請される、以上の論は私の現時点の結論として、ここに提示したまでであり、諸氏の批判を広く待つものである。