草原について

私が住んでいる栗原の部屋から外を見るとずっと草原が広がっている。ただのちょっとした野原を草原と称するなんて変なことをいうな、という向きもあるだろうが、紛れもなく私の眼前にあるのは草原だ。

 

「草原」という総合科目を受けたことがある(今もあるのか?)

その授業そのものは専門外の理科系の授業だったのだが、そこで聞いたことでいくらか興味深いことがある。

まず、草原というものの定義は、草が目につく景観を持つ土地、ということらしい。つまり、草がたくさん生えてりゃ草原らしい。なんとも、適当な定義だが、これより細かく定義してしまうと、ここはどう見ても草原なのに、細かく定義すると草原でなくなってしまう、とか、あそこはどう見ても草原じゃないのに細かく定義すると草原になってしまうなんてことが起きて、さらにややこしくなってしまう。

 

人間や自然が手を加えて丸裸にした土地が、苔のような植物から、大森林や草原へと時間をかけて変化していくことを「遷移」というらしい。この「遷移」の結果、成立する景観は土地によって異なる。

例えば、この日本なら、ほぼどこでも人為を加えずに「遷移」に身を任せれば、森林へと変化していく。そして、それよりも降雨量などが少なく樹木が生えにくい土地は草原へと変化する。

さっきも言ったが日本の土地は「遷移」に身を任せれば森林となる。しかし、明治・大正のころの国土にたいする草原の割合は11%、現在も3%、これだけ広い地域が草原である理由は一体なぜであるのだろうか。その答えは人間の営為にあった。昔、人間は森林から得る恵みの他に、草原から得る恵みを欲した。具体的にいうと、茅葺屋根の茅、だ。この茅を得るために人々は茅場と呼ばれる草原を人為的に作った。このような草原を二次草原という。日本の二次草原は茅場として維持されてきたが、近年の瓦屋根などの普及は茅需要の減少は茅を得るための二次草原の必要性を失わせたのだ。

しかし、そうはいっても火入れなどの定期的な手入れによって維持されている草原はいくらかも残っている。私の眼の前にある草原もその一つだ。今は、夏真っ盛りで背の高い草(なんと私よりも!)が生えているが、やがて秋になるとすすきの穂が目立つようになり、さらに秋も暮れてくると、いつの間にか火入れがされて、まっさらな土地に戻る。このようにして、日本の草原は維持されているのだ。

 

さて、ここまで日本の草原の話をしていたが、読者諸氏が「草原」というと想起するのは、モンゴルの大草原ではないだろうか。世界の草原の分布を見ると、アフリカだと熱帯のサバンナ、温帯のグラスベルト、南アメリカのパンパ、北アメリカのプレーリーなどが見出せる。しかし、それらの草原のなかでも最も広大な広さを持っているものは、中央ユーラシアにまたがるステップであろう。東はモンゴリアの大興安嶺から西はハンガリーまで広がるステップは、他の追随を許さない広さと「力」を秘めている。

ステップの草原はモンゴルとカザフスタンの間にアルタイ山脈とタイガの大森林によって生み出された狭い地峡が存在する。この地峡の東西で、その植物相や土壌をことにする。この東側のモンゴル高原の草原の土は痩せた栗色の土で農耕には不適であり、モンゴル高原の都市に居住しない住民は未だ遊牧という生活形態をとらざるをえない。

しかし、西の草原においては、豊かな黒土が広がり、ウクライナをはじめとする東ヨーロッパは世界の穀倉地帯としての地位を確立している。

 

この草原の東西における差異は大変興味深いものである。この草原の生産力という点で、ここで私が気がつくのは、近年日本の東洋史の伝統上にある内陸アジア史の学会において主張されている「前近代世界システム論」という、中央ユーラシアの遊牧世界とその周辺のビザンツや中国といった農耕世界の関係によって構成された世界システム論、おそらくはマッキンダーハートランドの理論を踏まえた世界システム観は、基本的に日本よりの草原、つまり東側の草原の世界観を西に敷衍している嫌いがあるのではないか、という点だ。

中国人、漢人はついぞ、近代に入るまでモンゴル高原に入って大規模な農耕世界を広げることはなかった(一応、明代のアルタン・ハーンのもとのモンゴルで牧農複合国家と呼べるものが成立していたことは指摘するに足るが、そういっても、そういうアルタンの国家でさえも、比重は全く遊牧側に置かれていたのだ)が、西側を見ると草原において勢力をもった国家がすべて遊牧生活を基本においている国ではないのである。

ウクライナの草原について考えると、5世紀から6世紀にかけて、ウクライナの草原は突厥との戦いに敗れて東の草原から逃れた柔然ともいわれる遊牧民族のアヴァールが握っていた。その後はブルガール、ハザールと草原の主人は遊牧民族が担っていたが、キエフ・ルーシが成立すると、ウクライナの草原の主人は農耕民族に移っていった。このキエフ・ルーシもモンゴルに敗れて、再び遊牧民族の手に移ったが、やがて、ポーランドリトアニアの手に入り再び農耕民族が主人となり、それ以降、ロシア、ソ連ウクライナと現在まで続き、現在では世界的な小麦の生産が盛んな穀倉地帯となっている。

しかし、このように支配権は移り変わっていっても、人々は政権ほどには素早く入れ替わることはなかった。モンゴルでさえ、ある程度の農耕民が含まれた国家を形成したのに、それよりもより農耕・牧畜の両方に適した西側の草原でそれが行われないはずはなかった。

ポーランドリトアニアの時代から始まり、ロシア帝国の時代にはマンチュリアにおいて日本騎兵と刃を交えた、コサックの民は、農耕民の中に住む遊牧民である。彼らの物語には興味深いものが多くあり、また、ロシアの文人たちの格好の描写の対象となったという点には後日稿を改めて言及したい。

このように西側の草原の世界というものは単純な遊牧世界と呼びうる土地ではない。この、広大な農耕世界と遊牧世界の接点は、単純な遊牧世界とそれを取り巻く農耕世界という、素朴な従来の「前近代世界システム論」の見方をより深くしていくのに十分に足る潜在的な「力」を持っていると私は信じるのである。

 

参考文献など

中村徹 編『草原の科学への招待』2007 筑波大学出版会

森安孝夫「内陸アジア史の新潮流と世界史教育現場への提言」『内陸アジア史研究』26 2011

孫子の戦略論(計篇第一〜謀攻篇第三)

ヨーロッパ語訳の『孫子』と金谷注を底本にして、ちょっと書いてみたものをさらに加筆して、上げてみます。解説めいたものは書かなくてもwikiか何かを少し読めば分かると思うので、割愛しますが、そのうち書くかもしれないし、そこは気分。

CiNii 論文 -  18世紀在華イエズス会士アミオと満洲語

CiNii 図書 - アミオ訳孫子 : 漢文・和訳完全対照版

初期のフランス語訳は満洲語訳の『孫子』を底本にしているという話を上記の新居先生の論文(ネットで読める)で触れているのを見て、どうも筑摩書房から出版されているようなので、そんなことも調べたいなあ、と思う今日このごろ。

 

 

計篇第一

 戦争とは、国家において回避することができない重要な問題である。戦争を始めるにあたって指導者が考慮すべき要素は、「五道七計」に象徴される客観的・具体的な要素の算定・評価と、開戦後における戦略目標(『孫子』においては呉王の制覇)を達成する敵の意表をつく作戦行動、すなわち「詭道」に代表される実地の戦術を導く作戦術の二つである。そこで国家の指導者は、戦争を開始する際の作戦会議において具体的な敵国と我が国の戦争を実際にシュミュレーションし、そこで先述の要素を具体的に検討し、勝利の見込みがたった時、開戦の決意を固めるべきである。

作戦篇第二

 (呉王の制覇という)戦略目標の達成のためには、必要最低限の目標を達成するための極力短期間の軍事行動にとどめ、不必要に戦果を拡大するための戦争が長期化させ、戦費を浪費するような作戦をとることは許されない。(諸国を制覇するために)多数の兵士と物資を動員し、補給線が長大となり、輸送コストが高くなる他国の国土での戦争において、一回の作戦において多くの戦略資源を浪費することは許されない。そのため、作戦においては戦略資源を浪費する戦術を取らず、鹵獲兵器や食料の利用や捕虜の味方への転用(春秋時代当時に捕虜の待遇を定めた規定などない)をはかるなど勝てば勝つほど強くなるような戦術を取ることが重要である。

謀攻篇第三

 そうであるがために、戦略目標を達成するために、必ず犠牲を伴うコストの高い軍事的手段を用いることは最善の選択肢とは言えない。そこで、外交など非軍事的手段によって敵国の戦略目標・同盟関係を打ち破ることが、軍事的手段によることより優先されるのである。戦争においても、極力敵軍の降伏を促す作戦・戦術を採用し、自らが不利な状況ならば、自らの戦略資源を保全する作戦・戦術をとり、決して無理な勝利を狙おうとしてはならない。また、戦争においては後方の国家の指導者と前線の司令官の間には相互補完関係が成り立つ。ゆえに、指導者は、司令官には有為の人材を選抜し、戦略目標を示したならば彼の作戦に関しては干渉してはならない。以上の戦略論を総括すると、敵味方の諸事を知悉した指導者の指導下にある国家は戦略目標を達し、そうでない国家は達しないのである。

参考文献

小野繁 訳『フランシス・ワン仏訳 孫子』1991 葦書房

金谷治 訳注『新訂 孫子』2003 岩波書店