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アクス鋳造の「乾隆通宝」にみる中華帝国としての乾隆期清朝

 杉山(2008)は中央ユーラシア史の概念が提唱される以前から「ユーラシア」という語を学問的分析の対象として取り上げた地政学者のうちマッキンダーが過去のモンゴル帝国や現代のロシア帝国といった中央ユーラシアの陸上勢力の危険性を指摘していたことを踏まえ、近代にも大きな影響を及ぼした前近代における草原の遊牧民とその周辺の定住民の間で巻き起こるダイナミズムに注目してモンゴルを中心とした遊牧民の歴史を叙述した。このような中央ユーラシア史の視点においては、清朝をダイチン・グルンとして遊牧国家の延長線上において捉える傾向が強い。しかしながら、ハーンであり皇帝でもある聖主によって支配されたダイチン・グルンは中華王朝ではなく大元ウルスの後継国家であると主張する中央ユーラシア史の視点ではむしろ中華王朝としての清朝という側面を無視し、入関から100年たった乾隆期をそれ以前の康熙期と何の批判もなしに同一に語っているという側面がある。

 田村(1975)によれば康熙帝儒学を深く学んでいたということ、雍正帝は『大義覚迷録』において儒教の理論を援用して中央ユーラシア型帝国の統治理念として掲げ、乾隆帝が中国文化を愛好していたということは紛れもない事実であり、新疆に対する統治策を政治構造の面から見るだけでは清朝中華帝国ではない中央ユーラシア型の国家であると批判することはできない、と私は考える。また、庄(2016)によれば入関以前の後金国時代においても盛んな漢籍の翻訳がなされ、ホンタイジといった指導者さえも漢籍の教養を背景とした発言を行っている。また、康熙帝の数学教師も務めた宣教師ブーヴェは漢籍満洲語翻訳活動について、以下のように述べている。

 

(康煕帝の宮殿には)漢文の名著を韃靼語に絶えず飜訳している練達の士が控えております。その結果、韃靼語がきわめて豊富になります。特に韃靼人に対しては漢文の名籍に対する理解がたやすくなります。彼らの多数は殆ど漢文に熟達しておりませんから、漢文の名著が韃靼語に飜訳されてなければ、碌に読むことも出来ないでありましょう。この利益は彼らにとっても、宣教師にとっても共通なものであります。 (後藤末雄 1970 カッコ内は報告者)

 

このような盛んな翻訳活動は乾隆期以降次第に形骸化していくが、それは清朝の中国化によるものであり、このような状況は既に雍正期から起こっているのである。このようなことを踏まえると、18世紀後半という清朝中期において清朝がはたして本節が述べるような純粋な「中央ユーラシア型」国家であったのか、この点について疑問を持たざるを得ない。

さらに直接的な新疆統治における清朝の中国化の影響の表れとしては、新疆成立直後から発行されたアクス鋳造の「乾隆通宝」があげられる。アクス銭と呼ばれる、この「乾隆通宝」はジューンガル領内において発行されていたプル銭と呼ばれる貨幣に替えて、主にカシュガリアでの流通を目指したもので、表面に「乾隆通宝」の4文字が、裏面にはウイグル文字と満洲文字で鋳造所に相当する文字が鋳込まれている。ここで、注目することは、カシュガリアという「非漢人」地域で「乾隆通宝」という文字が鋳込まれた貨幣が用いられている、ということである。通常の清朝が発行する貨幣は表面に漢字が裏面に満洲文字が鋳込まれているが、両面満洲文字が鋳込まれたものもあり、すべての清朝が発行した貨幣に漢字があるわけではない。そう考えると、アクス銭というものの奇妙な性格が明らかになる。これは、本節で述べられていた中央ユーラシア国家としての「大清国」という文脈においては理解が難しいものである。むしろ、本節で批判されていた「中華王朝としての清朝」という文脈においてこそ理解が成り立つものであろう。

以上、簡潔であるが中央ユーラシア史という立場で清朝を見たとき「中央ユーラシア型国家」という連続面と「中華王朝」という断続面の両方を見つめなければならない(むろん逆もまた然り)、という考えをアクス銭を通じて検討した。

 

○参考文献

田村実造 編さん(1975)『世界の歴史〈9〉最後の東洋的社会』中央公論社

庄声(2016)『帝国を創った言語政策 ダイチン・グルン初期の言語生活と文化』京都大学出版会

イリ地方に生きたキルギス人たちの叙事詩「マナス」に描かれる中央アジア遊牧民から見た中央ユーラシア

①「マナス」に見る被支配側の視点

多くの場合政治史的に述べられる17世紀以降の東トルキスタン史に対して、視点をまず支配側から「被支配側」に移し9世紀にウイグルを滅ぼした後にキルギス可汗国を建国して以来、東トルキスタンを支配したカラ=キタイやモンゴル、カルマク(オイラトのことを指す。またカルムイクともいう)、ジューンガル、大清グルンに支配されたキルギス人の口承によって伝えられた叙事詩「マナス」に現れる彼らの歴史認識について見ていきたい。

「マナス」は八部約二十万行からなる長大な英雄叙事詩である。叙事詩の名称にもなっている「マナス」は叙事詩においてキルギス民族を統合したキルギスのハーンであり、この叙事詩全体ではマナス以下チクテイに至るまで八代の事績が記されている。叙事詩の構成は八部それぞれが以下の通りマナスから始まる八代と対応している。

 

第一部「マナス」

第二部「セメテイ」

第三部「セイテック」

第四部「カイニニム」

第五部「セイイト」

第六部「アスルバチャとベクバチャ」

第七部「ソムビリョク」

第八部「チクテイ」

「マナス」が生まれた時期に関しては諸説あり、それらの説が主張する発生時期は9世紀から17世紀と幅が広い。しかし、口承伝統であるという性質上、その内容は常に更新され続けてきたことは マナスがナポレオンと戦ったという即興部分が付加されたこともあった(奥村 1995)ことからも想像にかたくない。つまり、「マナス」は被支配者であったキルギス人によるイリ川地域の歴史を反映した叙事詩であり、ここに記されている出来事と本節で述べられたイリ川地域の歴史と対応させて見れば、マクロなレベルである中央ユーラシア史の場に生きる人々のミクロな実相を比較することで、本節で示されていることを理解する助けになると考えた。

 

キルギスの歴史

 

以下簡潔にキルギスの歴史について中国の正史の記述を中心として見ていく。

中国文献における初出は「史記」であり、キルギス人は当時の中央ユーラシアの覇権を握っていた匈奴に服属していたことが記されている。「漢書」にも同様の記述があるが、両者ともに具体的な内容は伴っていない。

ついで三国志の底本の一つである魏略はキルギスについて以下のように述べている。

 

 堅昆國在康居西北、勝兵三萬人、隨畜牧、亦多貂、有好馬 (「魏略」西戎伝)

 キルギス国は康居の西北にあって、動員できる兵数は三万、家畜を従え、彼らは貂の皮を多く算出し、良馬がいる

 

「周書」には突厥と並んで契骨(キルギス)の起源に触れている部分がある。「北史」にも同様の記述があるが、成立年代を見れば「周書」を引用したものであろう。また、当時のキルギス突厥あるいは鉄勒に従属していたとされる(高橋 2001)

 

或云突厥之先出於索國、在匈奴之北。其部落大人曰阿謗步、兄弟十七人。其一曰伊質泥師都、狼所生也。謗步等性竝愚癡、國遂被滅。泥師都旣別感異氣、能徵召風雨。娶二妻、云是夏神、冬神之女也。一孕而生四男。其一變為白鴻、其一國于阿輔水、劔水之間,號為契骨、其一國於處折水、其一居踐斯處折施山、卽其大兒也。山上仍有阿謗步種類、竝多寒露。大兒為出火溫養之、咸得全濟。遂共奉大兒為主、號為突厥。(後略) (「周書」 異域伝)

ある人はいう。突厥の先祖は匈奴の北にある索国から出ている。その部落の大人は阿謗步で、彼には兄弟が17人いた。その1人は伊質泥師都といい、オオカミから生まれた。阿謗步たちの性格は総じて愚痴であったので、彼らの国はついに滅ぼされた。伊質泥師都は異様な気を感じることができるだけではなく、風雨を操ることができた。彼は夏神、冬神の娘を娶った。そのうち1人は4人の男を生んだ。その1人は白いおおとりに変じた。その1人は阿輔水と劔水の間に国をつくりキルギス国と号した。その1人は處折水に国をつくった。その1人は踐斯處折施山にいた。それがすなわち大兒である。山上には阿謗步の遺民がいて、総じて寒さと露にあった。大兒は彼らのために火の温もりをもってこれを養生させ、すべて救うことができた。そのため、ついに彼らは大兒を共に君主として奉戴し、突厥を号した。

 

キルギスウイグルを滅ぼして一時、覇権を確立した9世紀の事績を記した「新唐書」においてはキルギス人の事績について、伝は立てられていないとはいえ、まとまった記述がある。これによるとキルギス人は牧畜なども行う農耕民であるとされる。

稼有禾、粟、大小麥、青稞、步硙以為面糜。穄以三月種、九月獲、以飯、以釀酒、而無果蔬。(「新唐書」回鶻下)

(キルギス人は)イネや粟、大小の麦、ハダカムギ、步硙をひいた粉とする。三月に種をまき、九月に収穫して、飯や酒を醸すのに用いる。果物や野菜は作らない。

 

また、キルギス人の風貌については以下のように、白人の特徴を示していて、現在のキルギス人との違いが強く示唆されている。

 

人皆長大、赤發、皙面、綠瞳、以黑髮為不祥(「新唐書」回鶻下)

人の身長は高く、赤い髪、白い顔、緑の瞳で、黒い髪はめったにみない。

 

 キルギス人はエニセイ川上流で牧畜・農耕をしていたが、ウイグルが衰えると可汗を名乗った阿熱という指導者の元、吐蕃との戦いで国力を弱らせていたウイグルを打ち破った。阿熱は唐にウイグルの残党を討つことを願い出て、そこで武宗は右散騎常侍李拭をキルギスに派遣し阿熱を宗英雄武誠明可汗に冊封しようとしたが、武宗が冊封をする前に崩じたので、その後を継いだ宣宗が847年に鴻臚卿李業を代わりに遣わして英武誠明可汗を冊封した。(「新唐書」回鶻下)

 

 こののち、キルギス可汗国は一時期強勢を誇ったが、10世紀初頭に契丹族に征服され、属国となった。1124年に金に遼が滅ぼされるとヤルート・タイシはキルギスに対して徹底的な略奪を加え、さらに西進してカラ・キタイを建国してからもたびたびキルギスへ出兵した。

 モンゴルが強勢になるとキルギス人はモンゴルに従い、モンゴルの勢力が衰えるとオイラトと親密な関係を結んだ。(高橋 2001) ジューンガルがジュンガリアの盟主となると、ジューンガルはたびたびキルギスの地を攻撃し、支配下に入ったキルギス人はジューンガル軍のブルート人と呼ばれ砲兵として従軍した。(宮脇 1995) 1688年に南モンゴルに移った外ハルハを追って南下したガルダン率いるジューンガル軍は北京北方のウラーン・ブトンにて戦ったが、ジューンガル軍の装備する大砲の打ち合いによって決着がつかなかった。(今谷2000) 直接キルギス人がウラーン・ブトンの戦いに参加していたことを示す史料は存在しないが、戦いに砲兵が参加していたことをふまえると、キルギス人がこの戦いに参加していた公算は大きい。

 ジューンガルが滅ぼされるとキルギス人は清朝あるいはコーカンド・ハン国の支配下にはいり、19世紀にはコーカンド・ハン国がロシア帝国に併合され、キルギスもまたロシアの版図に入った。そして、ロシア革命を経て自治州となり、1936年にキルギスソビエト社会主義共和国となり、1991年に現在のキルギスタン共和国が成立した(93年にキルギス共和国へ改称)。

 

③「マナス」から見た中央ユーラシア

 

 キルギス人の歴史を称して高橋(2001)は「被支配、被圧迫の歴史のすさまじさに驚かされえる」とし、しかしながら一度は栄光を経験した歴史の中で「マナス」は醸成されたのだとしている。このマナスには「キルギス人たちの生活様式、習俗、道徳、地理、宗教観、医学知識、そして彼らの国際関係がこの巨大な叙事詩の中に反映して」(奥村 1995)おり、先述した中央ユーラシアの要衝に生き抜いたキルギス人の歴史とこの「マナス」を合わせてみていくことにはマクロの視点ではわからない具体的なミクロなレベルの中央ユーラシア史を解き明かす一端としての意味がある。

 「マナス」は「マナスチ」と呼ばれる語り手によって、基本的には文字に記録されることのなく口承される叙事詩である。アディル・ジュマトゥルディ(2010)によれば、「マナス」のテキストは記録されているだけでも150種に上り、その歌う状況、あるいは聴衆によっても話の詳細は一回一回異なるが、しかしながら、その基本的構造はトゥルク語系民族による叙事詩と同一の以下のような構造をもっている。

 英雄の特異な誕生――苦難の幼年時代――若くして功をたてる――妻を娶って一家をなす――外地への遠征――地下への侵入(あるいは死んで復活する)――災いにあう故郷――敵に殺さる(あるいは簒奪者が懲らしめられる)――英雄の凱旋(犠牲)

 このような構造の同一性と並んで、伝承に由来する「類型化」された語句をマナスチが紡ぐことによって「マナス」という叙事詩は維持されており、一方で「語り」を行うたびに「マナス」は再創作され、その時々と聴衆に見合った要素が入ることによって「マナス」は完成する。

 このような「開放的で開かれた体系」であるから、「マナス」には時たまに奇妙ともとれる要素が入ることがある。先述のナポレオンとマナスの戦いもその1つである。しかし、それこそが「マナス」を「キルギス人のエンサイクロペディア」(奥村 1995)たらしめた理由であろう。

 この「マナス」そのものの内容は事実とそうでないものが混ざっている、ということを「マナス」冒頭で「半ば真、半ば偽り」(西脇 2011)とすでに宣言している。「マナス」の中の出来事を歴史的な事実を直接明らかにするために用いるべきではないが、歴史を考える上の傍証として用いることにはある程度の意味があるのではないか。

 以下に高橋(2001)が紹介した第一編「マナス」のあらすじを紹介する。

 

序詩開篇、キルギス族の族源とマナスの先祖について述べる。マナスの父親チャクプははじめ子どもがなかったので、是非ほしいと願っていた。当時キルギス人を支配していたカルメイック人(オイラト人)の中に有名な占い師、ランコタクが居り、彼はキルギス人の間に一台の英雄マナスが生まれると予言する。カルメイックの王アラオケは其れを聞いて激怒し、手当り次第にキルギス人の妊婦の腹を割いて調べるという暴挙を行ったが、多くのキルギス人に守られてマナスは生まれた。マナスは飛ぶように速く成長して怪力無双の好漢になった。9歳で40人の勇士達を引き連れ、弱きを助け貧しきを救い、暴虐を除き、正しきを安んじ。タシクルガン・カシガル・ウルムチ・アフガンにまで遠征して、14汗王の部落と同盟を結んでキルギス人の汗王首領となった。またカニカイ公主と結婚した。攻めてきたカルメイックのコングルパイを打ち負かした。キタイ人(契丹人のことと言われる)のアリマンペトックと義兄弟の契りを結んで、最後にペイチン(嘗てトルフアンの郊外にあった北庭、つまりベシバリクのことと言われる)をうって大勝したが、其の時の気の緩みに付け込まれて、敵の毒斧を後頭部に受け、重症のままタラスに帰ってから死去した。(高橋 2001)

 

さて、まず、キタイ人とは契丹人であるのか、それとも漢人のことであるのか。それはマナスが語られる場面によって変わっていったとみることができる。しかし、近代のマナスチたちは、このキタイ人のことを明確に中国人であると認識して歌っていたというのは、以下の「ペイチン大遠征」を巡る論争から明らかである。

奥村(1995)は「マナス」のクライマックスである大遠征の先である「ペイチン」をベシバリクではなく北京のことであると明言していて、この架空の「北京大遠征」のために社会主義共和国時代キルギスでの「マナス」は中ソ友好にとって問題があるとしてキルギス共和国の最高権力と科学アカデミーの間に会議がもたれたが、結局「マナス」擁護派が勝利して、会議の帰趨を心配した数千のキルギス人たちが「マナス」を大合唱しながら村落へ帰って行ったというエピソードからも、少なくとも近代において、この「ペイチン大遠征」は「北京大遠征」という文脈で歌われた。

また、若松(2003)はこの「クィタイ」を最初のマナスチたちは遼であると解釈し、次時の時代のマナスチたちはカラ・キタイであると解釈し、そののちの時代のマナスチたちは中国であると理解したとする。そして、これらの共通点はキルギス人を支配した民族であるということであり、これらの東からの圧迫が、反実仮想的に「マナス」の遠征へとつながっていった。

 さて、中央ユーラシア史という視点に戻ってこの「マナス」を見たとき特徴的な点は以下の4点である。

 

 ①その悲劇性

 ②豊かな国際性

③東から来る敵

 ④クライマックスとしての「北京大遠征」

 

 ①その悲劇性

 若松(2005)はマナスがその物語の最後において悲劇的な死を遂げるというのは他のトゥルク系民族の叙事詩には見られない特徴であるとするが、坂井(2006)はトゥルク系民族の叙事詩には英雄の悲劇的死は比較的よくあることであると批判している。しかし、この悲劇的死を遂げる英雄というモチーフがキルギス人の苦難を象徴しているという若松(2005)の意見は中央ユーラシアの要衝を生き抜いたキルギス人によって作られた「マナス」という叙事詩をみる上で重要なものである。

②豊かな国際性

先述のソ連時代のマナス擁護者たちはマナスの国際性を取り上げて擁護に努めた。「マナス」の登場人物には中国人、オイラト人、カザフ人、タジク人など天山地方を行き来した多くの民族が含まれている。この中央ユーラシアの特質である民族的多様性と流動性の高さは「マナス」の中にも強く反映されている。

③東から来る敵

 「マナス」においてキルギスに攻め入る敵が来る方向は常に東である。これは、中央ユーラシアの民族移動が東から西へ行われていたことを、ミクロ的な視点においてもキルギス人たちは認識していたことを示す。中央ユーラシアのマクロな動きをキルギス人たちは叙事詩の中において認識していたのである。

 ④クライマックスとしての「北京大遠征」

 この「北京大遠征」は採録によっては存在しないこともある(奥村 1995)が、紛れもなく叙事詩「マナス」においてこの軍事行動は紛れもなくクライマックスであり、その壮大さのために全くの作り物語であるとみる論者が多い。(若松 2001:奥村 1995) しかし、この「北京大遠征」を奥村(1995)はウイグルを滅ぼした記憶あるいはジヤアンゲル・ハンの反清暴動が背景にあるとみているが、しかし、さらにこの「北京大遠征」にふさわしい出来事があることに気づかされる。1688年のジューンガル軍と清軍が北京北方のウラーン・ブトンにて衝突した戦いにおいて活躍したジューンガル砲兵の担い手はブルート(キルギス)人をはじめとするブハラ人たちではなかったろうか。

 さらに実際に北京大遠征の一節に目を通してみると、戦闘描写の生々しさもさることながら、伝統的な遊牧民の騎兵は用いないさまざまな火器が登場する。「コイチャグル銃」「スィル・バラン銃(フリントロック銃)」「アクケルテ(銃)」など、それらは英雄たちが用いる名のある得物の一つとして高い扱いを受けている。アクケルテ銃の描写をマナスチは「遠くも近くも変わりなく、遠くも近くも区別なく、百発百中、銃身は鋼鉄、銃口はダマスカス鋼、硝煙は濃霧、銃床はイスファアン製、照星は恐怖の的、弾丸は死、これぞ聖なるアクケルテ」として、この一斉射とともに大砲、小銃の射撃が続いたのち、騎兵が突撃する。(若松 2003)随所に叙事詩らしく、英雄の突撃や魔法などが織り込まれているものの、この戦法は17・18世紀のジューンガルのそれである。

 これらの叙事詩が記録された年代とウラーン・ブトンの戦いは200年の時を経ていて、これらの出来事が叙事詩の中に定着していてもおかしくはない。以上のさまざまな情報をから、ウラーン・ブトンの戦いに北京遠征のモチーフがあるのではないか、と私は考える。

 

 以上、「マナス」というミクロの視点から中央ユーラシア史的事実を見出し、その深い理解を行うために4つの点を指摘し、これを検討した。

 

○参考論文・文献

史料

三国志」魏略 西戎

「周書」異域伝

「北史」突厥

新唐書」回鶻伝下

 

論文

 西脇隆夫「中国におけるキルギス族英雄叙事詩「マナス」の研究」『中国』 (8) pp.268-276  1993-06 中国社会文化学会

奥村剋三「キルギスタン叙事詩『マナス』と辺境の知識人」『立命館経済学』44(4・5)  pp.653-661 1995-12 立命館大学経済学会

 高橋庸一郎「中国北方少数民族伝承文学概説(六)-キルギス族英雄叙事詩「マナス」(上)」

『阪南論集 人文・自然科学編』Journal of Hannan University Humanities & natural science 36(4) pp.1-8 2001-03

 高橋庸一郎「中国北方少数民族伝承文学概説(七)-キルギス族英雄叙事詩「マナス」(下)」『阪南論集 人文・自然科学編』Journal of Hannan University Humanities & natural science 37(1・2) pp.29-38 2001-09

 ジュマトゥルディ・アディル 西脇隆夫訳「翻訳 英雄叙事詩「マナス」の特色」『名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇』47(1) pp.71-82 2010-07 名古屋学院大学総合研究所

 坂井弘紀 書評「若松寛訳, 『マナス 壮年篇-キルギス英雄叙事詩-』, (東洋文庫 740), 平凡社, 二〇〇五・七刊, 全書判, 四一二頁, 三一〇〇円」『史學雜誌』115(2) pp.242-243 2006-02

 西脇隆夫「キルギス族英雄叙事詩「マナス」第一部(一)」『名古屋学院大学論集 言語・文化篇』THE NAGOYA GAKUIN DAIGAKU RONSHU; Journal of Nagoya Gakuin University; LANGUAGE and CULTURE 22(2) pp.98-112 2011-03

 

書籍

護雅夫 岡田英弘編(1990)『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』山川出版社

宮脇淳子(1995)『最後の遊牧帝国―ジューンガル部の興亡』講談社

若松寛(2001)『マナス 少年篇―キルギス英雄叙事詩平凡社

若松寛(2003)『マナス 青年篇―キルギス英雄叙事詩平凡社

若松寛(2005)『マナス 壮年篇―キルギス英雄叙事詩平凡社

今谷明(2010)『中国の火薬庫—新疆ウイグル自治区の近代史』集英社

 

 

こののち筑波大学学園祭の歴史を書く人に宛てた草稿②

2. 学園祭実施に向けた学生自治組織の結成

 学園祭実施の機運が高まった1974年の段階においては、大学側の非政治化方針とわずか742人という学生の少なさから、他大学では往々にして学園闘争の中心となった学生の代表機関としての自治会的組織を持たず、各学類・専門学群ごとに設けられたクラス単位における担当教官と学生間の意見交換をもって学生の意見を集約するという簡素な形式をもって学生と大学側の交渉がなされていた。

 しかし、一方で学園祭実施を望む学生たちは、全学的な学園祭を実施するための準備組織として有志によって、まずサークル代表の有志たちが学園祭の実施の検討を始め、学園祭の全学化のためにクラス代表にも学園祭実施検討への参加を呼びかけ「クラス代表者会議」が10月14日に組織され、「サークル代表者会議」と「クラス代表者会議」の合同機関である「サークル・クラス代表者会議」と実務機関として「学園祭実行委員会」が同年中に組織された。これらの経緯を踏まえ、第一回学園祭実行委員長は筑波大学学園祭の当初の目標として、

1、全学生参加による交流ある学園祭

2、クラブ・サークルの活躍を公表する学術文化の場

3、現在大学の置かれている複雑さに対し、新しい、新しい構築すること

の三点を掲げ、第一回学園祭実施に向けての実務を取り持った。

 実行委員会設立時点においては「クラス代表者会議」は学園祭を実施するための連絡機関としての色合いが強かった。しかし、1974年末、二期生入学を控えて学生宿舎の空き部屋が不足したことにより、一部一期生の退去が強制されたことを発端として起こった「宿舎問題」においてクラス代表者会議は学生側の「4年間希望者全員入寮」要求の運動の中心となり、大学側との折衝、署名活動を行った。

 この当初は学園祭実施のための学生のサークルを基礎とした自主組織だったクラス代表者会議は「宿舎問題」を契機として、大学に対する学生自治組織としての性質を帯びるに至ったのである。これに対して、従来の非政治化方針を継続しえなくなった大学側は1975年3月20日に「クラス制度に対する申し合わせ」と「筑波大学学類(専門学群)連絡会議要項」(旧綱領)を決定し、4月に「75学生綱領」を発表。これまで学生による非公認組織であったクラス代表者会議を公認し、交渉のレベルを2段階に分割し、学生側には全学レベルの「全学類等代表者会議」と従来の学類レベルの「クラス代表者会議」を組織させ、大学側はそれぞれ全学レベルの「厚生補導審議会(教育審議会)」と学類レベルの「学類教員会議」を対応させ、それぞれの間で「懇談会」、「学類クラス連絡会議」を意見交換、折衝の場として設定したのである。また、開学以来のクラスと担当教官による意見交換、折衝の場も並存させ、現在まで継続するクラス・学類・全学の三段階からなる学生組織は完成した。以降、この「学生」と「大学」を対立するものではなく、共同するものであるとする建学の理念に基づく「まったく新しい考え方にたつ学生の自主的組織及びこの学生組織と大学運営責任者との連絡、交流の場」とされる従来の大学の学生自治会とは大いにその性質を異にする学生・大学関係を基礎とする「代表者会議体制」は以降の筑波大学の学生と大学の関係における基本的な枠組みとなった。

 この代表者会議体制成立によって全学類等代表者会議(以下、全代会)はクラス代表者会議(以下、クラ代)の上部組織であるだけでなく、実務機関である学園祭実行委員会の大学側との折衝の役割を担うこととなった。また、代表者会議体制において「サークル代表者会議」は全学・学類・クラスの系統とは別に、1976年に学生サークル自治組織として総称して「三系」と呼ばれる「文化系サークル連合会」「芸術界サークル連合会」「体育会」が正式に発足し、それぞれ団体間に関わる問題や後援組織である紫峰会に関する問題を討議する「課外活動団体会議」と大学側との折衝を行う「課外活動連絡会」による学生・大学関係のもう一つの基礎的枠組みとなり、この体制もまた現在にいたるまで継続している。この「代表者会議体制」における学生・大学関係においては、大学側との折衝が主要な役割である全代会と学生自治組織としての役割が強い三系の二重性が存在し、これらは併存し現在に至っている。

 

3. 第一回筑波大学学園祭「紫桐祭」

 

 一方、「宿舎問題」が表面化するなか、学園祭実行委員会(以下、学実委)は1974年12月10日に大学側から正式な組織として認められた。しかし、翌年75年の「代表者会議体制」発足に伴って、全代会は小規模な実務組織であった学実委に対する監査委員(後の学内行事委員会)を設けることで学実委の全学性を担保し、大学側は学園祭を大学の正式な行事として公認する条件として、

1、筑波大学の建学の方針に沿い、建設的な内容のものとすること

2、単なる遊びや祭り騒ぎに終わらないこと (のちに、単なる娯楽に終わることなく創造的で知性に富んだ学園祭であること、に変更)

3、最終的な企画を決定する前に、大学側と十分な協議をおこなうこと

の「三条件」を掲げ、大学側の「教育的指導」を受け入れることを求めた。

 この開学当初以来の非政治方針をもって、政治性が現れる可能性の高い学園祭実施に対して強硬に対応した大学側に対して、学実委はこれらの「三条件」に抵触すると大学側から企画中止を求められた「文教政策についての五党討論会」「福田信之副学長と生越忠氏による大学問題に関する討論会」「歴史学和歌森太郎と生物学者江上不二夫氏による講演会」の学実委実施企画(以下、本部企画)の実施を巡って、全代会と共に連日に渡る交渉を行ったが、大学側は学園祭に関する事務を一切受け付けないという強硬方針をとった。そのため、学実委は「学園祭実行」の方針の維持のため、これら3企画を中止・内容変更を行い、これをうけ大学側も学園祭の実施を承認した。この学実委の大学側への妥協は学生の自治管理による学園祭実施に対する要求あるいは妥協した学実委への批判を強め、そのため翌年以降学生・大学ともに強硬化し、1980年を頂点とする学生・大学間の対立の契機となった。

 第一回学園祭は1975年11月1日から3日にかけて開催された。この第一回学園祭のみは例外的に「紫桐祭」(しとうさい)と校章をモチーフとした仮の名称が付けられた。第一回学園祭の予算規模はおよそ100万円(この歳に関して決算書の存在を確認することができない)で、その大部分は学生の分担金の収入に依拠していた。また、当時の企画数は40程度であり、学生の総数も現在の10分の1程度であり、予算規模、企画数などおよそすべての面において、第一回学園祭は現在の学園祭の10分の1程度の規模であったことがわかる。企画の特徴としては、これは70年代80年代に共通する特徴ではあるが、学類主催の学術的企画の比率がサークルなどによる模擬店企画に比して、現在と比べて非常に大きかったことが挙げられる。

 このような紆余曲折の末に開催された「紫桐祭」は「死闘祭」と当て字され、中止に追い込まれた諸企画に対して、学園祭後一分間の黙祷が捧げられた。また、この後、正式な学園祭の名称として筑波山をモチーフとした「雙峰祭」が、1976年以降2016年の第42回学園祭に至るまで採用され、「紫桐祭」の名称はただ一回のみのものとなった。

こののち筑波大学学園祭の歴史を書く人に宛てた草稿①

  1. はじめに

 1974年最初に筑波大学が入学者を迎えたその年から現在にいたる40有余年の伝統をもつ筑波大学学園祭は、実にそれぞれの時代の世相あるいは「新構想大学」たる筑波大学とこれをとりまく「研究学園都市」という特殊な立地条件を反映した様相を呈してきた。従来の大学教育に対する国家の教育行政による「壮大な実験」のために生まれた筑波大学の歴史はすなわち、この建学の理念にも色濃く反映されている「壮大な実験」の結果に他ならず、2004年の国立大学の法人化以降、大学における網羅的で重厚な学術研究、特に基礎科学といわれる部分の今後が取りざたされるなか、建学の基本計画に「創造的な知的生産を目的とし、諸科学の調和をとれた研究・教育体制のもと、総合的な研究開発に重きをおく」とし、基礎応用を融合した学問的総合を目指して建学された筑波大学の歴史の反省はすなわち、情報通信技術の進歩、特に個人用コンピューターやスマートフォンの普及によってインターネットが大衆の手のもとに開かれたことによって「教養」が持つ権威が失われつつある現代において次第にその影響力が強まる即物的な「実学主義」に対する検証なのである。

 この筑波大学の歴史を語るうえで、大学の教育機関という側面、すなわち「大学と学生」という側面から歴史を見ることは、大学の研究機関という面に目を向け、その成果をはかることと同程度に重要な要素であるということは、大学というものの研究教育の二元性から見て当然である。この「大学と学生」の視点から見た筑波大学の歴史は「大学と学問」という視点から見たそれと、時代、土地、ヒトを同じくするものであり、両者は実に密接な関係を持っている。その「大学と学生」の筑波大学史を記すにあたって学園祭に対して触れずにいることは不可能なほどの重要な要素である。

 無論、このわずか40年あまりの伝統しか持たない筑波大学学園祭を歴史的叙述に対象とすることを適当であるとみなすことは困難である。しかし、10年後、20年後にこの学園祭の歴史を記そうと試みる人の問題意識の一端として、この試論がある意味において史学史的な意義を持つということを期待し、さらにはこの伝統について知ろうと欲する人に対して完全に網羅的ではないにしろ、体系化された叙述をすることで、ある程度の便を与えることができるだろうと思い、これまでに集めた資料をまとめ、これをもとに学園祭の来し方を概観することを試みる。

 

  1. 開学当初の問題と宿舎文化

 1973年に開学式典が開かれ、翌1974年に最初の学生を迎えた筑波大学は実質的に開学したが、当時の筑波山麓地域は未だ開発の手がほとんど入っていない「開拓地」と呼べる状態であったと当時の学生は記録している。この「開拓地」に入った筑波大学の学生は、東京など大都市に住む学生のように大学周辺に下宿することが、大学周辺の受け入れ先の少なさのため困難な状況であり、学生のほとんどは大学が設けた学生宿舎に入居することとなった。大学内においてすら、多くの施設が未完成であった1974年の段階において、大学周辺には娯楽施設どころか身の回り品をそろえるための商業施設すらまともにないという状況であった。この当時の学生をして「工事現場」と言わしめた開学当初の筑波大学の学生にとっての最初の一年を象徴する存在は「学生宿舎」であった。都市部に基盤をもつ他大学には見られない濃密なコミュニティーは「筑波」独自の学生文化を生む素地となった。「生活共同体」である学生宿舎において生まれたこの独自の学生文化は、初代学長三輪知雄の示した筑波大学の「政治運動の禁止」方針とあいまって、当時吹き荒れていた「学園闘争」の嵐は、開学直後の筑波大学とはまるで縁のないものとなっていった。「アジとビラ」に象徴される当時の一般的な大学生活は、筑波大学においては「土と緑」に象徴されたのである。この開拓地生活における学生たちのエネルギーは、政治運動と隔離と周囲における娯楽の欠如から、サークル活動あるいは「祭り」の開催へと向かっていった。当時の学生のサークル加入率は149%であり、現在と比較してもその高水準がうかがえる。そして、この学生たちのエネルギーは1975年の第一回学園祭、翌1976年の第一回宿舎祭、1974年から始まった体育会結成の動きを嚆矢とする文化系、芸術系、体育会の三系と呼ばれるサークル連合の発足、体育会発足と連動して生まれた学生保護者による後援会である紫峰会の発足へと向かっていったのである。これらの現在の筑波大学の学生文化の基礎を築いた宿舎文化は、周辺地域が発展した現在では失われてしまった文化であるが、この文化の象徴たる宿舎祭は、入学間もない一年生をはじめとする学生と地域の住民たちとの交流親睦の機会となり、毎年の年中行事として定着している。

 そして、学生にとって最大の年中行事といえる学園祭は、宿舎文化の最初の結実であり、その開催に至るまでの道のりは当時の学生活動の一典型とみることができる。しかし、この学園祭へ向けた動きは、その当初から「政治性」の問題が生まれる萌芽が存在し、このために開学当初の宿舎文化はしだいに変質を余儀なくされたのである。 (つづく)

ハザールの西進とブルガールの分裂(ブルガリア史③)

 ここまでアヴァールについて語ってきた。

 ここで、ブルガールに話を戻す。

 アヴァールを西に追ったクプラトは、本拠をシルクロード世界の交易との接続に有利な北コーカサスからアゾフ海沿岸に置き、友好国であるビザンツの支持もと西のアヴァール、東の突厥と対抗し、周辺の遊牧民を糾合した。

 このクプラト率いるブルガールを中心とする政治集団を「古き大ブルガリア」あるいは「オノグル・ブルガール」もしくは単に「大ブルガリア」と呼ぶ。

 一時は突厥アヴァールと並ぶ大勢力となったブルガールであるが、クプラトが死没する前後から東の突厥から分離した突厥可薩部、すなわちハザールが西進、ブルガールに圧力を与えるようになっていった。ハザールはクプラトという強力な指導のもとにあったブルガールにとっても脅威ではあったが、それはブルガールを崩壊させる決定的な要因となることはなかった。

 クプラトが死没すると状況が一変した。東方のハザールへの対応において、クプラトの5人の息子たちの意見が対立したのだ。

 5人の父親はその死にあたって、息子たちにこう語った。

「危機に団結せよ」

 その言葉を忠実に守るべく、クプラトの領民を分割相続した5人の息子たちは一つのユルタ(遊牧民のテントのこと)に集まって、ハザールの圧力に対抗するべく議論を重ねた。

 長子バトバヤンは、たとえハザールに服属することとなっても、父祖の地を守って、ハザールと戦うべきだ、と主張した。

 次子コトラーグは、争いを避けて北東へのがれ、再起を図るべきであると主張した。

 三子アスパルフは、ドニエストル川の南岸まで西進し、ドナウ川の南側にある友好国ビザンツと連合するべきであると主張した。

 四子アルツェクは、「グレク(ギリシア)人たちは信用ならない」として、かつての宗主アヴァールを頼るべきだと主張した。

 五子クベールは、アヴァールビザンツのいずれも頼ることができるよう、両者の国境付近にのがれようと主張した。

 議論はついに一つに決せず、父の遺訓を破ることもやむなし、として各々がそれぞれの部民を率いて、信じる最良の方策をとることを定めるにいたった。

 以下、簡潔に5人の息子たちのたどった道筋を見ていく。

 分裂したブルガールのうち、黒ブルガールと呼ばれるバトバヤンの集団はハザールとの抗争に敗れ彼らの従属民となり、歴史の表舞台から姿を消した。

 コトラーグの領民たちは争いをさけて、ヴォルガ川の上流へのがれ、ハザールに緩く従属し、やがて従来の遊牧生活を放棄し、牧畜農耕に従事し、シルクロード世界と北欧を結ぶヴォルガ川水運を支配し、そこから利益を得た。彼らの政権を一般に「ヴォルガ・ブルガール」と呼ばれ、13世紀ごろまで繁栄し、彼らの子孫は現代のチュバシ人とされ、彼らが話すチュバシ語はブルガール語の唯一の末裔として、学者の注目を集めている。彼らに関する記録としては、ハザールが衰退の兆しを見せ始めた10世紀前半に彼らの支配から脱却しようとこころみた首長アルムシュが新たな同盟相手としてアッバース朝との関係を模索し、アッバース朝からの使者として派遣されたイブン・ファドラーンが記した「報告書」(日本では『ヴォルガ・ブルガール旅行記』として知られている)がある。その「報告書」のうちには、ヴォルガ・ブルガールやルーシ人、ハザール人など周辺の民族の風俗などの情報があり、当時の黒海北岸草原からヴォルガ川流域の状況が明らかにされている。

 アスパルフ率いる領民は、現在のトランシルバニアあたりに移動し、やがてドナウ川を渡り、681年、同地のスラブ人と連合してビザンツ領内に政権を確立した。これが現在のブルガリア国家の原型である。

 アルツェクの領民たちはアスパルフたちよりも早い時期にビザンツ領内に入り、アドリアノープルの城壁に迫ったが、彼らの軍事力ではビザンツの都市を陥落させることができず、やがて周囲のスラブ人たちと同化していった。

 クベールは、アヴァールを頼って西進したが、結局アヴァールの本拠地であるパンノニアからランゴバルト人たちともの南イタリアにのがれ、9世紀ごろまでは独自の文化を維持した。

 彼らのうち、もっとも成功したのはアスパルフ率いる集団であった。以降、彼らがブルガールで最も強力な勢力として、アヴァール、ハザールそしてビザンツと対等に渡り合い、ヨーロッパにおいて、フランク、ビザンツに次ぐ第三の勢力となっていくのである。

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図 大ブルガリアの分裂とアスパルフとコトラーグ(コトラグ)のブルガール集団の移動

 

前近代世界システム論とマッキンダー

 現在、内陸アジア史研究の新潮流として注目されている議論の一つに「中央ユーラシア」とその周辺地域の関係から一個の世界システムを見出し、それを基調とした「世界史」を構想する「前近代世界システム論」があり、明治以来の西欧偏重の世界史に対する批判として主張されている。

 そのおおよその概要としては森安孝夫「内陸アジア史研究の新潮流と世界史教育現場への提言」(2011)あるいは同氏『シルクロード唐帝国(興亡の世界史)』において詳述されているので、ここでは簡単にその概要だけ紹介する。

 「前近代世界システム論」においては、世界史を叙述するにあたって、大まかにユーラシア大陸を南北に分けて、東は大興安嶺から西はハンガリー平原に至るまでの中央ユーラシアに居住している北の遊牧民・オアシス都市民と、草原の世界の南の世界に居住している農耕民の関係の技術の進歩などに起因する変遷を以下のように区分する。

世界史の8段階 (森安孝夫『シルクロード唐帝国』2007, pp. 84-85 )

① 農業革命(第一次農業革命) ・・・・・・・・約11000年前より 

四大文明の登場(第二次農業革命) ・・・・・約5500年前より

③ 鉄器革命(遅れて第三次農業革命) ・・・・・約4000年前より

④ 騎馬遊牧民(遊牧騎馬民族)の登場 ・・・・・約3000年前より

⑤ 中央ユーラシア型国家優勢時代 (※1)   ・・・・約1000年前より

⑥ 火薬革命と海路によるグローバル化(※2) ・・・約500年前より

産業革命と鉄道・蒸気船(外燃機関)の登場・・約200年前より  

⑧ 自動車と航空機(内燃機関)の登場・・・・・・約100年前より

※1 トルコ = モンゴル系の遊牧民を中核とする軍事国家がユーラシア世界史の檜舞台に登場 

※2 「陸と騎射」の時代から「海と火砲」の時代への転換 

  以上の区分に基づいて、システマチックで、西欧にも中国にも偏重せず、暗記に偏重しない歴史叙述を行っていくことが「世界史教育」によって、現代のグローバル化というものの実相をより明確にしていくことにつながる、と森安は主張する。

 実にこの考え方というのは、従来の「暗記」偏重の世界史の脱却のみならず、世界というものの「一体性」が決して近代以降に現れた特殊な現象でないことを示す点において、真の意味で局所優位主義の歴史観、すなわち皇国史観、ユーロセントリズム、中華主義などに対する反駁となるのである。

 さて、この前近代世界システム論を「世界史」の理論として見ていったとき、その主張と似通った理論を提唱した学問があることを想起させられる。

 「地政学」である。

 ナチス政権の戦争に理論的に加担したことなどから、一時期は誤った過去の学問として捨てられた分野であるとされた。特に、現在の日本はこの傾向が強く、「地政学リスク」と叫ばれる中、日本における地政学研究というものはか細いものである。一方、冷戦という状況において英米では地政学研究の伝統は継続している。

 この地政学を基礎づけた一人として著名なハルフォード・ジョン・マッキンダーの主著にして地政学の古典といわれる『デモクラシーの理想と現実』で、彼は以下のような理論を展開する。

 マッキンダーは世界を三つの部分に分類する。一つ目は海洋の影響をまったくうけない地域「ハートランド」、二つ目はハートランドと海洋の中間に位置する「コーストランド」、三つ目は海洋に位置する「アイランド」。このうちハートランドユーラシア大陸中央部、つまり中央ユーラシアに位置づけられ、その周辺のヨーロッパ、インド、中国などあ「コーストランド」、さらにその外側のイギリスや日本、アメリカ大陸、オーストラリアなどが「アイランド」とされる。(ここでは、アフリカのハートランドに関する議論は省略する)

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マッキンダーの世界認識 世界がハートランドを中心とした三層構造になっていることがわかる。( 曽村保信地政学入門――外交戦略の政治学』中公新書より)

  マッキンダーは拡大する力を持つハートランド勢力と、それを抑える海洋勢力との関係において世界史をとらえている。その詳しい紹介は後日に譲ることとする(どうも今日は書きつかれた)

 このマッキンダーの理論をもとに歴史を構想したとき、その歴史像は偶然であるのか、先ほど紹介した「前近代世界システム論」と共通したものとなる。彼は示唆する「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを制する者は世界島(ユーラシア大陸)を制し、世界島を制するものは世界を制する」と。この言明は彼が欧州の視点から分析したことによるものであり、必ずしも正しいのか、という疑念を私は持つが、しかし、これを東に引き写して、このような言明をすると実にリアリティーが生まれないだろうか。

 「華北を支配する者は東アジアを制し、東アジアを制する者はアジアを制し、アジアを制する者はユーラシアを制する」

 

 

 

 

孔子以前の儒教

 以前から何度か言及している秋山好古の名前である「好古」は以下の論語の一節に由来している。

子曰、述而不作、信而好古、竊比於我老彭(述而)

 この有名な一節は、現代ではその重点を「述而不作、信而好古」の部分に重点を置いて解釈されているが、この一節を儒教というものの歴史を明らかにするという立場で見た場合、この一節の重点はその後半におかれる。すなわち、孔子が私淑したという「老彭」とは一体何者なのか、孔子が創始したとされる儒教とそれ以前のプロト儒教の関係はいかなるものであるのか。すなわち、中国思想の主要な潮流をなした儒教孔子を前後としてどのように変わっていったのか、これをこの一節から明らかにしていこうというのである。

 我々は常識として儒教孔子がはじめたものである、と考えているが、この一節から孔子は明確に自ら以前の伝統の後継者であることを意識していたということがわかる。それでは、一体、孔子はどのような存在の後継者であるというのか。

 孔子は「儒」という伝統のうちにある多くの人の一人であったと考えれる。その孔子の伝記から分かることとして、孔子の母は「儒」であり、彼が若い時代からおよそ40代に至るまでのほぼその前半生ともいえる長い期間、孔子は「儒」として生きてきたのであり、その後も「儒」としての伝統のもとに生き、それを基礎として自らの教えを祖述している。

 それでは、「儒」とは何者か。

 「儒」とはシャーマンである。

  白川静、あるいは加地伸行によれば、「儒」のうち「需」とは頭蓋骨を被った人間の意味であり、許慎の「説解文字」によれば「雨を而(ま)つ」、つまり雨乞いの意味であり、どちらにしても「儒」とはシャーマンと呼ぶことのできる性質をもっていた人物であるということがわかる。

 昔、歴史に残らない時代、すなわち先史時代から存在していたシャーマン的な伝統に従事していたシャーマンを「原儒」という。この「原儒」は葬儀や占いなどといったことを取り扱っていた。しかし、身分が分化し、支配層と被支配層が発生すると、「儒」は、それぞれについて二層化していった。それらを指して、巫(ふ)と史(し)祝(しゅく)という。

 「巫」は主に祭儀に従事するシャーマンであり、巫の字は、呪具(工)を持つ人という形を示す。彼らは主に、民間の祭儀と関係をもっていた。

 「史・祝」は占いに従事するシャーマンであり、史の字は、祝詞を収める器(口)を持つ人という形を示す。彼らは主に、支配者と関係を持っていた。

 

 「巫」はその性質として需要が大きかったために「史・祝」と比較すると比較的多くの人口がいたが、「呂氏春秋」によると共通の祖神として医を創始した「巫彭」、筮を創始した「巫咸」を想定し、一つの擬似的血縁関係を持っていたとされる。この「巫彭」「巫咸」の伝統を直接継ぐ、「彭氏の巫、咸の巫」と呼ばれる巫が春秋戦国時代にも存在していることは、「書」すなわち書経や「荘子」が伝えている。

 孔子の母は巫であった。これを踏まえると「比於我老彭」の老彭は伝統的な巫である「彭氏の巫」のことを示しているとみることができる。「老」とは尊称であり、「老彭」とは「彭氏の巫」のうち優れた「巫」の尊称であるとみることができる。

 これらのことは、孔子の出生以外からもその教えから見て取ることができる。巫のうち、葬礼、祖先祭祀に深くかかわった人物、あるいは家系を「儒」と呼ばれ、これらの伝統は儒教の「礼」に色濃くのこっている。「礼記」の記述の多くは「葬礼」にかかわるものである、ということもこれを示唆しよう。                     

 

 一方の「史」は、もとは占いなどに従事していたシャーマンであると考えられるが、政治を行う階層と結びついた一種の知識人へと変化していった。史と同様に扱われていた「祝」も、占いに従事していたシャーマンであるが、孔子の時代にはすでに衰え祭儀を行うシャーマンとなり(巫祝)、祝の役割は史が担っていた。

 周代の金文には「大史・大祝」とあり、これらは周王朝創業当時の最高聖職者をしめしている。このうち大史は召公の家系がこれを継ぎ、大祝は周公の家系がこれを継いだ。すなわち、かの有名な周公旦は実際には、周王朝における「大祝」と呼ばれる最高聖職者であったということなのである。

 この史は、支配者層にあって有職故実や故事、神話に通じ、その保護を担った集団・人物として記録に現れる。この史が保持した記録を「書」、「詩」と呼び、これらの記録が後世の学者によって整理され「書経」「詩経」という形になったのである。

 これらの記録を残した史の意識というものは激烈なもので、記録・伝統の保持のためには自己投棄すらおしまないほどのものであった。以下の記録に関するエピソードは、史の記録にかけた激烈な自己犠牲精神を表すものである。

 「斉の崔杼、その君、光を弑す」(春秋 襄公25年)

 この記録を残そうとした斉の大史は崔杼に殺され記録を抹消されかけたが、その弟がさらに記録し、この弟も殺されたが、さらにその弟が記録を残し、しかし、その弟も殺されてしまうが、4人目の弟にいたって記録を残すことに成功した。

 この史が残した記録群を取りまとめたものとして、「春秋左伝」「国語」などがある。そして春秋戦国以降も、さらにこの伝統は漢代の司馬遷を経由し、やがて儒者の営為と一体となっていった。しかし、この史の伝統は儒教をはじめとする諸子百家とは別に現代まで継続している。今年(2016年)、北京において「清史」の初稿が完成し、イデオロギー的に大きく変革した中華人民共和国においても、そのような伝統が続いているという事実は現代中国を考える上で有意なことであろう。

 

 孔子の出身は巫であった。巫の習俗から発し、それを一種のハイ・カルチャーである史の伝統(文)によって補強し、人為的に作られた伝統実践形態(つまり伝統そのものというより「伝統の理想」に基づいて再構築された伝統)としての「礼」を周公・老彭に「仮託」し、それを実践することによって、伝統の原点に回帰することによって、現代的な意味を見出し、さらにこの両者をその伝統と現代に共通するイデア的な(向こう側の)状態に付会させる、この三者が統一的に実現される場を「仁」と孔子はいうのである。つまり、仁とは個別具体的な実践の場である。そして、最も強調したいこととして、仁とは現代の状況、伝統の状況によって、如何とも変化しうる、それどころか個人個人によって異なるものであるのである。

 

○参考文献・論文など

白川静孔子伝』1972 中央公論社

宮崎市定史記を語る』1996岩波書店

加地信行『沈黙の宗教 儒教』2011 ちくま学芸文庫