学園祭の話2

2. 学園祭実施に向けた学生自治組織の結成

 学園祭実施の機運が高まった1974年の段階においては、大学側の非政治化方針とわずか742人という学生の少なさから、他大学では往々にして学園闘争の中心となった学生の代表機関としての自治会的組織を持たず、各学類・専門学群ごとに設けられたクラス単位における担当教官と学生間の意見交換をもって学生の意見を集約するという簡素な形式をもって学生と大学側の交渉がなされていた。

 しかし、一方で学園祭実施を望む学生たちは、全学的な学園祭を実施するための準備組織として有志によって、まずサークル代表の有志たちが学園祭の実施の検討を始め、学園祭の全学化のためにクラス代表にも学園祭実施検討への参加を呼びかけ「クラス代表者会議」が10月14日に組織され、「サークル代表者会議」と「クラス代表者会議」の合同機関である「サークル・クラス代表者会議」と実務機関として「学園祭実行委員会」が同年中に組織された。これらの経緯を踏まえ、第一回学園祭実行委員長は筑波大学学園祭の当初の目標として、

1、全学生参加による交流ある学園祭

2、クラブ・サークルの活躍を公表する学術文化の場

3、現在大学の置かれている複雑さに対し、新しい、新しい構築すること

の三点を掲げ、第一回学園祭実施に向けての実務を取り持った。

 実行委員会設立時点においては「クラス代表者会議」は学園祭を実施するための連絡機関としての色合いが強かった。しかし、1974年末、二期生入学を控えて学生宿舎の空き部屋が不足したことにより、一部一期生の退去が強制されたことを発端として起こった「宿舎問題」においてクラス代表者会議は学生側の「4年間希望者全員入寮」要求の運動の中心となり、大学側との折衝、署名活動を行った。

 この当初は学園祭実施のための学生のサークルを基礎とした自主組織だったクラス代表者会議は「宿舎問題」を契機として、大学に対する学生自治組織としての性質を帯びるに至ったのである。これに対して、従来の非政治化方針を継続しえなくなった大学側は1975年3月20日に「クラス制度に対する申し合わせ」と「筑波大学学類(専門学群)連絡会議要項」(旧綱領)を決定し、4月に「75学生綱領」を発表。これまで学生による非公認組織であったクラス代表者会議を公認し、交渉のレベルを2段階に分割し、学生側には全学レベルの「全学類等代表者会議」と従来の学類レベルの「クラス代表者会議」を組織させ、大学側はそれぞれ全学レベルの「厚生補導審議会(教育審議会)」と学類レベルの「学類教員会議」を対応させ、それぞれの間で「懇談会」、「学類クラス連絡会議」を意見交換、折衝の場として設定したのである。また、開学以来のクラスと担当教官による意見交換、折衝の場も並存させ、現在まで継続するクラス・学類・全学の三段階からなる学生組織は完成した。以降、この「学生」と「大学」を対立するものではなく、共同するものであるとする建学の理念に基づく「まったく新しい考え方にたつ学生の自主的組織及びこの学生組織と大学運営責任者との連絡、交流の場」とされる従来の大学の学生自治会とは大いにその性質を異にする学生・大学関係を基礎とする「代表者会議体制」は以降の筑波大学の学生と大学の関係における基本的な枠組みとなった。

 この代表者会議体制成立によって全学類等代表者会議(以下、全代会)はクラス代表者会議(以下、クラ代)の上部組織であるだけでなく、実務機関である学園祭実行委員会の大学側との折衝の役割を担うこととなった。また、代表者会議体制において「サークル代表者会議」は全学・学類・クラスの系統とは別に、1976年に学生サークル自治組織として総称して「三系」と呼ばれる「文化系サークル連合会」「芸術界サークル連合会」「体育会」が正式に発足し、それぞれ団体間に関わる問題や後援組織である紫峰会に関する問題を討議する「課外活動団体会議」と大学側との折衝を行う「課外活動連絡会」による学生・大学関係のもう一つの基礎的枠組みとなり、この体制もまた現在にいたるまで継続している。この「代表者会議体制」における学生・大学関係においては、大学側との折衝が主要な役割である全代会と学生自治組織としての役割が強い三系の二重性が存在し、これらは併存し現在に至っている。

 

3. 第一回筑波大学学園祭「紫桐祭」

 

 一方、「宿舎問題」が表面化するなか、学園祭実行委員会(以下、学実委)は1974年12月10日に大学側から正式な組織として認められた。しかし、翌年75年の「代表者会議体制」発足に伴って、全代会は小規模な実務組織であった学実委に対する監査委員(後の学内行事委員会)を設けることで学実委の全学性を担保し、大学側は学園祭を大学の正式な行事として公認する条件として、

1、筑波大学の建学の方針に沿い、建設的な内容のものとすること

2、単なる遊びや祭り騒ぎに終わらないこと (のちに、単なる娯楽に終わることなく創造的で知性に富んだ学園祭であること、に変更)

3、最終的な企画を決定する前に、大学側と十分な協議をおこなうこと

の「三条件」を掲げ、大学側の「教育的指導」を受け入れることを求めた。

 この開学当初以来の非政治方針をもって、政治性が現れる可能性の高い学園祭実施に対して強硬に対応した大学側に対して、学実委はこれらの「三条件」に抵触すると大学側から企画中止を求められた「文教政策についての五党討論会」「福田信之副学長と生越忠氏による大学問題に関する討論会」「歴史学者和歌森太郎と生物学者江上不二夫氏による講演会」の学実委実施企画(以下、本部企画)の実施を巡って、全代会と共に連日に渡る交渉を行ったが、大学側は学園祭に関する事務を一切受け付けないという強硬方針をとった。そのため、学実委は「学園祭実行」の方針の維持のため、これら3企画を中止・内容変更を行い、これをうけ大学側も学園祭の実施を承認した。この学実委の大学側への妥協は学生の自治管理による学園祭実施に対する要求あるいは妥協した学実委への批判を強め、そのため翌年以降学生・大学ともに強硬化し、1980年を頂点とする学生・大学間の対立の契機となった。

 第一回学園祭は1975年11月1日から3日にかけて開催された。この第一回学園祭のみは例外的に「紫桐祭」(しとうさい)と校章をモチーフとした仮の名称が付けられた。第一回学園祭の予算規模はおよそ100万円(この歳に関して決算書の存在を確認することができない)で、その大部分は学生の分担金の収入に依拠していた。また、当時の企画数は40程度であり、学生の総数も現在の10分の1程度であり、予算規模、企画数などおよそすべての面において、第一回学園祭は現在の学園祭の10分の1程度の規模であったことがわかる。企画の特徴としては、これは70年代80年代に共通する特徴ではあるが、学類主催の学術的企画の比率がサークルなどによる模擬店企画に比して、現在と比べて非常に大きかったことが挙げられる。

 このような紆余曲折の末に開催された「紫桐祭」は「死闘祭」と当て字され、中止に追い込まれた諸企画に対して、学園祭後一分間の黙祷が捧げられた。また、この後、正式な学園祭の名称として筑波山をモチーフとした「雙峰祭」が、1976年以降2016年の第42回学園祭に至るまで採用され、「紫桐祭」の名称はただ一回のみのものとなった。