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隆慶和議成立に見るモンゴルの外交と内政の関係

はじめに

 今回の講義ではモンゴルと明朝の関係を明朝側の視点から見ていった。しかし、そこには モンゴル側からの視点が不足しているように私には感じられた。やはり当然、当時の明蒙関 係をより正確に見るためにはモンゴル側の外交と内政の関係を見て行く必要がある。 そこで、本稿では講義で取り扱った隆慶和議の成立について、モンゴル側の視点から考察 を加えていくこととする。

 

隆慶和議にいたるまでの経緯に対する疑問

 16 世紀前半より、モンゴルの指導者たちは明朝へ求貢、あるいは馬市の開設を要求する ようになった。しかし、明朝側はその要求を容れることができず、モンゴル側からの軍事的 圧力さらされるようになった。

 16 世紀後半のモンゴル側の有力な指導者であったアルタン=ハーンは明朝に三度使節を 派遣して正式な交易を求めたが、明朝はこれを拒絶した。そのため、1550 年(嘉靖 29 年)モ ンゴル軍は数日間北京を包囲し、自らの力を誇示した。(庚戌の変) 明朝はモンゴルへの一時的な対応策として、馬市を開設(嘉靖馬市)したが、明朝側、モン ゴル側双方の問題により 1 年余りで閉鎖された。 馬市が閉鎖された後、20 年にわたりアルタンは明朝の北辺を侵略した。しかし、1570 年にアルタンの息子(明朝側資料では孫)のダイチン=エジェン=タイジ(バ ハンナギ)が明朝側に投降したことをきっかけとして、モンゴル側と明朝側は和議を結び、 明朝はアルタン=ハーンとその一族に官爵を与え、額は制限されてはいたが、交易と朝貢を許可した。

 ここに一つの疑問点がある。モンゴル側は自らのことを大元ウルスの後継と自認してお り(吉田 1998 p142)、かつて支配していた中国に対して形式上でも臣従するようなことを肯んじえたのか。しかも、庚戌の変に示されるように、モンゴル側は明朝に対して軍事的に優 位を保っており、優位な状況にあるなかで、この和睦が結ばれた理由としてバハンナギの投降とその返還のみを挙げるのは不自然であるように感じられる(森川 1999 pp.253-255)。 そこで、この隆慶和議の成立の背景として何があったのか、これについてモンゴル側の同 時代史料であるアルタンの伝記『アルタン=ハーン伝』の訳注を手がかりに考察していく。

 

 

『アルタン=ハーン伝』より見る隆慶和議成立までの経緯

 『アルタン=ハーン伝』によるとバハンナギの投降を受けて、彼を奪還するためにアルタ ンは明朝に侵攻した。それに対して、明朝側はブチネベイという使者を遣わして、称号と賞を条件にモンゴル軍の撤退と和睦を求めた。(吉田 1998 p.136) このような記述は明朝側では当然見られず、明朝側の記録によれば、王崇古は穆宗に対し て「アルタンが以後明朝を侵犯しないことを約束し、報貢と互市の実施をもとめたこと、及 びノヤンダラが楡林・寧夏両衛の明軍の侵攻停止を要請した」(城地 2004 p.259)とあり、モ ンゴル側の記述とは正反対のことが示されている。

 当時のモンゴルの軍事力として『アルタン=ハーン伝』では「四十万モンゴル」(吉田 1998 p138)と称しており、一方の明朝が以前アルタンの北京侵攻を食い止められなかったこと、 明蒙交渉に際して重要な役割を果たした王崇古がモンゴルの脅威を強調していることを考慮すれば、バハンナギ投降からの明蒙交渉の主導権を握っていたのはモンゴル側であると 見る方が自然であろう。 では、なぜアルタンは明朝の和平申し入れを受け入れたのだろうか。それを考察する際に、アルタンが隆慶和議の数年後にダライ=ラマ三世と会見していた ことに注目する。

 1571 年ダライ=ラマとの会見に先立って、アシン=ラマはアルタンと会見し「生ごとに 福徳の資量を積んだことにより、最も尊いハーンとして生まれたのがあなたである」として 称え、アルタンが仏法を守るならばアルタンは菩薩王としてさらに地位を高めるであろう と言った。(吉田 1998 p143) 以上の会見では、アルタンはアシン=ラマから権威を授けられることに、アシン=ラマは アルタンの保護を受けることに成功した。 そして、そのアシン=ラマの手引きによって、アルタンはダライ=ラマと会見した。これ によってアルタンはチベット仏教の保護者としてのさらなる権威を得ることに成功した。

 では、なぜアルタンはアシン=ラマ、ダライ=ラマから権威を授けられる必要があったのだ ろうか。アルタンはオイラトとの勢力圏争いにおいて、青海地方はなんとしても掌握しなくてはならないと考え、そのためにチベット仏教を利用した。また、当時アルタンは老齢であった ため西方に遠征することもできず、現地の部下の統率にも苦しんでおり、チベット仏教の力 を借りることによって、部下への支配を安定させオイラトに備える必要があったのである。 オイラトとは、隆慶和議の 2 年前にアルタンによるオイラトへの遠征が行われるなど、 緊迫した関係が続いていた。以上の状況を踏まえると、私は、このオイラトとの抗争とアルタンの老齢が明蒙関係の急速な改善をもたらしたのではないか、と考えるのである。隆慶和議の 2 年前のオイラトへの遠征から 1578 年のダライ=ラマとの会見にかけ て、アルタンはオイラトとの抗争が続いていたことから、アルタンは中国と和睦することで オイラトとの抗争に集中する必要があったと考えられる。 また、当時のアルタンは老齢であり中国への侵攻は体力的にも厳しいものがあったこと も、急速な関係改善の要因となったとも考えられる。 以上が隆慶和議に見られる急速な明蒙関係改善の理由であると筆者は考える。しかし、和議成立の過程において明朝側資料と『アルタン=ハーン伝』の間には重大な食い違いが見られる。次節では、その理由をモンゴル側の視点から考察する。

 

 

隆慶和議にいたるまでの明蒙交渉

 ここでは『アルタン=ハーン伝』に見られる明蒙交渉について、中国側の記録を合わせて みながら、双方の認識の違いとその理由を明らかにしていく。 先に述べた明朝側の使者ブチネベイがアルタン=ハーンに伝えた内容を『アルタン=ハ ーン伝』では以下のように述べている。

力ある聖ゲゲン=ハーン(アルタン)よ恵みをたれたまえ。この城を囲んで取ることを疾く止められよ。あなたのかわいい子ども(バハンナギ)を引き渡して和睦し、キダド(中 国)とモンゴルは平安に和睦するべきだ。称号・賞を出そう。(吉田 1998 p136)(カッコ 内筆者注)

 このブチネベイの和議の提案を受けて、アルタンは以下のように官人と協議した。

奸計の多いキダド=オルス(中国)をどうして信用できよう。一切の真偽を確かめるため に、清く知恵のある官人たちを使者として送り込めばよいぞ(吉田 1998 p137)(カッコ 内筆者注)

 として、5 人の使者を明に送った。また、その一方で息子センゲをして明の北辺を攻撃させた。それに対してバヤンダラを使者として送り明朝はさらに低姿勢に和睦を乞うた。これに 対して、センゲはバハンナギの無事をモンゴル側の官人に確認させにいったところ、バハンナギは明朝から厚遇を受けており、「平安に大明皇帝の子どものように暮らしている」(吉田 1998 p137)ということが分かったので、センゲは侵略を中断した。 一方、アルタンが送った使者は以下のように明朝に伝えた。

(前略)(あなたがたが)尊んでアルタン=セチェン=ハーンに申し上げた言葉によって、 あなたがたの元にわれらを遣わした。決して八十万キダドは多いと傲慢に考えるな。(中 略)大ハーンのお言葉の通りにその子ども(バハンナギ)を引き出せば安泰だぞ。四十万 モンゴルが続々と出発して迫り、あなた方の四角の諸城砦(北京)を打ち壊し、あなた方 の政道を奪って昔の通りにするだろう。それゆえダイチン=エジェイ(バハンナギ)をだ せ。泰平の大政を和せしめよう。(吉田 1998 p138)(カッコ内は筆者注)

 以上の上奏をもって、明朝はバハンナギの返還と称号と賞を約束し、使者をアルタンの元に 帰らせた。その報告を受けたアルタンはそれを受け入れたので、バハンナギはアルタンの元 に送還された。そして、明朝とモンゴルはジューレ=ハールガという土地で和議を結んだ。 しかし、その時のアルタンの表文(和田 1959 p765)には、アルタンが明朝皇帝に対して全面 的な服属を誓い、貧しいモンゴルに対して憐れみを乞うている記載があり、明らかにモンゴ ル側と明朝側の認識の違いがみてとれる。 この認識の差について、表文が漢文にて書かれていることに注目する。和田清は「恐らく 蒙古の貢表には漢人の手が加はつてゐたためであらう」と述べており、モンゴル側の漢人に よってアルタンの言葉が翻訳された時にこのような改変が発生したと考えることができる。 以上の検討より、明蒙交渉の実体はモンゴル側、明朝側双方の記録に齟齬がある。そして、 それは明朝側の体面の問題、モンゴル側の表文が改変されたことによる問題であることが わかった。

 

まとめ

 本稿のまとめとして、隆慶和議成立当時におけるモンゴルの内政と外交の関係について 述べる。 アルタンは隆慶和議成立当時既に老齢といえる年齢であり、また青海地方などをめぐる オイラトとの抗争が続いており、国力的に中国と戦火を交えることは得策ではないと判断 したことが明蒙関係を改善する内政的要因となった。 また、外交場面において『アルタン=ハーン伝』ではアルタンは大元ウルスの後裔として の態度を以って明朝と対等の立場で交渉しているが、明朝側の記録ではアルタンが明朝に 服従をもとめているかのような記述がなされている。これは、明朝側への表文を漢文に改め る際にモンゴル側の漢人によって改変されたことが考えられる。同様の現象が朝鮮出兵後 の日本と明朝の交渉によって起きていたことからも、十分その可能性は高いと筆者は考え る。 隆慶和議成立の理由にはモンゴル側の以上で検討したような理由があることが分かった。

 

今後の課題

明朝側の史料の検討が不十分であり、今回取り上げたアルタンの使者の上奏に対応する 漢文史料を明実録から発見することができなかった。また、モンゴルとオイラトの関係につ いての考察も不十分であると感じた。 そのため、明蒙交渉の実態の更なる考察とモンゴル・オイラト関係についてさらに調べて いくことを今後の課題とする。

 

 

参考文献

吉田順一,賀希格陶克陶,柳澤明,石濱裕美子,井上治,永井匠,岡洋樹 訳注 『「アルタン=ハー ン伝」訳注』風間書房 1998 年

和田清 『東亜史研究(蒙古編)』東洋文庫 1959 年

城地孝 「隆慶和議の政治過程―明代後期の内閣専権の背景―」『東洋学報』第八十六巻二号 pp.274-278 2004 年

松丸道雄,斯波義信,浜下武志 編 『中国史〈4〉明~清(世界歴史体系)』

『荘子』をよむ ――荘子の実践論――

 なぜ、『荘子』は存在するのだろうか。『荘子』がなぜ、書物として、「ことば」として綴られているのだろうか。荘子を一読して、この点について私は疑問を抱いた。

 もし、かりそめに荘周が蝶であり人であることが賽の目のように常に同様に確からしく変わりゆくものであると捉えたならば、なぜ荘周は『荘子』を記す必要があっただろうか。茫漠たる道に溶けたまったくの酔いどれ眼で「汝がために試みに妄言」したのだろうか、それとも綿中蔵針、その突拍子もない言葉のうちには秘めたる意図があったのだろうか。

 私は、荘周は荘周であり蝶ではないと彼は確信している点に彼が『荘子』を記した根拠がある、と考える。確固とした我とそれ以外の彼があるからことを知っているからこそ、彼は『荘子』を記したのである。我と彼が同一であり、まざりあい、くっつきあい、「道」の上に一つであるとするならば、何かを主張することはまったくの無意味である。何かを主張してもそれは既に一に帰しているのであり、何をなしたことにもならない。そう理解する者が果たして荘子三十三篇を記すだろうか。そこには能動的に何かを主張する理由があるはずである。私はその理由が、荘周が我と彼の区別が確かに存在し、この世界に是非は存在する、という前提をおいている、という点にあると考える。そして、その前提があればこそ彼の論は記される意味を持つのである。私は荘子の教えを、是非や彼我の区別がある世界において、是非を越え坐忘するといった形而上の世界に思弁や突拍子もない寓話を通じて到達し、そしてまた是非のある形而下の世界に立ち返る、形而上の体得を踏まえた形而下における実践の教えである、と捉えるのである。「人の中にいて人を忘れる」というのは形而上を踏まえた形而下の教えとして捉えられる荘子の思想を端的に表した表現ではなかろうか。

 では、この「区別」というものに対して、荘子はどのように論じたのだろうか。まずは「区別」についての荘子の記述を斉物論篇を基にして見ていく。

 まず、「区別」はなぜ生まれるのか。区別とは単なる物と物、つまり「これ」と「あれ」というのもではなく、「主観」「客観」ととらえる。(当時の術語において「彼」は「客観」を「是」は主観を表す(楢崎2004))この客観は主観がなければ成り立たない、つまり主観を経由しなくては外物を認識することはできない。一方で、主観も客観がなければ成り立たない、つまり、主観的認識は外物に依存している。これが、「彼は是より出づ、是も亦た彼に因る」いうことである。つまり、主観的な「我」の存在があることが区別の根源であるのであるとするのである。しかし、このあと荘子は「雖然」と逆説的に「方死方生」と述べ「主観」と「客観」の内、ある認識が主観であるならば、その認識は客観ではなく、ある認識が客観であるならば、その認識は主観ではないとする。しかし、この節の冒頭に「物無非彼、物無非是」であると言明しており、そうであるならば、物=彼、物=是である、これはすなわち彼=是であり、矛盾である。というのも荘子は「彼亦一是非。此(この字は是と解釈する(楢崎2004))亦一是非」と言及しており、この「物無非彼、物無非是」が可とされるならば、矛盾律が崩れ、是でありながら非であり、非でありながら是である、という問題が発生する。これを可とするのは恵子の「今日越に出発し、昨日到着した」ということと同じことである。この矛盾に対して荘子はどのように解決を施したのか。彼はそこに道枢の比喩を持ち出した。つまり、道という場における扉の回転軸(枢)を中心に等距離に「主観」と「客観」を置くならば、「主観」と「客観」が出会って矛盾することなく、「主観」と「客観」がともになくなる、ということもまたない。この立場に立つことを「其の環中を得」るあるいは「明を以てする」といい、その立場に立てば事物Aに対して是という判断を下してもまた、同時に非という判断を下すことが可能であり、是非の判断は矛盾律から解放され無限に至る。(是亦一無窮。非亦一無窮。)

 あるいは区別というものに対して、もっと簡単に以下のようにとらえることができるのでないか。

 すべての問題は基準となる確からしい自己と他者、あるいは主客に分別されうる部分の間から生ずる。「主観」と「客観」は互いに反しながら依存関係にあり、「このウマはまたあのウマ、あのウマはまたこのウマであって、万物はついにこのウマ一つに尽きるとも言える」(原1972)というように、およそ世界は彼我の主観・客観の関係によって成立している。故に一つの立場に固着することは結局はそれに対立する立場につくことと同じなのである。儒家が仁に固執し、墨家がそれに反対して兼愛を掲げるが、それは反しあいながら依存関係にあるという点で、どちらかが優れているということを判断することができない。自らが我ならぬものを彼として客観化してものを見る時、このような問題が発生する。

 区別こそがすべての問題の根本であり、区別されたものに固執しては区別するものと相互依存関係となってしまい、区別したものに区別されたものが働きかけようとしても、あたかも影と影の主のようなもので、なにも起きない。ここに区別から解き放たれ、区別を離れる必要性が生まれてくる。

 では、区別に固執せずに区別から離れるためにはどうすればよいのか、荘子は「およそ相反すること・ちがうものみなが、ひとしく道のなかで――道に支えられてこそ、それぞれそのようでありうるのだ。(中略)およそものごとのできあがることもこわれることも、ひとつの過程で、ひとしく道のなかで――支えられてある」(原1972)ということを自覚し、いつどこでも普遍的に当てはまる庸(はたらき)に任せることが区別の上にたって区別から離れるということである。ここでいう庸に任せるとは道枢を環中に置く、ということである。つまり、区別差別がすべて道に支えられているということを自覚すれば「彼と是が対をなす概念でなくなるとき、それを道枢という。枢が環の中心にあれば、無窮に応じる。是もまた一無窮であり、非もまた一無窮である」(中島2009)という立場に立つことができる。 あるいはさらに具体的に「彼(客観)と是(主観)とがその相手を得ないこと、これを道の扉の回転軸(を中心として彼と是が対峙しあっていること)に喩えることができる。この回転軸がはじめて、円環の中心に身を置いて、(彼と是との二項対立から自由になり、状況に)無限に対応してゆくならば、是とする判断を無限に下し、非とする判断を無限に下すことができる。(そうなれば、「是」と「非」との対立は実質超えられたことになる。)」(楢崎2004)      

 そして、庸に任せることができた聖人は以下のような境地に至る。

 

「是も非もともにあえて、天の立場に立って(おのずからなる釣り合いの内に)、おちつく。これを「両つながら行く」(ひととわれと、それぞれそのところを、うる――それぞれの主張を、それぞれ捨てないそのままで、それぞれにこだわらないですませる、という境地)という」(原1972)

 

 つまり、聖人もまた「主観」に因ったまま、明の働きを以て、しかしながら何にも依拠せずに物を判断する、ということはこういうことである。

 荘子はこのように「区別」を越えることについて論じている。区別を消去することなく、むしろ区別を並び立たせて区別の上に立つ、ということを荘子は主張するのである。そして、ここで最後に強調することは、理想とする聖人もまた「主観」に立脚している、ということである。

 では、ここで最初に挙げた「胡蝶の夢」の寓話に立ち返る。

 ここにおいて最後に「此之謂物化」と荘子は言っているが、この物化とはどのようなものであるのだろうか。これについては中島(2009)と郭象に基づいた解釈を授業では扱ったが、これに関して先ほどの斉物論と様々な物化の解釈を踏まえて、自分の意見を述べたい。

 まずは、中島(2009)が従来の説とする森樹三郎と福永光司の解釈を見ていく。

 森(1968)は「「物の変化」というのは、一つの物が他の物に変わることであり、そこには一と他との区別がある。しかし、それは常識の立場のことであり、すべてをひとしいとみる立場から見れば、自分と他者の区別がないのであるから、胡蝶はそのまま荘周である」とする。

 福永(1978)は「実在の世界では、夢もまた現実であり、現実もまた夢であろう。(中略)一切存在が常識的な分別のしがらみを突き抜けて、自由自在に変化しあう世界、いわゆる物化の世界こそ実在の真相なのである。」という。

 また、ほかの類似したいくつかの解釈も挙げる。

 岸陽子(1980)は莊周と胡蝶の区別は現在の形に過ぎない、として、その区別は事物の極まりない変化の中における一様相にすぎない、と中島の言う旧説に近い見解を述べる。

 阿部吉雄(1969)は単純に物化を生死と捉え、生死の間にはこの寓話のように大きな区別はない、と禅における遷化に引き寄せて解釈する。

 次に中島(2009)の解釈を見ていく。

中島(2009)は、「一つの区別された世界に二つ(あるいは複数)の立場があり、それらが交換しあう様子を高みから眺めて、無差別だということではない。そうではなく、ここで構想されているのは、一方で荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容する事態」を物化と捉える。

 さらに郭象と中島(2009)に近い解釈を挙げる。

 郭象本人は、万物は天に成るがそれぞれが勝手に変化していくので、運命などはなく胡蝶であるときは胡蝶であることを楽しみ、莊周であるとき莊周であることを楽しめば良いのだ、と主張する。

 赤塚(1974)は郭象の説をおおむね同意しつつも、刹那的快楽主義として行き過ぎとし、胡蝶の夢を現実の射影と捉え、苦しい現実と自由な夢の世界の対比によって、区別を直視し、区別からの解放と超越を探るところにあると、この寓話の意味を解釈する。

 赤塚(1974)はこの寓話における「物化」の意味を混沌無差別におけるゆらぎの謂と取るのではなく、「あまねく生きる物の真の生意を自分の内に感得して、不言の静かさの中に自分に満足し、他人や他物とも自然に調和して、安らかでしかも充実した生を送るのが、「物の化」である」と捉えている。つまり、「物化」を変化ととらえるのではなく、同一化ととらえるのである。

 以上にいくつかの解釈を挙げたが、私は「主観」に立って区別を超越する聖人を理想とする荘子がどのような物化像を構想したのか、ということを踏まえて考えると、郭象や赤塚(1974)、あるいは中島(2009)などの説がそれに沿っているというように感じられる。これらの説を踏まえて物化を考えるならば、物化とは性そのものが転変すること、区別の体系が変容すること、ある「主観」がひとりでに変化して新たに区別を超え区別を作ること、とも、不変の性をもった確固たる自分があるということを前提とし性に満足し自然に調和し同一化する、と捉えることもできる。確かに中島や郭象の主張するように、性は固有であり「荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容する事態」(中島2009)を物化とする立場は物化を単純に見るならば正しいと考えられる。しかし、この寓話において物化というものを見る場合、物化を単純にとらえるのは、赤塚の解釈を踏まえると含みが少ないように感じられ、また刹那的快楽主義に陥る可能性もまたある。赤塚があえて従来の「物化」と分けて「物の化」と表した理由は従来の解釈との区別化にあるとする。私もまた、物化を一歩進めて、区別の上に立って区別を超越し、その上で自らの性に満足し調和し従う、というように捉えることがこの寓話の意味をもっとも明らかにするものであると考える。

 さて、このように物化を解釈するならば、また、至楽篇の荘子と髑髏との対話もまた「死への賛美」ととらえるよりも、「生と死の対比において、生きる人は生きることに全うし、死せる人は死せることに全うし、それぞれ各々楽しむ」というように解釈するほうが良いと思われる。あるいは死した荘子の妻への荘子の態度もまた、死した妻は死後の世界を全うするまでで、荘子は生きる世界を全うしているのである、ととらえられないだろうか。

 矛盾する判断を並び立てる明知を発揮し、区別の世界にありながら区別を超越した無制限の判断を行う立場に立ち、そして再び現実の場に立ち返り、そして「物の化」を尽くして自らの性に満足し、周囲に調和する、これが、私が捉えた形而上の世界を踏まえた形而下の実践論である、ということである。

 ここまで、荘子の哲学を絶対無差別の道の世界に遊ぶものである、と捉えるのではなく、形而上の世界に立ち返り、そこから形而下の実践を目指すものである、と捉える見方を提示してきた。このような実践的な哲学としての荘子の思想について、「老荘思想」と従来示されてきた老子荘子の連続という見方ではなく、白川静らによる孔子荘子に連続が見られる、という説について考察する。

 白川(1972)は孔子の時代と荘子あるいは孟子墨子の時代の思想の状況は大きく変化した、と主張する。孔子の時代には先王の理想、つまり伝統が生きていたが、都市国家の領域国歌への発展という歴史的な状況変化の前に周公の伝統は息絶え、荘子の時代には教条的道徳あるいは法律といったノモス的な社会秩序へと変容していった。孟子墨子も王道天下あるいは天志といったノモス的な秩序体系を抗争したが、その内容は必ずしも現実の社会秩序に迎合しない反ノモス的な要素を持っていた。真にこれに対応した理論を構築しえたのは、後王思想を成立させた荀子であり、それをさらに敷衍した法家思想家たちである。

 このノモス的な世界は孔子に立ち戻った時、否定されるものであった。仁といった徳は個人の内において体現せざるを得ず、実践者として再現されなくてはならなかった。このあり方は四端の心として、仁義を普遍的、共通的なものとして、ノモス的な社会秩序に適応させようとした孟子の立場とは大きく異なる。

 後に宋学に発展した孟子の思想は曽子・子思の道統にあり、その思想は白川(1972)によれば孔子の正統にはない、とされる。孔子のあり方はむしろ顔回に受け継がれ、荘子はその顔回の思想の後継者である。『淮南子』に見える荘子が学んだ儒教顔子の系統に属するそれではなかったのではなかろうか。

 荘子は徹底的な反ノモス主義者であった、ということは、大宗師篇の孔子顔回の対話に現れる。「仁義を忘れたり」の「仁義」とはノモス化された儒教であり、最後に至った「坐忘」の境地とはノモスを去った個人体験の元に還元された、個人の主体性の回復の境地である。

 ノモス的な社会秩序は必ず区別を内包している。これは荘子の超越せんとするところである。彼はノモス的社会秩序において形而上の世界に立ち返り、形而下の実践の方法を探った。白川(1972)も同様に「荘周は、新しいイデアの探究者であった。そしてノモス的な世界にあって、イデアを回復した」という。孔子はただ「仁」として体認することを求めたが、荘子は「道」として実体化して名を与えている。

 もちろん、荘子の中に老子的な部分があり、老荘思想として連続して語られることもまた正しいと私は考える。白川(1972)の時代においては、老子荘子に先立つものではない、と考えられており、老子荘子の発展であると捉えられていたが、帛書の発見からその説は正しくない、ということが分かった。つまり、荘子という人物に先立って孔子老子が存在しており、それらの思想をそれぞれ受け継いで反ノモス的な哲学を構築したのが荘子である、と見ることができるのではないか。

 これはあくまで私の根拠の薄い想像であるが、荘周死後の弟子たちは荘周の内なる老子的な部分を敷衍する一派、孔子的(顔回的)な部分を敷衍する一派などに分かれたのであないだろうか。『荘子』外篇雑篇にみられる老子的な部分や孔子的な部分がムラになって現れるのもこのような理由によるのではないか。しかし後世において『荘子』が老子の思想、あるいは仏教と結び付けられてとらえられるようになると、儒家的側面を称揚する考えは異端となっていった。ゆえに、儒教的側面を見出し実践した郭象は変節者あるいは自らの政治思想のために老荘思想を利用した政治家、と評価されたのである。

 そこで最後に郭象という人物についての評伝と後世の評価について概観して、上に述べた荘子の解釈者としての郭象を踏まえて、郭象という人物の旧来の評価に対して他の見方をあげる。

 晋書は、彼の人柄は弁舌には長けているが軽薄である、とする。さらに、東海王司馬越に取り立てられ高官となり権勢を内外に得た後、旧説(老荘思想)を捨ててしまった、とあり、また彼の荘子注も世に行われていなかった向秀の注釈に多少の加削を行ったに過ぎないと批判されている。

 この向秀の注釈を郭象が改変し自らのものとした、ということは『世説新語』にも見られ、当時一般に流布した言説であるということが伺える。

 しかし、この向秀の注釈は現代に伝わっておらず、この説を確かめる手段もない。

 この郭象が向秀の注を剽窃したという言説には異説もあり、『世説新語』の注に引用される『向秀本伝』では向秀は注釈を記さなかった、とあり、『文士伝』にはただ郭象が荘子の注釈を作ったとある。

 以上の記録からも郭象という人物が高い評価をうけていたとは言えない、と判断することができる。この低い評価の要因として、司馬越に抜擢された郭象が旧説を捨て去ってしまい、評判を落とした、という『晋書』庾峻伝の記述にあると考えられる。つまり、老荘思想を捨て去り現世の出世や政治に汲々とする儒家のような行動をとった郭象を当時の老荘思想家が批判したために、このような低い評価が与えられたということである。

 しかし、郭象の思想は旧来の老荘思想家とは一線を画するところにあったということは先に明らかにしたところである。郭象は自ずから然ることを徹底することが性であり、人間の性とは仁義である、と主張した。この世界において自ずから然る性は必然である。郭象は司馬越に取り立てられる前の郭象の性は、取り立てられた後にはもはや存在しない変容してしまった、と考えたのではないか。彼は旧説を捨てて権勢を求めたのではない。変容した性に従ったのではないか。黄錦鋐(1990)は郭象注を自らの政治論の依り代であり、荘子そのものは尽くされてはいない、と評価しているが、私はそれは荘子老子と結びつけようとする立場、あるいは仏教と結びつける立場からの見方であると考える。先に述べた孔子荘子の連続性を見たとき、郭象の行動はまさに彼が見出した荘子の思想そのものの実践のように私には映るのである。孔子儒教の創始者たるゆえんを白川(1972)は「述べて作らず」という祖述者として無主体的な主体の自覚の甘んじ、原点に立ち返りそこから新しい可能性を生み出す、という思想の運動の定式を生み出した、という点にある、とする。この思想の定式はなるほど春秋戦国時代において老子が『老子道徳経』を、墨子は『墨子』の一部を、孫子は『孫子』を自らの言葉として作ったことを踏まえると、儒家独自のものであるように見受けられる。もちろん、直接は儒家ではない荘子もまた「作る」人であったが、彼の内にあった儒教的側面を敷衍した郭象はこの運動定式の中にある。

 このように郭象注に示される思想と彼の伝記から、荘子儒家的部分を敷衍する実践者としての郭象像見出すことができるのではないだろうか。形而上に立ち返り形而下の実践との合一を目指す荘子をまことによく実践した人物としての郭象像を私は提示できるのではないか、と考える。

 

参考論文・文献

論文

黄錦鋐「郭象の『荘子注』について」『中国哲学論集』16 pp.1-7 1990-10-10 九州大学中国哲学研究会

楢崎 洋一郎「『荘子』斉物論篇における「彼」「是」の問題について」哲學年報 63 pp.133-153 2004-03-05 九州大学

橋本敬司「荘子胡蝶の夢――物化の構造と意味――」『哲学』51 pp.61-72 1999  広島大学

 

文献

目加田誠『新釈漢文大系 第76巻 世説新語(上)』1975 明治書院

原富男『現代語訳 荘子』1972 春秋社

白川静孔子伝』 1972 中央公論社

阿部吉雄『荘子』1969 明徳出版社

岸陽子『中国の思想12 荘子』 1980 徳間書店

赤塚忠『全釈漢文大系 第十六巻 荘子上』1974 集英社

中島隆博書物誕生――新しい古典入門 『荘子』――鶏となって時を告げよ』2009 岩波書店

福永光司『『荘子』内篇』 1978 朝日新聞社

森三樹三郎『荘子』1968 中央公論社

 

webサイト

房玄齡「晋書卷五十 列傳第二十 曹志 庾峻(子瑉敳)郭象 庾純(子旉)秦秀」ウィキソースhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B%E6%9B%B8#.E5.88.97.E4.BC.9D(参照2016-02-15).

アクス鋳造の「乾隆通宝」にみる中華帝国としての乾隆期清朝

 杉山(2008)は中央ユーラシア史の概念が提唱される以前から「ユーラシア」という語を学問的分析の対象として取り上げた地政学者のうちマッキンダーが過去のモンゴル帝国や現代のロシア帝国といった中央ユーラシアの陸上勢力の危険性を指摘していたことを踏まえ、近代にも大きな影響を及ぼした前近代における草原の遊牧民とその周辺の定住民の間で巻き起こるダイナミズムに注目してモンゴルを中心とした遊牧民の歴史を叙述した。このような中央ユーラシア史の視点においては、清朝をダイチン・グルンとして遊牧国家の延長線上において捉える傾向が強い。しかしながら、ハーンであり皇帝でもある聖主によって支配されたダイチン・グルンは中華王朝ではなく大元ウルスの後継国家であると主張する中央ユーラシア史の視点ではむしろ中華王朝としての清朝という側面を無視し、入関から100年たった乾隆期をそれ以前の康熙期と何の批判もなしに同一に語っているという側面がある。

 田村(1975)によれば康熙帝儒学を深く学んでいたということ、雍正帝は『大義覚迷録』において儒教の理論を援用して中央ユーラシア型帝国の統治理念として掲げ、乾隆帝が中国文化を愛好していたということは紛れもない事実であり、新疆に対する統治策を政治構造の面から見るだけでは清朝中華帝国ではない中央ユーラシア型の国家であると批判することはできない、と私は考える。また、庄(2016)によれば入関以前の後金国時代においても盛んな漢籍の翻訳がなされ、ホンタイジといった指導者さえも漢籍の教養を背景とした発言を行っている。また、康熙帝の数学教師も務めた宣教師ブーヴェは漢籍満洲語翻訳活動について、以下のように述べている。

 

(康煕帝の宮殿には)漢文の名著を韃靼語に絶えず飜訳している練達の士が控えております。その結果、韃靼語がきわめて豊富になります。特に韃靼人に対しては漢文の名籍に対する理解がたやすくなります。彼らの多数は殆ど漢文に熟達しておりませんから、漢文の名著が韃靼語に飜訳されてなければ、碌に読むことも出来ないでありましょう。この利益は彼らにとっても、宣教師にとっても共通なものであります。 (後藤末雄 1970 カッコ内は報告者)

 

このような盛んな翻訳活動は乾隆期以降次第に形骸化していくが、それは清朝の中国化によるものであり、このような状況は既に雍正期から起こっているのである。このようなことを踏まえると、18世紀後半という清朝中期において清朝がはたして本節が述べるような純粋な「中央ユーラシア型」国家であったのか、この点について疑問を持たざるを得ない。

さらに直接的な新疆統治における清朝の中国化の影響の表れとしては、新疆成立直後から発行されたアクス鋳造の「乾隆通宝」があげられる。アクス銭と呼ばれる、この「乾隆通宝」はジューンガル領内において発行されていたプル銭と呼ばれる貨幣に替えて、主にカシュガリアでの流通を目指したもので、表面に「乾隆通宝」の4文字が、裏面にはウイグル文字と満洲文字で鋳造所に相当する文字が鋳込まれている。ここで、注目することは、カシュガリアという「非漢人」地域で「乾隆通宝」という文字が鋳込まれた貨幣が用いられている、ということである。通常の清朝が発行する貨幣は表面に漢字が裏面に満洲文字が鋳込まれているが、両面満洲文字が鋳込まれたものもあり、すべての清朝が発行した貨幣に漢字があるわけではない。そう考えると、アクス銭というものの奇妙な性格が明らかになる。これは、本節で述べられていた中央ユーラシア国家としての「大清国」という文脈においては理解が難しいものである。むしろ、本節で批判されていた「中華王朝としての清朝」という文脈においてこそ理解が成り立つものであろう。

以上、簡潔であるが中央ユーラシア史という立場で清朝を見たとき「中央ユーラシア型国家」という連続面と「中華王朝」という断続面の両方を見つめなければならない(むろん逆もまた然り)、という考えをアクス銭を通じて検討した。

 

○参考文献

田村実造 編さん(1975)『世界の歴史〈9〉最後の東洋的社会』中央公論社

庄声(2016)『帝国を創った言語政策 ダイチン・グルン初期の言語生活と文化』京都大学出版会

イリ地方に生きたキルギス人たちの叙事詩「マナス」に描かれる中央アジア遊牧民から見た中央ユーラシア

①「マナス」に見る被支配側の視点

多くの場合政治史的に述べられる17世紀以降の東トルキスタン史に対して、視点をまず支配側から「被支配側」に移し9世紀にウイグルを滅ぼした後にキルギス可汗国を建国して以来、東トルキスタンを支配したカラ=キタイやモンゴル、カルマク(オイラトのことを指す。またカルムイクともいう)、ジューンガル、大清グルンに支配されたキルギス人の口承によって伝えられた叙事詩「マナス」に現れる彼らの歴史認識について見ていきたい。

「マナス」は八部約二十万行からなる長大な英雄叙事詩である。叙事詩の名称にもなっている「マナス」は叙事詩においてキルギス民族を統合したキルギスのハーンであり、この叙事詩全体ではマナス以下チクテイに至るまで八代の事績が記されている。叙事詩の構成は八部それぞれが以下の通りマナスから始まる八代と対応している。

 

第一部「マナス」

第二部「セメテイ」

第三部「セイテック」

第四部「カイニニム」

第五部「セイイト」

第六部「アスルバチャとベクバチャ」

第七部「ソムビリョク」

第八部「チクテイ」

「マナス」が生まれた時期に関しては諸説あり、それらの説が主張する発生時期は9世紀から17世紀と幅が広い。しかし、口承伝統であるという性質上、その内容は常に更新され続けてきたことは マナスがナポレオンと戦ったという即興部分が付加されたこともあった(奥村 1995)ことからも想像にかたくない。つまり、「マナス」は被支配者であったキルギス人によるイリ川地域の歴史を反映した叙事詩であり、ここに記されている出来事と本節で述べられたイリ川地域の歴史と対応させて見れば、マクロなレベルである中央ユーラシア史の場に生きる人々のミクロな実相を比較することで、本節で示されていることを理解する助けになると考えた。

 

キルギスの歴史

 

以下簡潔にキルギスの歴史について中国の正史の記述を中心として見ていく。

中国文献における初出は「史記」であり、キルギス人は当時の中央ユーラシアの覇権を握っていた匈奴に服属していたことが記されている。「漢書」にも同様の記述があるが、両者ともに具体的な内容は伴っていない。

ついで三国志の底本の一つである魏略はキルギスについて以下のように述べている。

 

 堅昆國在康居西北、勝兵三萬人、隨畜牧、亦多貂、有好馬 (「魏略」西戎伝)

 キルギス国は康居の西北にあって、動員できる兵数は三万、家畜を従え、彼らは貂の皮を多く算出し、良馬がいる

 

「周書」には突厥と並んで契骨(キルギス)の起源に触れている部分がある。「北史」にも同様の記述があるが、成立年代を見れば「周書」を引用したものであろう。また、当時のキルギス突厥あるいは鉄勒に従属していたとされる(高橋 2001)

 

或云突厥之先出於索國、在匈奴之北。其部落大人曰阿謗步、兄弟十七人。其一曰伊質泥師都、狼所生也。謗步等性竝愚癡、國遂被滅。泥師都旣別感異氣、能徵召風雨。娶二妻、云是夏神、冬神之女也。一孕而生四男。其一變為白鴻、其一國于阿輔水、劔水之間,號為契骨、其一國於處折水、其一居踐斯處折施山、卽其大兒也。山上仍有阿謗步種類、竝多寒露。大兒為出火溫養之、咸得全濟。遂共奉大兒為主、號為突厥。(後略) (「周書」 異域伝)

ある人はいう。突厥の先祖は匈奴の北にある索国から出ている。その部落の大人は阿謗步で、彼には兄弟が17人いた。その1人は伊質泥師都といい、オオカミから生まれた。阿謗步たちの性格は総じて愚痴であったので、彼らの国はついに滅ぼされた。伊質泥師都は異様な気を感じることができるだけではなく、風雨を操ることができた。彼は夏神、冬神の娘を娶った。そのうち1人は4人の男を生んだ。その1人は白いおおとりに変じた。その1人は阿輔水と劔水の間に国をつくりキルギス国と号した。その1人は處折水に国をつくった。その1人は踐斯處折施山にいた。それがすなわち大兒である。山上には阿謗步の遺民がいて、総じて寒さと露にあった。大兒は彼らのために火の温もりをもってこれを養生させ、すべて救うことができた。そのため、ついに彼らは大兒を共に君主として奉戴し、突厥を号した。

 

キルギスウイグルを滅ぼして一時、覇権を確立した9世紀の事績を記した「新唐書」においてはキルギス人の事績について、伝は立てられていないとはいえ、まとまった記述がある。これによるとキルギス人は牧畜なども行う農耕民であるとされる。

稼有禾、粟、大小麥、青稞、步硙以為面糜。穄以三月種、九月獲、以飯、以釀酒、而無果蔬。(「新唐書」回鶻下)

(キルギス人は)イネや粟、大小の麦、ハダカムギ、步硙をひいた粉とする。三月に種をまき、九月に収穫して、飯や酒を醸すのに用いる。果物や野菜は作らない。

 

また、キルギス人の風貌については以下のように、白人の特徴を示していて、現在のキルギス人との違いが強く示唆されている。

 

人皆長大、赤發、皙面、綠瞳、以黑髮為不祥(「新唐書」回鶻下)

人の身長は高く、赤い髪、白い顔、緑の瞳で、黒い髪はめったにみない。

 

 キルギス人はエニセイ川上流で牧畜・農耕をしていたが、ウイグルが衰えると可汗を名乗った阿熱という指導者の元、吐蕃との戦いで国力を弱らせていたウイグルを打ち破った。阿熱は唐にウイグルの残党を討つことを願い出て、そこで武宗は右散騎常侍李拭をキルギスに派遣し阿熱を宗英雄武誠明可汗に冊封しようとしたが、武宗が冊封をする前に崩じたので、その後を継いだ宣宗が847年に鴻臚卿李業を代わりに遣わして英武誠明可汗を冊封した。(「新唐書」回鶻下)

 

 こののち、キルギス可汗国は一時期強勢を誇ったが、10世紀初頭に契丹族に征服され、属国となった。1124年に金に遼が滅ぼされるとヤルート・タイシはキルギスに対して徹底的な略奪を加え、さらに西進してカラ・キタイを建国してからもたびたびキルギスへ出兵した。

 モンゴルが強勢になるとキルギス人はモンゴルに従い、モンゴルの勢力が衰えるとオイラトと親密な関係を結んだ。(高橋 2001) ジューンガルがジュンガリアの盟主となると、ジューンガルはたびたびキルギスの地を攻撃し、支配下に入ったキルギス人はジューンガル軍のブルート人と呼ばれ砲兵として従軍した。(宮脇 1995) 1688年に南モンゴルに移った外ハルハを追って南下したガルダン率いるジューンガル軍は北京北方のウラーン・ブトンにて戦ったが、ジューンガル軍の装備する大砲の打ち合いによって決着がつかなかった。(今谷2000) 直接キルギス人がウラーン・ブトンの戦いに参加していたことを示す史料は存在しないが、戦いに砲兵が参加していたことをふまえると、キルギス人がこの戦いに参加していた公算は大きい。

 ジューンガルが滅ぼされるとキルギス人は清朝あるいはコーカンド・ハン国の支配下にはいり、19世紀にはコーカンド・ハン国がロシア帝国に併合され、キルギスもまたロシアの版図に入った。そして、ロシア革命を経て自治州となり、1936年にキルギスソビエト社会主義共和国となり、1991年に現在のキルギスタン共和国が成立した(93年にキルギス共和国へ改称)。

 

③「マナス」から見た中央ユーラシア

 

 キルギス人の歴史を称して高橋(2001)は「被支配、被圧迫の歴史のすさまじさに驚かされえる」とし、しかしながら一度は栄光を経験した歴史の中で「マナス」は醸成されたのだとしている。このマナスには「キルギス人たちの生活様式、習俗、道徳、地理、宗教観、医学知識、そして彼らの国際関係がこの巨大な叙事詩の中に反映して」(奥村 1995)おり、先述した中央ユーラシアの要衝に生き抜いたキルギス人の歴史とこの「マナス」を合わせてみていくことにはマクロの視点ではわからない具体的なミクロなレベルの中央ユーラシア史を解き明かす一端としての意味がある。

 「マナス」は「マナスチ」と呼ばれる語り手によって、基本的には文字に記録されることのなく口承される叙事詩である。アディル・ジュマトゥルディ(2010)によれば、「マナス」のテキストは記録されているだけでも150種に上り、その歌う状況、あるいは聴衆によっても話の詳細は一回一回異なるが、しかしながら、その基本的構造はトゥルク語系民族による叙事詩と同一の以下のような構造をもっている。

 英雄の特異な誕生――苦難の幼年時代――若くして功をたてる――妻を娶って一家をなす――外地への遠征――地下への侵入(あるいは死んで復活する)――災いにあう故郷――敵に殺さる(あるいは簒奪者が懲らしめられる)――英雄の凱旋(犠牲)

 このような構造の同一性と並んで、伝承に由来する「類型化」された語句をマナスチが紡ぐことによって「マナス」という叙事詩は維持されており、一方で「語り」を行うたびに「マナス」は再創作され、その時々と聴衆に見合った要素が入ることによって「マナス」は完成する。

 このような「開放的で開かれた体系」であるから、「マナス」には時たまに奇妙ともとれる要素が入ることがある。先述のナポレオンとマナスの戦いもその1つである。しかし、それこそが「マナス」を「キルギス人のエンサイクロペディア」(奥村 1995)たらしめた理由であろう。

 この「マナス」そのものの内容は事実とそうでないものが混ざっている、ということを「マナス」冒頭で「半ば真、半ば偽り」(西脇 2011)とすでに宣言している。「マナス」の中の出来事を歴史的な事実を直接明らかにするために用いるべきではないが、歴史を考える上の傍証として用いることにはある程度の意味があるのではないか。

 以下に高橋(2001)が紹介した第一編「マナス」のあらすじを紹介する。

 

序詩開篇、キルギス族の族源とマナスの先祖について述べる。マナスの父親チャクプははじめ子どもがなかったので、是非ほしいと願っていた。当時キルギス人を支配していたカルメイック人(オイラト人)の中に有名な占い師、ランコタクが居り、彼はキルギス人の間に一台の英雄マナスが生まれると予言する。カルメイックの王アラオケは其れを聞いて激怒し、手当り次第にキルギス人の妊婦の腹を割いて調べるという暴挙を行ったが、多くのキルギス人に守られてマナスは生まれた。マナスは飛ぶように速く成長して怪力無双の好漢になった。9歳で40人の勇士達を引き連れ、弱きを助け貧しきを救い、暴虐を除き、正しきを安んじ。タシクルガン・カシガル・ウルムチ・アフガンにまで遠征して、14汗王の部落と同盟を結んでキルギス人の汗王首領となった。またカニカイ公主と結婚した。攻めてきたカルメイックのコングルパイを打ち負かした。キタイ人(契丹人のことと言われる)のアリマンペトックと義兄弟の契りを結んで、最後にペイチン(嘗てトルフアンの郊外にあった北庭、つまりベシバリクのことと言われる)をうって大勝したが、其の時の気の緩みに付け込まれて、敵の毒斧を後頭部に受け、重症のままタラスに帰ってから死去した。(高橋 2001)

 

さて、まず、キタイ人とは契丹人であるのか、それとも漢人のことであるのか。それはマナスが語られる場面によって変わっていったとみることができる。しかし、近代のマナスチたちは、このキタイ人のことを明確に中国人であると認識して歌っていたというのは、以下の「ペイチン大遠征」を巡る論争から明らかである。

奥村(1995)は「マナス」のクライマックスである大遠征の先である「ペイチン」をベシバリクではなく北京のことであると明言していて、この架空の「北京大遠征」のために社会主義共和国時代キルギスでの「マナス」は中ソ友好にとって問題があるとしてキルギス共和国の最高権力と科学アカデミーの間に会議がもたれたが、結局「マナス」擁護派が勝利して、会議の帰趨を心配した数千のキルギス人たちが「マナス」を大合唱しながら村落へ帰って行ったというエピソードからも、少なくとも近代において、この「ペイチン大遠征」は「北京大遠征」という文脈で歌われた。

また、若松(2003)はこの「クィタイ」を最初のマナスチたちは遼であると解釈し、次時の時代のマナスチたちはカラ・キタイであると解釈し、そののちの時代のマナスチたちは中国であると理解したとする。そして、これらの共通点はキルギス人を支配した民族であるということであり、これらの東からの圧迫が、反実仮想的に「マナス」の遠征へとつながっていった。

 さて、中央ユーラシア史という視点に戻ってこの「マナス」を見たとき特徴的な点は以下の4点である。

 

 ①その悲劇性

 ②豊かな国際性

③東から来る敵

 ④クライマックスとしての「北京大遠征」

 

 ①その悲劇性

 若松(2005)はマナスがその物語の最後において悲劇的な死を遂げるというのは他のトゥルク系民族の叙事詩には見られない特徴であるとするが、坂井(2006)はトゥルク系民族の叙事詩には英雄の悲劇的死は比較的よくあることであると批判している。しかし、この悲劇的死を遂げる英雄というモチーフがキルギス人の苦難を象徴しているという若松(2005)の意見は中央ユーラシアの要衝を生き抜いたキルギス人によって作られた「マナス」という叙事詩をみる上で重要なものである。

②豊かな国際性

先述のソ連時代のマナス擁護者たちはマナスの国際性を取り上げて擁護に努めた。「マナス」の登場人物には中国人、オイラト人、カザフ人、タジク人など天山地方を行き来した多くの民族が含まれている。この中央ユーラシアの特質である民族的多様性と流動性の高さは「マナス」の中にも強く反映されている。

③東から来る敵

 「マナス」においてキルギスに攻め入る敵が来る方向は常に東である。これは、中央ユーラシアの民族移動が東から西へ行われていたことを、ミクロ的な視点においてもキルギス人たちは認識していたことを示す。中央ユーラシアのマクロな動きをキルギス人たちは叙事詩の中において認識していたのである。

 ④クライマックスとしての「北京大遠征」

 この「北京大遠征」は採録によっては存在しないこともある(奥村 1995)が、紛れもなく叙事詩「マナス」においてこの軍事行動は紛れもなくクライマックスであり、その壮大さのために全くの作り物語であるとみる論者が多い。(若松 2001:奥村 1995) しかし、この「北京大遠征」を奥村(1995)はウイグルを滅ぼした記憶あるいはジヤアンゲル・ハンの反清暴動が背景にあるとみているが、しかし、さらにこの「北京大遠征」にふさわしい出来事があることに気づかされる。1688年のジューンガル軍と清軍が北京北方のウラーン・ブトンにて衝突した戦いにおいて活躍したジューンガル砲兵の担い手はブルート(キルギス)人をはじめとするブハラ人たちではなかったろうか。

 さらに実際に北京大遠征の一節に目を通してみると、戦闘描写の生々しさもさることながら、伝統的な遊牧民の騎兵は用いないさまざまな火器が登場する。「コイチャグル銃」「スィル・バラン銃(フリントロック銃)」「アクケルテ(銃)」など、それらは英雄たちが用いる名のある得物の一つとして高い扱いを受けている。アクケルテ銃の描写をマナスチは「遠くも近くも変わりなく、遠くも近くも区別なく、百発百中、銃身は鋼鉄、銃口はダマスカス鋼、硝煙は濃霧、銃床はイスファアン製、照星は恐怖の的、弾丸は死、これぞ聖なるアクケルテ」として、この一斉射とともに大砲、小銃の射撃が続いたのち、騎兵が突撃する。(若松 2003)随所に叙事詩らしく、英雄の突撃や魔法などが織り込まれているものの、この戦法は17・18世紀のジューンガルのそれである。

 これらの叙事詩が記録された年代とウラーン・ブトンの戦いは200年の時を経ていて、これらの出来事が叙事詩の中に定着していてもおかしくはない。以上のさまざまな情報をから、ウラーン・ブトンの戦いに北京遠征のモチーフがあるのではないか、と私は考える。

 

 以上、「マナス」というミクロの視点から中央ユーラシア史的事実を見出し、その深い理解を行うために4つの点を指摘し、これを検討した。

 

○参考論文・文献

史料

三国志」魏略 西戎

「周書」異域伝

「北史」突厥

新唐書」回鶻伝下

 

論文

 西脇隆夫「中国におけるキルギス族英雄叙事詩「マナス」の研究」『中国』 (8) pp.268-276  1993-06 中国社会文化学会

奥村剋三「キルギスタン叙事詩『マナス』と辺境の知識人」『立命館経済学』44(4・5)  pp.653-661 1995-12 立命館大学経済学会

 高橋庸一郎「中国北方少数民族伝承文学概説(六)-キルギス族英雄叙事詩「マナス」(上)」

『阪南論集 人文・自然科学編』Journal of Hannan University Humanities & natural science 36(4) pp.1-8 2001-03

 高橋庸一郎「中国北方少数民族伝承文学概説(七)-キルギス族英雄叙事詩「マナス」(下)」『阪南論集 人文・自然科学編』Journal of Hannan University Humanities & natural science 37(1・2) pp.29-38 2001-09

 ジュマトゥルディ・アディル 西脇隆夫訳「翻訳 英雄叙事詩「マナス」の特色」『名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇』47(1) pp.71-82 2010-07 名古屋学院大学総合研究所

 坂井弘紀 書評「若松寛訳, 『マナス 壮年篇-キルギス英雄叙事詩-』, (東洋文庫 740), 平凡社, 二〇〇五・七刊, 全書判, 四一二頁, 三一〇〇円」『史學雜誌』115(2) pp.242-243 2006-02

 西脇隆夫「キルギス族英雄叙事詩「マナス」第一部(一)」『名古屋学院大学論集 言語・文化篇』THE NAGOYA GAKUIN DAIGAKU RONSHU; Journal of Nagoya Gakuin University; LANGUAGE and CULTURE 22(2) pp.98-112 2011-03

 

書籍

護雅夫 岡田英弘編(1990)『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』山川出版社

宮脇淳子(1995)『最後の遊牧帝国―ジューンガル部の興亡』講談社

若松寛(2001)『マナス 少年篇―キルギス英雄叙事詩平凡社

若松寛(2003)『マナス 青年篇―キルギス英雄叙事詩平凡社

若松寛(2005)『マナス 壮年篇―キルギス英雄叙事詩平凡社

今谷明(2010)『中国の火薬庫—新疆ウイグル自治区の近代史』集英社

 

 

こののち筑波大学学園祭の歴史を書く人に宛てた草稿②

2. 学園祭実施に向けた学生自治組織の結成

 学園祭実施の機運が高まった1974年の段階においては、大学側の非政治化方針とわずか742人という学生の少なさから、他大学では往々にして学園闘争の中心となった学生の代表機関としての自治会的組織を持たず、各学類・専門学群ごとに設けられたクラス単位における担当教官と学生間の意見交換をもって学生の意見を集約するという簡素な形式をもって学生と大学側の交渉がなされていた。

 しかし、一方で学園祭実施を望む学生たちは、全学的な学園祭を実施するための準備組織として有志によって、まずサークル代表の有志たちが学園祭の実施の検討を始め、学園祭の全学化のためにクラス代表にも学園祭実施検討への参加を呼びかけ「クラス代表者会議」が10月14日に組織され、「サークル代表者会議」と「クラス代表者会議」の合同機関である「サークル・クラス代表者会議」と実務機関として「学園祭実行委員会」が同年中に組織された。これらの経緯を踏まえ、第一回学園祭実行委員長は筑波大学学園祭の当初の目標として、

1、全学生参加による交流ある学園祭

2、クラブ・サークルの活躍を公表する学術文化の場

3、現在大学の置かれている複雑さに対し、新しい、新しい構築すること

の三点を掲げ、第一回学園祭実施に向けての実務を取り持った。

 実行委員会設立時点においては「クラス代表者会議」は学園祭を実施するための連絡機関としての色合いが強かった。しかし、1974年末、二期生入学を控えて学生宿舎の空き部屋が不足したことにより、一部一期生の退去が強制されたことを発端として起こった「宿舎問題」においてクラス代表者会議は学生側の「4年間希望者全員入寮」要求の運動の中心となり、大学側との折衝、署名活動を行った。

 この当初は学園祭実施のための学生のサークルを基礎とした自主組織だったクラス代表者会議は「宿舎問題」を契機として、大学に対する学生自治組織としての性質を帯びるに至ったのである。これに対して、従来の非政治化方針を継続しえなくなった大学側は1975年3月20日に「クラス制度に対する申し合わせ」と「筑波大学学類(専門学群)連絡会議要項」(旧綱領)を決定し、4月に「75学生綱領」を発表。これまで学生による非公認組織であったクラス代表者会議を公認し、交渉のレベルを2段階に分割し、学生側には全学レベルの「全学類等代表者会議」と従来の学類レベルの「クラス代表者会議」を組織させ、大学側はそれぞれ全学レベルの「厚生補導審議会(教育審議会)」と学類レベルの「学類教員会議」を対応させ、それぞれの間で「懇談会」、「学類クラス連絡会議」を意見交換、折衝の場として設定したのである。また、開学以来のクラスと担当教官による意見交換、折衝の場も並存させ、現在まで継続するクラス・学類・全学の三段階からなる学生組織は完成した。以降、この「学生」と「大学」を対立するものではなく、共同するものであるとする建学の理念に基づく「まったく新しい考え方にたつ学生の自主的組織及びこの学生組織と大学運営責任者との連絡、交流の場」とされる従来の大学の学生自治会とは大いにその性質を異にする学生・大学関係を基礎とする「代表者会議体制」は以降の筑波大学の学生と大学の関係における基本的な枠組みとなった。

 この代表者会議体制成立によって全学類等代表者会議(以下、全代会)はクラス代表者会議(以下、クラ代)の上部組織であるだけでなく、実務機関である学園祭実行委員会の大学側との折衝の役割を担うこととなった。また、代表者会議体制において「サークル代表者会議」は全学・学類・クラスの系統とは別に、1976年に学生サークル自治組織として総称して「三系」と呼ばれる「文化系サークル連合会」「芸術界サークル連合会」「体育会」が正式に発足し、それぞれ団体間に関わる問題や後援組織である紫峰会に関する問題を討議する「課外活動団体会議」と大学側との折衝を行う「課外活動連絡会」による学生・大学関係のもう一つの基礎的枠組みとなり、この体制もまた現在にいたるまで継続している。この「代表者会議体制」における学生・大学関係においては、大学側との折衝が主要な役割である全代会と学生自治組織としての役割が強い三系の二重性が存在し、これらは併存し現在に至っている。

 

3. 第一回筑波大学学園祭「紫桐祭」

 

 一方、「宿舎問題」が表面化するなか、学園祭実行委員会(以下、学実委)は1974年12月10日に大学側から正式な組織として認められた。しかし、翌年75年の「代表者会議体制」発足に伴って、全代会は小規模な実務組織であった学実委に対する監査委員(後の学内行事委員会)を設けることで学実委の全学性を担保し、大学側は学園祭を大学の正式な行事として公認する条件として、

1、筑波大学の建学の方針に沿い、建設的な内容のものとすること

2、単なる遊びや祭り騒ぎに終わらないこと (のちに、単なる娯楽に終わることなく創造的で知性に富んだ学園祭であること、に変更)

3、最終的な企画を決定する前に、大学側と十分な協議をおこなうこと

の「三条件」を掲げ、大学側の「教育的指導」を受け入れることを求めた。

 この開学当初以来の非政治方針をもって、政治性が現れる可能性の高い学園祭実施に対して強硬に対応した大学側に対して、学実委はこれらの「三条件」に抵触すると大学側から企画中止を求められた「文教政策についての五党討論会」「福田信之副学長と生越忠氏による大学問題に関する討論会」「歴史学和歌森太郎と生物学者江上不二夫氏による講演会」の学実委実施企画(以下、本部企画)の実施を巡って、全代会と共に連日に渡る交渉を行ったが、大学側は学園祭に関する事務を一切受け付けないという強硬方針をとった。そのため、学実委は「学園祭実行」の方針の維持のため、これら3企画を中止・内容変更を行い、これをうけ大学側も学園祭の実施を承認した。この学実委の大学側への妥協は学生の自治管理による学園祭実施に対する要求あるいは妥協した学実委への批判を強め、そのため翌年以降学生・大学ともに強硬化し、1980年を頂点とする学生・大学間の対立の契機となった。

 第一回学園祭は1975年11月1日から3日にかけて開催された。この第一回学園祭のみは例外的に「紫桐祭」(しとうさい)と校章をモチーフとした仮の名称が付けられた。第一回学園祭の予算規模はおよそ100万円(この歳に関して決算書の存在を確認することができない)で、その大部分は学生の分担金の収入に依拠していた。また、当時の企画数は40程度であり、学生の総数も現在の10分の1程度であり、予算規模、企画数などおよそすべての面において、第一回学園祭は現在の学園祭の10分の1程度の規模であったことがわかる。企画の特徴としては、これは70年代80年代に共通する特徴ではあるが、学類主催の学術的企画の比率がサークルなどによる模擬店企画に比して、現在と比べて非常に大きかったことが挙げられる。

 このような紆余曲折の末に開催された「紫桐祭」は「死闘祭」と当て字され、中止に追い込まれた諸企画に対して、学園祭後一分間の黙祷が捧げられた。また、この後、正式な学園祭の名称として筑波山をモチーフとした「雙峰祭」が、1976年以降2016年の第42回学園祭に至るまで採用され、「紫桐祭」の名称はただ一回のみのものとなった。

こののち筑波大学学園祭の歴史を書く人に宛てた草稿①

  1. はじめに

 1974年最初に筑波大学が入学者を迎えたその年から現在にいたる40有余年の伝統をもつ筑波大学学園祭は、実にそれぞれの時代の世相あるいは「新構想大学」たる筑波大学とこれをとりまく「研究学園都市」という特殊な立地条件を反映した様相を呈してきた。従来の大学教育に対する国家の教育行政による「壮大な実験」のために生まれた筑波大学の歴史はすなわち、この建学の理念にも色濃く反映されている「壮大な実験」の結果に他ならず、2004年の国立大学の法人化以降、大学における網羅的で重厚な学術研究、特に基礎科学といわれる部分の今後が取りざたされるなか、建学の基本計画に「創造的な知的生産を目的とし、諸科学の調和をとれた研究・教育体制のもと、総合的な研究開発に重きをおく」とし、基礎応用を融合した学問的総合を目指して建学された筑波大学の歴史の反省はすなわち、情報通信技術の進歩、特に個人用コンピューターやスマートフォンの普及によってインターネットが大衆の手のもとに開かれたことによって「教養」が持つ権威が失われつつある現代において次第にその影響力が強まる即物的な「実学主義」に対する検証なのである。

 この筑波大学の歴史を語るうえで、大学の教育機関という側面、すなわち「大学と学生」という側面から歴史を見ることは、大学の研究機関という面に目を向け、その成果をはかることと同程度に重要な要素であるということは、大学というものの研究教育の二元性から見て当然である。この「大学と学生」の視点から見た筑波大学の歴史は「大学と学問」という視点から見たそれと、時代、土地、ヒトを同じくするものであり、両者は実に密接な関係を持っている。その「大学と学生」の筑波大学史を記すにあたって学園祭に対して触れずにいることは不可能なほどの重要な要素である。

 無論、このわずか40年あまりの伝統しか持たない筑波大学学園祭を歴史的叙述に対象とすることを適当であるとみなすことは困難である。しかし、10年後、20年後にこの学園祭の歴史を記そうと試みる人の問題意識の一端として、この試論がある意味において史学史的な意義を持つということを期待し、さらにはこの伝統について知ろうと欲する人に対して完全に網羅的ではないにしろ、体系化された叙述をすることで、ある程度の便を与えることができるだろうと思い、これまでに集めた資料をまとめ、これをもとに学園祭の来し方を概観することを試みる。

 

  1. 開学当初の問題と宿舎文化

 1973年に開学式典が開かれ、翌1974年に最初の学生を迎えた筑波大学は実質的に開学したが、当時の筑波山麓地域は未だ開発の手がほとんど入っていない「開拓地」と呼べる状態であったと当時の学生は記録している。この「開拓地」に入った筑波大学の学生は、東京など大都市に住む学生のように大学周辺に下宿することが、大学周辺の受け入れ先の少なさのため困難な状況であり、学生のほとんどは大学が設けた学生宿舎に入居することとなった。大学内においてすら、多くの施設が未完成であった1974年の段階において、大学周辺には娯楽施設どころか身の回り品をそろえるための商業施設すらまともにないという状況であった。この当時の学生をして「工事現場」と言わしめた開学当初の筑波大学の学生にとっての最初の一年を象徴する存在は「学生宿舎」であった。都市部に基盤をもつ他大学には見られない濃密なコミュニティーは「筑波」独自の学生文化を生む素地となった。「生活共同体」である学生宿舎において生まれたこの独自の学生文化は、初代学長三輪知雄の示した筑波大学の「政治運動の禁止」方針とあいまって、当時吹き荒れていた「学園闘争」の嵐は、開学直後の筑波大学とはまるで縁のないものとなっていった。「アジとビラ」に象徴される当時の一般的な大学生活は、筑波大学においては「土と緑」に象徴されたのである。この開拓地生活における学生たちのエネルギーは、政治運動と隔離と周囲における娯楽の欠如から、サークル活動あるいは「祭り」の開催へと向かっていった。当時の学生のサークル加入率は149%であり、現在と比較してもその高水準がうかがえる。そして、この学生たちのエネルギーは1975年の第一回学園祭、翌1976年の第一回宿舎祭、1974年から始まった体育会結成の動きを嚆矢とする文化系、芸術系、体育会の三系と呼ばれるサークル連合の発足、体育会発足と連動して生まれた学生保護者による後援会である紫峰会の発足へと向かっていったのである。これらの現在の筑波大学の学生文化の基礎を築いた宿舎文化は、周辺地域が発展した現在では失われてしまった文化であるが、この文化の象徴たる宿舎祭は、入学間もない一年生をはじめとする学生と地域の住民たちとの交流親睦の機会となり、毎年の年中行事として定着している。

 そして、学生にとって最大の年中行事といえる学園祭は、宿舎文化の最初の結実であり、その開催に至るまでの道のりは当時の学生活動の一典型とみることができる。しかし、この学園祭へ向けた動きは、その当初から「政治性」の問題が生まれる萌芽が存在し、このために開学当初の宿舎文化はしだいに変質を余儀なくされたのである。 (つづく)

ハザールの西進とブルガールの分裂(ブルガリア史③)

 ここまでアヴァールについて語ってきた。

 ここで、ブルガールに話を戻す。

 アヴァールを西に追ったクプラトは、本拠をシルクロード世界の交易との接続に有利な北コーカサスからアゾフ海沿岸に置き、友好国であるビザンツの支持もと西のアヴァール、東の突厥と対抗し、周辺の遊牧民を糾合した。

 このクプラト率いるブルガールを中心とする政治集団を「古き大ブルガリア」あるいは「オノグル・ブルガール」もしくは単に「大ブルガリア」と呼ぶ。

 一時は突厥アヴァールと並ぶ大勢力となったブルガールであるが、クプラトが死没する前後から東の突厥から分離した突厥可薩部、すなわちハザールが西進、ブルガールに圧力を与えるようになっていった。ハザールはクプラトという強力な指導のもとにあったブルガールにとっても脅威ではあったが、それはブルガールを崩壊させる決定的な要因となることはなかった。

 クプラトが死没すると状況が一変した。東方のハザールへの対応において、クプラトの5人の息子たちの意見が対立したのだ。

 5人の父親はその死にあたって、息子たちにこう語った。

「危機に団結せよ」

 その言葉を忠実に守るべく、クプラトの領民を分割相続した5人の息子たちは一つのユルタ(遊牧民のテントのこと)に集まって、ハザールの圧力に対抗するべく議論を重ねた。

 長子バトバヤンは、たとえハザールに服属することとなっても、父祖の地を守って、ハザールと戦うべきだ、と主張した。

 次子コトラーグは、争いを避けて北東へのがれ、再起を図るべきであると主張した。

 三子アスパルフは、ドニエストル川の南岸まで西進し、ドナウ川の南側にある友好国ビザンツと連合するべきであると主張した。

 四子アルツェクは、「グレク(ギリシア)人たちは信用ならない」として、かつての宗主アヴァールを頼るべきだと主張した。

 五子クベールは、アヴァールビザンツのいずれも頼ることができるよう、両者の国境付近にのがれようと主張した。

 議論はついに一つに決せず、父の遺訓を破ることもやむなし、として各々がそれぞれの部民を率いて、信じる最良の方策をとることを定めるにいたった。

 以下、簡潔に5人の息子たちのたどった道筋を見ていく。

 分裂したブルガールのうち、黒ブルガールと呼ばれるバトバヤンの集団はハザールとの抗争に敗れ彼らの従属民となり、歴史の表舞台から姿を消した。

 コトラーグの領民たちは争いをさけて、ヴォルガ川の上流へのがれ、ハザールに緩く従属し、やがて従来の遊牧生活を放棄し、牧畜農耕に従事し、シルクロード世界と北欧を結ぶヴォルガ川水運を支配し、そこから利益を得た。彼らの政権を一般に「ヴォルガ・ブルガール」と呼ばれ、13世紀ごろまで繁栄し、彼らの子孫は現代のチュバシ人とされ、彼らが話すチュバシ語はブルガール語の唯一の末裔として、学者の注目を集めている。彼らに関する記録としては、ハザールが衰退の兆しを見せ始めた10世紀前半に彼らの支配から脱却しようとこころみた首長アルムシュが新たな同盟相手としてアッバース朝との関係を模索し、アッバース朝からの使者として派遣されたイブン・ファドラーンが記した「報告書」(日本では『ヴォルガ・ブルガール旅行記』として知られている)がある。その「報告書」のうちには、ヴォルガ・ブルガールやルーシ人、ハザール人など周辺の民族の風俗などの情報があり、当時の黒海北岸草原からヴォルガ川流域の状況が明らかにされている。

 アスパルフ率いる領民は、現在のトランシルバニアあたりに移動し、やがてドナウ川を渡り、681年、同地のスラブ人と連合してビザンツ領内に政権を確立した。これが現在のブルガリア国家の原型である。

 アルツェクの領民たちはアスパルフたちよりも早い時期にビザンツ領内に入り、アドリアノープルの城壁に迫ったが、彼らの軍事力ではビザンツの都市を陥落させることができず、やがて周囲のスラブ人たちと同化していった。

 クベールは、アヴァールを頼って西進したが、結局アヴァールの本拠地であるパンノニアからランゴバルト人たちともの南イタリアにのがれ、9世紀ごろまでは独自の文化を維持した。

 彼らのうち、もっとも成功したのはアスパルフ率いる集団であった。以降、彼らがブルガールで最も強力な勢力として、アヴァール、ハザールそしてビザンツと対等に渡り合い、ヨーロッパにおいて、フランク、ビザンツに次ぐ第三の勢力となっていくのである。

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図 大ブルガリアの分裂とアスパルフとコトラーグ(コトラグ)のブルガール集団の移動