『荘子』をよむ ――荘子の実践論――

 なぜ、『荘子』は存在するのだろうか。『荘子』がなぜ、書物として、「ことば」として綴られているのだろうか。荘子を一読して、この点について私は疑問を抱いた。

 もし、かりそめに荘周が蝶であり人であることが賽の目のように常に同様に確からしく変わりゆくものであると捉えたならば、なぜ荘周は『荘子』を記す必要があっただろうか。茫漠たる道に溶けたまったくの酔いどれ眼で「汝がために試みに妄言」したのだろうか、それとも綿中蔵針、その突拍子もない言葉のうちには秘めたる意図があったのだろうか。

 私は、荘周は荘周であり蝶ではないと彼は確信している点に彼が『荘子』を記した根拠がある、と考える。確固とした我とそれ以外の彼があるからことを知っているからこそ、彼は『荘子』を記したのである。我と彼が同一であり、まざりあい、くっつきあい、「道」の上に一つであるとするならば、何かを主張することはまったくの無意味である。何かを主張してもそれは既に一に帰しているのであり、何をなしたことにもならない。そう理解する者が果たして荘子三十三篇を記すだろうか。そこには能動的に何かを主張する理由があるはずである。私はその理由が、荘周が我と彼の区別が確かに存在し、この世界に是非は存在する、という前提をおいている、という点にあると考える。そして、その前提があればこそ彼の論は記される意味を持つのである。私は荘子の教えを、是非や彼我の区別がある世界において、是非を越え坐忘するといった形而上の世界に思弁や突拍子もない寓話を通じて到達し、そしてまた是非のある形而下の世界に立ち返る、形而上の体得を踏まえた形而下における実践の教えである、と捉えるのである。「人の中にいて人を忘れる」というのは形而上を踏まえた形而下の教えとして捉えられる荘子の思想を端的に表した表現ではなかろうか。

 では、この「区別」というものに対して、荘子はどのように論じたのだろうか。まずは「区別」についての荘子の記述を斉物論篇を基にして見ていく。

 まず、「区別」はなぜ生まれるのか。区別とは単なる物と物、つまり「これ」と「あれ」というのもではなく、「主観」「客観」ととらえる。(当時の術語において「彼」は「客観」を「是」は主観を表す(楢崎2004))この客観は主観がなければ成り立たない、つまり主観を経由しなくては外物を認識することはできない。一方で、主観も客観がなければ成り立たない、つまり、主観的認識は外物に依存している。これが、「彼は是より出づ、是も亦た彼に因る」いうことである。つまり、主観的な「我」の存在があることが区別の根源であるのであるとするのである。しかし、このあと荘子は「雖然」と逆説的に「方死方生」と述べ「主観」と「客観」の内、ある認識が主観であるならば、その認識は客観ではなく、ある認識が客観であるならば、その認識は主観ではないとする。しかし、この節の冒頭に「物無非彼、物無非是」であると言明しており、そうであるならば、物=彼、物=是である、これはすなわち彼=是であり、矛盾である。というのも荘子は「彼亦一是非。此(この字は是と解釈する(楢崎2004))亦一是非」と言及しており、この「物無非彼、物無非是」が可とされるならば、矛盾律が崩れ、是でありながら非であり、非でありながら是である、という問題が発生する。これを可とするのは恵子の「今日越に出発し、昨日到着した」ということと同じことである。この矛盾に対して荘子はどのように解決を施したのか。彼はそこに道枢の比喩を持ち出した。つまり、道という場における扉の回転軸(枢)を中心に等距離に「主観」と「客観」を置くならば、「主観」と「客観」が出会って矛盾することなく、「主観」と「客観」がともになくなる、ということもまたない。この立場に立つことを「其の環中を得」るあるいは「明を以てする」といい、その立場に立てば事物Aに対して是という判断を下してもまた、同時に非という判断を下すことが可能であり、是非の判断は矛盾律から解放され無限に至る。(是亦一無窮。非亦一無窮。)

 あるいは区別というものに対して、もっと簡単に以下のようにとらえることができるのでないか。

 すべての問題は基準となる確からしい自己と他者、あるいは主客に分別されうる部分の間から生ずる。「主観」と「客観」は互いに反しながら依存関係にあり、「このウマはまたあのウマ、あのウマはまたこのウマであって、万物はついにこのウマ一つに尽きるとも言える」(原1972)というように、およそ世界は彼我の主観・客観の関係によって成立している。故に一つの立場に固着することは結局はそれに対立する立場につくことと同じなのである。儒家が仁に固執し、墨家がそれに反対して兼愛を掲げるが、それは反しあいながら依存関係にあるという点で、どちらかが優れているということを判断することができない。自らが我ならぬものを彼として客観化してものを見る時、このような問題が発生する。

 区別こそがすべての問題の根本であり、区別されたものに固執しては区別するものと相互依存関係となってしまい、区別したものに区別されたものが働きかけようとしても、あたかも影と影の主のようなもので、なにも起きない。ここに区別から解き放たれ、区別を離れる必要性が生まれてくる。

 では、区別に固執せずに区別から離れるためにはどうすればよいのか、荘子は「およそ相反すること・ちがうものみなが、ひとしく道のなかで――道に支えられてこそ、それぞれそのようでありうるのだ。(中略)およそものごとのできあがることもこわれることも、ひとつの過程で、ひとしく道のなかで――支えられてある」(原1972)ということを自覚し、いつどこでも普遍的に当てはまる庸(はたらき)に任せることが区別の上にたって区別から離れるということである。ここでいう庸に任せるとは道枢を環中に置く、ということである。つまり、区別差別がすべて道に支えられているということを自覚すれば「彼と是が対をなす概念でなくなるとき、それを道枢という。枢が環の中心にあれば、無窮に応じる。是もまた一無窮であり、非もまた一無窮である」(中島2009)という立場に立つことができる。 あるいはさらに具体的に「彼(客観)と是(主観)とがその相手を得ないこと、これを道の扉の回転軸(を中心として彼と是が対峙しあっていること)に喩えることができる。この回転軸がはじめて、円環の中心に身を置いて、(彼と是との二項対立から自由になり、状況に)無限に対応してゆくならば、是とする判断を無限に下し、非とする判断を無限に下すことができる。(そうなれば、「是」と「非」との対立は実質超えられたことになる。)」(楢崎2004)      

 そして、庸に任せることができた聖人は以下のような境地に至る。

 

「是も非もともにあえて、天の立場に立って(おのずからなる釣り合いの内に)、おちつく。これを「両つながら行く」(ひととわれと、それぞれそのところを、うる――それぞれの主張を、それぞれ捨てないそのままで、それぞれにこだわらないですませる、という境地)という」(原1972)

 

 つまり、聖人もまた「主観」に因ったまま、明の働きを以て、しかしながら何にも依拠せずに物を判断する、ということはこういうことである。

 荘子はこのように「区別」を越えることについて論じている。区別を消去することなく、むしろ区別を並び立たせて区別の上に立つ、ということを荘子は主張するのである。そして、ここで最後に強調することは、理想とする聖人もまた「主観」に立脚している、ということである。

 では、ここで最初に挙げた「胡蝶の夢」の寓話に立ち返る。

 ここにおいて最後に「此之謂物化」と荘子は言っているが、この物化とはどのようなものであるのだろうか。これについては中島(2009)と郭象に基づいた解釈を授業では扱ったが、これに関して先ほどの斉物論と様々な物化の解釈を踏まえて、自分の意見を述べたい。

 まずは、中島(2009)が従来の説とする森樹三郎と福永光司の解釈を見ていく。

 森(1968)は「「物の変化」というのは、一つの物が他の物に変わることであり、そこには一と他との区別がある。しかし、それは常識の立場のことであり、すべてをひとしいとみる立場から見れば、自分と他者の区別がないのであるから、胡蝶はそのまま荘周である」とする。

 福永(1978)は「実在の世界では、夢もまた現実であり、現実もまた夢であろう。(中略)一切存在が常識的な分別のしがらみを突き抜けて、自由自在に変化しあう世界、いわゆる物化の世界こそ実在の真相なのである。」という。

 また、ほかの類似したいくつかの解釈も挙げる。

 岸陽子(1980)は莊周と胡蝶の区別は現在の形に過ぎない、として、その区別は事物の極まりない変化の中における一様相にすぎない、と中島の言う旧説に近い見解を述べる。

 阿部吉雄(1969)は単純に物化を生死と捉え、生死の間にはこの寓話のように大きな区別はない、と禅における遷化に引き寄せて解釈する。

 次に中島(2009)の解釈を見ていく。

中島(2009)は、「一つの区別された世界に二つ(あるいは複数)の立場があり、それらが交換しあう様子を高みから眺めて、無差別だということではない。そうではなく、ここで構想されているのは、一方で荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容する事態」を物化と捉える。

 さらに郭象と中島(2009)に近い解釈を挙げる。

 郭象本人は、万物は天に成るがそれぞれが勝手に変化していくので、運命などはなく胡蝶であるときは胡蝶であることを楽しみ、莊周であるとき莊周であることを楽しめば良いのだ、と主張する。

 赤塚(1974)は郭象の説をおおむね同意しつつも、刹那的快楽主義として行き過ぎとし、胡蝶の夢を現実の射影と捉え、苦しい現実と自由な夢の世界の対比によって、区別を直視し、区別からの解放と超越を探るところにあると、この寓話の意味を解釈する。

 赤塚(1974)はこの寓話における「物化」の意味を混沌無差別におけるゆらぎの謂と取るのではなく、「あまねく生きる物の真の生意を自分の内に感得して、不言の静かさの中に自分に満足し、他人や他物とも自然に調和して、安らかでしかも充実した生を送るのが、「物の化」である」と捉えている。つまり、「物化」を変化ととらえるのではなく、同一化ととらえるのである。

 以上にいくつかの解釈を挙げたが、私は「主観」に立って区別を超越する聖人を理想とする荘子がどのような物化像を構想したのか、ということを踏まえて考えると、郭象や赤塚(1974)、あるいは中島(2009)などの説がそれに沿っているというように感じられる。これらの説を踏まえて物化を考えるならば、物化とは性そのものが転変すること、区別の体系が変容すること、ある「主観」がひとりでに変化して新たに区別を超え区別を作ること、とも、不変の性をもった確固たる自分があるということを前提とし性に満足し自然に調和し同一化する、と捉えることもできる。確かに中島や郭象の主張するように、性は固有であり「荘周が荘周として、蝶が蝶として、それぞれの区分された世界とその現在において、絶対的に自己充足的に存在し、他の立場に無関心でありながら、他方で、その性が変化し、他なるものに化し、その世界そのものが変容する事態」(中島2009)を物化とする立場は物化を単純に見るならば正しいと考えられる。しかし、この寓話において物化というものを見る場合、物化を単純にとらえるのは、赤塚の解釈を踏まえると含みが少ないように感じられ、また刹那的快楽主義に陥る可能性もまたある。赤塚があえて従来の「物化」と分けて「物の化」と表した理由は従来の解釈との区別化にあるとする。私もまた、物化を一歩進めて、区別の上に立って区別を超越し、その上で自らの性に満足し調和し従う、というように捉えることがこの寓話の意味をもっとも明らかにするものであると考える。

 さて、このように物化を解釈するならば、また、至楽篇の荘子と髑髏との対話もまた「死への賛美」ととらえるよりも、「生と死の対比において、生きる人は生きることに全うし、死せる人は死せることに全うし、それぞれ各々楽しむ」というように解釈するほうが良いと思われる。あるいは死した荘子の妻への荘子の態度もまた、死した妻は死後の世界を全うするまでで、荘子は生きる世界を全うしているのである、ととらえられないだろうか。

 矛盾する判断を並び立てる明知を発揮し、区別の世界にありながら区別を超越した無制限の判断を行う立場に立ち、そして再び現実の場に立ち返り、そして「物の化」を尽くして自らの性に満足し、周囲に調和する、これが、私が捉えた形而上の世界を踏まえた形而下の実践論である、ということである。

 ここまで、荘子の哲学を絶対無差別の道の世界に遊ぶものである、と捉えるのではなく、形而上の世界に立ち返り、そこから形而下の実践を目指すものである、と捉える見方を提示してきた。このような実践的な哲学としての荘子の思想について、「老荘思想」と従来示されてきた老子荘子の連続という見方ではなく、白川静らによる孔子荘子に連続が見られる、という説について考察する。

 白川(1972)は孔子の時代と荘子あるいは孟子墨子の時代の思想の状況は大きく変化した、と主張する。孔子の時代には先王の理想、つまり伝統が生きていたが、都市国家の領域国歌への発展という歴史的な状況変化の前に周公の伝統は息絶え、荘子の時代には教条的道徳あるいは法律といったノモス的な社会秩序へと変容していった。孟子墨子も王道天下あるいは天志といったノモス的な秩序体系を抗争したが、その内容は必ずしも現実の社会秩序に迎合しない反ノモス的な要素を持っていた。真にこれに対応した理論を構築しえたのは、後王思想を成立させた荀子であり、それをさらに敷衍した法家思想家たちである。

 このノモス的な世界は孔子に立ち戻った時、否定されるものであった。仁といった徳は個人の内において体現せざるを得ず、実践者として再現されなくてはならなかった。このあり方は四端の心として、仁義を普遍的、共通的なものとして、ノモス的な社会秩序に適応させようとした孟子の立場とは大きく異なる。

 後に宋学に発展した孟子の思想は曽子・子思の道統にあり、その思想は白川(1972)によれば孔子の正統にはない、とされる。孔子のあり方はむしろ顔回に受け継がれ、荘子はその顔回の思想の後継者である。『淮南子』に見える荘子が学んだ儒教顔子の系統に属するそれではなかったのではなかろうか。

 荘子は徹底的な反ノモス主義者であった、ということは、大宗師篇の孔子顔回の対話に現れる。「仁義を忘れたり」の「仁義」とはノモス化された儒教であり、最後に至った「坐忘」の境地とはノモスを去った個人体験の元に還元された、個人の主体性の回復の境地である。

 ノモス的な社会秩序は必ず区別を内包している。これは荘子の超越せんとするところである。彼はノモス的社会秩序において形而上の世界に立ち返り、形而下の実践の方法を探った。白川(1972)も同様に「荘周は、新しいイデアの探究者であった。そしてノモス的な世界にあって、イデアを回復した」という。孔子はただ「仁」として体認することを求めたが、荘子は「道」として実体化して名を与えている。

 もちろん、荘子の中に老子的な部分があり、老荘思想として連続して語られることもまた正しいと私は考える。白川(1972)の時代においては、老子荘子に先立つものではない、と考えられており、老子荘子の発展であると捉えられていたが、帛書の発見からその説は正しくない、ということが分かった。つまり、荘子という人物に先立って孔子老子が存在しており、それらの思想をそれぞれ受け継いで反ノモス的な哲学を構築したのが荘子である、と見ることができるのではないか。

 これはあくまで私の根拠の薄い想像であるが、荘周死後の弟子たちは荘周の内なる老子的な部分を敷衍する一派、孔子的(顔回的)な部分を敷衍する一派などに分かれたのであないだろうか。『荘子』外篇雑篇にみられる老子的な部分や孔子的な部分がムラになって現れるのもこのような理由によるのではないか。しかし後世において『荘子』が老子の思想、あるいは仏教と結び付けられてとらえられるようになると、儒家的側面を称揚する考えは異端となっていった。ゆえに、儒教的側面を見出し実践した郭象は変節者あるいは自らの政治思想のために老荘思想を利用した政治家、と評価されたのである。

 そこで最後に郭象という人物についての評伝と後世の評価について概観して、上に述べた荘子の解釈者としての郭象を踏まえて、郭象という人物の旧来の評価に対して他の見方をあげる。

 晋書は、彼の人柄は弁舌には長けているが軽薄である、とする。さらに、東海王司馬越に取り立てられ高官となり権勢を内外に得た後、旧説(老荘思想)を捨ててしまった、とあり、また彼の荘子注も世に行われていなかった向秀の注釈に多少の加削を行ったに過ぎないと批判されている。

 この向秀の注釈を郭象が改変し自らのものとした、ということは『世説新語』にも見られ、当時一般に流布した言説であるということが伺える。

 しかし、この向秀の注釈は現代に伝わっておらず、この説を確かめる手段もない。

 この郭象が向秀の注を剽窃したという言説には異説もあり、『世説新語』の注に引用される『向秀本伝』では向秀は注釈を記さなかった、とあり、『文士伝』にはただ郭象が荘子の注釈を作ったとある。

 以上の記録からも郭象という人物が高い評価をうけていたとは言えない、と判断することができる。この低い評価の要因として、司馬越に抜擢された郭象が旧説を捨て去ってしまい、評判を落とした、という『晋書』庾峻伝の記述にあると考えられる。つまり、老荘思想を捨て去り現世の出世や政治に汲々とする儒家のような行動をとった郭象を当時の老荘思想家が批判したために、このような低い評価が与えられたということである。

 しかし、郭象の思想は旧来の老荘思想家とは一線を画するところにあったということは先に明らかにしたところである。郭象は自ずから然ることを徹底することが性であり、人間の性とは仁義である、と主張した。この世界において自ずから然る性は必然である。郭象は司馬越に取り立てられる前の郭象の性は、取り立てられた後にはもはや存在しない変容してしまった、と考えたのではないか。彼は旧説を捨てて権勢を求めたのではない。変容した性に従ったのではないか。黄錦鋐(1990)は郭象注を自らの政治論の依り代であり、荘子そのものは尽くされてはいない、と評価しているが、私はそれは荘子老子と結びつけようとする立場、あるいは仏教と結びつける立場からの見方であると考える。先に述べた孔子荘子の連続性を見たとき、郭象の行動はまさに彼が見出した荘子の思想そのものの実践のように私には映るのである。孔子儒教の創始者たるゆえんを白川(1972)は「述べて作らず」という祖述者として無主体的な主体の自覚の甘んじ、原点に立ち返りそこから新しい可能性を生み出す、という思想の運動の定式を生み出した、という点にある、とする。この思想の定式はなるほど春秋戦国時代において老子が『老子道徳経』を、墨子は『墨子』の一部を、孫子は『孫子』を自らの言葉として作ったことを踏まえると、儒家独自のものであるように見受けられる。もちろん、直接は儒家ではない荘子もまた「作る」人であったが、彼の内にあった儒教的側面を敷衍した郭象はこの運動定式の中にある。

 このように郭象注に示される思想と彼の伝記から、荘子儒家的部分を敷衍する実践者としての郭象像見出すことができるのではないだろうか。形而上に立ち返り形而下の実践との合一を目指す荘子をまことによく実践した人物としての郭象像を私は提示できるのではないか、と考える。

 

参考論文・文献

論文

黄錦鋐「郭象の『荘子注』について」『中国哲学論集』16 pp.1-7 1990-10-10 九州大学中国哲学研究会

楢崎 洋一郎「『荘子』斉物論篇における「彼」「是」の問題について」哲學年報 63 pp.133-153 2004-03-05 九州大学

橋本敬司「荘子胡蝶の夢――物化の構造と意味――」『哲学』51 pp.61-72 1999  広島大学

 

文献

目加田誠『新釈漢文大系 第76巻 世説新語(上)』1975 明治書院

原富男『現代語訳 荘子』1972 春秋社

白川静孔子伝』 1972 中央公論社

阿部吉雄『荘子』1969 明徳出版社

岸陽子『中国の思想12 荘子』 1980 徳間書店

赤塚忠『全釈漢文大系 第十六巻 荘子上』1974 集英社

中島隆博書物誕生――新しい古典入門 『荘子』――鶏となって時を告げよ』2009 岩波書店

福永光司『『荘子』内篇』 1978 朝日新聞社

森三樹三郎『荘子』1968 中央公論社

 

webサイト

房玄齡「晋書卷五十 列傳第二十 曹志 庾峻(子瑉敳)郭象 庾純(子旉)秦秀」ウィキソースhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B%E6%9B%B8#.E5.88.97.E4.BC.9D(参照2016-02-15).

イリ地方に生きたキルギス人たちの叙事詩「マナス」に描かれる中央アジア遊牧民から見た中央ユーラシア

①「マナス」に見る被支配側の視点

多くの場合政治史的に述べられる17世紀以降の東トルキスタン史に対して、視点をまず支配側から「被支配側」に移し9世紀にウイグルを滅ぼした後にキルギス可汗国を建国して以来、東トルキスタンを支配したカラ=キタイやモンゴル、カルマク(オイラトのことを指す。またカルムイクともいう)、ジューンガル、大清グルンに支配されたキルギス人の口承によって伝えられた叙事詩「マナス」に現れる彼らの歴史認識について見ていきたい。

「マナス」は八部約二十万行からなる長大な英雄叙事詩である。叙事詩の名称にもなっている「マナス」は叙事詩においてキルギス民族を統合したキルギスのハーンであり、この叙事詩全体ではマナス以下チクテイに至るまで八代の事績が記されている。叙事詩の構成は八部それぞれが以下の通りマナスから始まる八代と対応している。

 

第一部「マナス」

第二部「セメテイ」

第三部「セイテック」

第四部「カイニニム」

第五部「セイイト」

第六部「アスルバチャとベクバチャ」

第七部「ソムビリョク」

第八部「チクテイ」

「マナス」が生まれた時期に関しては諸説あり、それらの説が主張する発生時期は9世紀から17世紀と幅が広い。しかし、口承伝統であるという性質上、その内容は常に更新され続けてきたことは マナスがナポレオンと戦ったという即興部分が付加されたこともあった(奥村 1995)ことからも想像にかたくない。つまり、「マナス」は被支配者であったキルギス人によるイリ川地域の歴史を反映した叙事詩であり、ここに記されている出来事と本節で述べられたイリ川地域の歴史と対応させて見れば、マクロなレベルである中央ユーラシア史の場に生きる人々のミクロな実相を比較することで、本節で示されていることを理解する助けになると考えた。

 

キルギスの歴史

 

以下簡潔にキルギスの歴史について中国の正史の記述を中心として見ていく。

中国文献における初出は「史記」であり、キルギス人は当時の中央ユーラシアの覇権を握っていた匈奴に服属していたことが記されている。「漢書」にも同様の記述があるが、両者ともに具体的な内容は伴っていない。

ついで三国志の底本の一つである魏略はキルギスについて以下のように述べている。

 

 堅昆國在康居西北、勝兵三萬人、隨畜牧、亦多貂、有好馬 (「魏略」西戎伝)

 キルギス国は康居の西北にあって、動員できる兵数は三万、家畜を従え、彼らは貂の皮を多く算出し、良馬がいる

 

「周書」には突厥と並んで契骨(キルギス)の起源に触れている部分がある。「北史」にも同様の記述があるが、成立年代を見れば「周書」を引用したものであろう。また、当時のキルギス突厥あるいは鉄勒に従属していたとされる(高橋 2001)

 

或云突厥之先出於索國、在匈奴之北。其部落大人曰阿謗步、兄弟十七人。其一曰伊質泥師都、狼所生也。謗步等性竝愚癡、國遂被滅。泥師都旣別感異氣、能徵召風雨。娶二妻、云是夏神、冬神之女也。一孕而生四男。其一變為白鴻、其一國于阿輔水、劔水之間,號為契骨、其一國於處折水、其一居踐斯處折施山、卽其大兒也。山上仍有阿謗步種類、竝多寒露。大兒為出火溫養之、咸得全濟。遂共奉大兒為主、號為突厥。(後略) (「周書」 異域伝)

ある人はいう。突厥の先祖は匈奴の北にある索国から出ている。その部落の大人は阿謗步で、彼には兄弟が17人いた。その1人は伊質泥師都といい、オオカミから生まれた。阿謗步たちの性格は総じて愚痴であったので、彼らの国はついに滅ぼされた。伊質泥師都は異様な気を感じることができるだけではなく、風雨を操ることができた。彼は夏神、冬神の娘を娶った。そのうち1人は4人の男を生んだ。その1人は白いおおとりに変じた。その1人は阿輔水と劔水の間に国をつくりキルギス国と号した。その1人は處折水に国をつくった。その1人は踐斯處折施山にいた。それがすなわち大兒である。山上には阿謗步の遺民がいて、総じて寒さと露にあった。大兒は彼らのために火の温もりをもってこれを養生させ、すべて救うことができた。そのため、ついに彼らは大兒を共に君主として奉戴し、突厥を号した。

 

キルギスウイグルを滅ぼして一時、覇権を確立した9世紀の事績を記した「新唐書」においてはキルギス人の事績について、伝は立てられていないとはいえ、まとまった記述がある。これによるとキルギス人は牧畜なども行う農耕民であるとされる。

稼有禾、粟、大小麥、青稞、步硙以為面糜。穄以三月種、九月獲、以飯、以釀酒、而無果蔬。(「新唐書」回鶻下)

(キルギス人は)イネや粟、大小の麦、ハダカムギ、步硙をひいた粉とする。三月に種をまき、九月に収穫して、飯や酒を醸すのに用いる。果物や野菜は作らない。

 

また、キルギス人の風貌については以下のように、白人の特徴を示していて、現在のキルギス人との違いが強く示唆されている。

 

人皆長大、赤發、皙面、綠瞳、以黑髮為不祥(「新唐書」回鶻下)

人の身長は高く、赤い髪、白い顔、緑の瞳で、黒い髪はめったにみない。

 

 キルギス人はエニセイ川上流で牧畜・農耕をしていたが、ウイグルが衰えると可汗を名乗った阿熱という指導者の元、吐蕃との戦いで国力を弱らせていたウイグルを打ち破った。阿熱は唐にウイグルの残党を討つことを願い出て、そこで武宗は右散騎常侍李拭をキルギスに派遣し阿熱を宗英雄武誠明可汗に冊封しようとしたが、武宗が冊封をする前に崩じたので、その後を継いだ宣宗が847年に鴻臚卿李業を代わりに遣わして英武誠明可汗を冊封した。(「新唐書」回鶻下)

 

 こののち、キルギス可汗国は一時期強勢を誇ったが、10世紀初頭に契丹族に征服され、属国となった。1124年に金に遼が滅ぼされるとヤルート・タイシはキルギスに対して徹底的な略奪を加え、さらに西進してカラ・キタイを建国してからもたびたびキルギスへ出兵した。

 モンゴルが強勢になるとキルギス人はモンゴルに従い、モンゴルの勢力が衰えるとオイラトと親密な関係を結んだ。(高橋 2001) ジューンガルがジュンガリアの盟主となると、ジューンガルはたびたびキルギスの地を攻撃し、支配下に入ったキルギス人はジューンガル軍のブルート人と呼ばれ砲兵として従軍した。(宮脇 1995) 1688年に南モンゴルに移った外ハルハを追って南下したガルダン率いるジューンガル軍は北京北方のウラーン・ブトンにて戦ったが、ジューンガル軍の装備する大砲の打ち合いによって決着がつかなかった。(今谷2000) 直接キルギス人がウラーン・ブトンの戦いに参加していたことを示す史料は存在しないが、戦いに砲兵が参加していたことをふまえると、キルギス人がこの戦いに参加していた公算は大きい。

 ジューンガルが滅ぼされるとキルギス人は清朝あるいはコーカンド・ハン国の支配下にはいり、19世紀にはコーカンド・ハン国がロシア帝国に併合され、キルギスもまたロシアの版図に入った。そして、ロシア革命を経て自治州となり、1936年にキルギスソビエト社会主義共和国となり、1991年に現在のキルギスタン共和国が成立した(93年にキルギス共和国へ改称)。

 

③「マナス」から見た中央ユーラシア

 

 キルギス人の歴史を称して高橋(2001)は「被支配、被圧迫の歴史のすさまじさに驚かされえる」とし、しかしながら一度は栄光を経験した歴史の中で「マナス」は醸成されたのだとしている。このマナスには「キルギス人たちの生活様式、習俗、道徳、地理、宗教観、医学知識、そして彼らの国際関係がこの巨大な叙事詩の中に反映して」(奥村 1995)おり、先述した中央ユーラシアの要衝に生き抜いたキルギス人の歴史とこの「マナス」を合わせてみていくことにはマクロの視点ではわからない具体的なミクロなレベルの中央ユーラシア史を解き明かす一端としての意味がある。

 「マナス」は「マナスチ」と呼ばれる語り手によって、基本的には文字に記録されることのなく口承される叙事詩である。アディル・ジュマトゥルディ(2010)によれば、「マナス」のテキストは記録されているだけでも150種に上り、その歌う状況、あるいは聴衆によっても話の詳細は一回一回異なるが、しかしながら、その基本的構造はトゥルク語系民族による叙事詩と同一の以下のような構造をもっている。

 英雄の特異な誕生――苦難の幼年時代――若くして功をたてる――妻を娶って一家をなす――外地への遠征――地下への侵入(あるいは死んで復活する)――災いにあう故郷――敵に殺さる(あるいは簒奪者が懲らしめられる)――英雄の凱旋(犠牲)

 このような構造の同一性と並んで、伝承に由来する「類型化」された語句をマナスチが紡ぐことによって「マナス」という叙事詩は維持されており、一方で「語り」を行うたびに「マナス」は再創作され、その時々と聴衆に見合った要素が入ることによって「マナス」は完成する。

 このような「開放的で開かれた体系」であるから、「マナス」には時たまに奇妙ともとれる要素が入ることがある。先述のナポレオンとマナスの戦いもその1つである。しかし、それこそが「マナス」を「キルギス人のエンサイクロペディア」(奥村 1995)たらしめた理由であろう。

 この「マナス」そのものの内容は事実とそうでないものが混ざっている、ということを「マナス」冒頭で「半ば真、半ば偽り」(西脇 2011)とすでに宣言している。「マナス」の中の出来事を歴史的な事実を直接明らかにするために用いるべきではないが、歴史を考える上の傍証として用いることにはある程度の意味があるのではないか。

 以下に高橋(2001)が紹介した第一編「マナス」のあらすじを紹介する。

 

序詩開篇、キルギス族の族源とマナスの先祖について述べる。マナスの父親チャクプははじめ子どもがなかったので、是非ほしいと願っていた。当時キルギス人を支配していたカルメイック人(オイラト人)の中に有名な占い師、ランコタクが居り、彼はキルギス人の間に一台の英雄マナスが生まれると予言する。カルメイックの王アラオケは其れを聞いて激怒し、手当り次第にキルギス人の妊婦の腹を割いて調べるという暴挙を行ったが、多くのキルギス人に守られてマナスは生まれた。マナスは飛ぶように速く成長して怪力無双の好漢になった。9歳で40人の勇士達を引き連れ、弱きを助け貧しきを救い、暴虐を除き、正しきを安んじ。タシクルガン・カシガル・ウルムチ・アフガンにまで遠征して、14汗王の部落と同盟を結んでキルギス人の汗王首領となった。またカニカイ公主と結婚した。攻めてきたカルメイックのコングルパイを打ち負かした。キタイ人(契丹人のことと言われる)のアリマンペトックと義兄弟の契りを結んで、最後にペイチン(嘗てトルフアンの郊外にあった北庭、つまりベシバリクのことと言われる)をうって大勝したが、其の時の気の緩みに付け込まれて、敵の毒斧を後頭部に受け、重症のままタラスに帰ってから死去した。(高橋 2001)

 

さて、まず、キタイ人とは契丹人であるのか、それとも漢人のことであるのか。それはマナスが語られる場面によって変わっていったとみることができる。しかし、近代のマナスチたちは、このキタイ人のことを明確に中国人であると認識して歌っていたというのは、以下の「ペイチン大遠征」を巡る論争から明らかである。

奥村(1995)は「マナス」のクライマックスである大遠征の先である「ペイチン」をベシバリクではなく北京のことであると明言していて、この架空の「北京大遠征」のために社会主義共和国時代キルギスでの「マナス」は中ソ友好にとって問題があるとしてキルギス共和国の最高権力と科学アカデミーの間に会議がもたれたが、結局「マナス」擁護派が勝利して、会議の帰趨を心配した数千のキルギス人たちが「マナス」を大合唱しながら村落へ帰って行ったというエピソードからも、少なくとも近代において、この「ペイチン大遠征」は「北京大遠征」という文脈で歌われた。

また、若松(2003)はこの「クィタイ」を最初のマナスチたちは遼であると解釈し、次時の時代のマナスチたちはカラ・キタイであると解釈し、そののちの時代のマナスチたちは中国であると理解したとする。そして、これらの共通点はキルギス人を支配した民族であるということであり、これらの東からの圧迫が、反実仮想的に「マナス」の遠征へとつながっていった。

 さて、中央ユーラシア史という視点に戻ってこの「マナス」を見たとき特徴的な点は以下の4点である。

 

 ①その悲劇性

 ②豊かな国際性

③東から来る敵

 ④クライマックスとしての「北京大遠征」

 

 ①その悲劇性

 若松(2005)はマナスがその物語の最後において悲劇的な死を遂げるというのは他のトゥルク系民族の叙事詩には見られない特徴であるとするが、坂井(2006)はトゥルク系民族の叙事詩には英雄の悲劇的死は比較的よくあることであると批判している。しかし、この悲劇的死を遂げる英雄というモチーフがキルギス人の苦難を象徴しているという若松(2005)の意見は中央ユーラシアの要衝を生き抜いたキルギス人によって作られた「マナス」という叙事詩をみる上で重要なものである。

②豊かな国際性

先述のソ連時代のマナス擁護者たちはマナスの国際性を取り上げて擁護に努めた。「マナス」の登場人物には中国人、オイラト人、カザフ人、タジク人など天山地方を行き来した多くの民族が含まれている。この中央ユーラシアの特質である民族的多様性と流動性の高さは「マナス」の中にも強く反映されている。

③東から来る敵

 「マナス」においてキルギスに攻め入る敵が来る方向は常に東である。これは、中央ユーラシアの民族移動が東から西へ行われていたことを、ミクロ的な視点においてもキルギス人たちは認識していたことを示す。中央ユーラシアのマクロな動きをキルギス人たちは叙事詩の中において認識していたのである。

 ④クライマックスとしての「北京大遠征」

 この「北京大遠征」は採録によっては存在しないこともある(奥村 1995)が、紛れもなく叙事詩「マナス」においてこの軍事行動は紛れもなくクライマックスであり、その壮大さのために全くの作り物語であるとみる論者が多い。(若松 2001:奥村 1995) しかし、この「北京大遠征」を奥村(1995)はウイグルを滅ぼした記憶あるいはジヤアンゲル・ハンの反清暴動が背景にあるとみているが、しかし、さらにこの「北京大遠征」にふさわしい出来事があることに気づかされる。1688年のジューンガル軍と清軍が北京北方のウラーン・ブトンにて衝突した戦いにおいて活躍したジューンガル砲兵の担い手はブルート(キルギス)人をはじめとするブハラ人たちではなかったろうか。

 さらに実際に北京大遠征の一節に目を通してみると、戦闘描写の生々しさもさることながら、伝統的な遊牧民の騎兵は用いないさまざまな火器が登場する。「コイチャグル銃」「スィル・バラン銃(フリントロック銃)」「アクケルテ(銃)」など、それらは英雄たちが用いる名のある得物の一つとして高い扱いを受けている。アクケルテ銃の描写をマナスチは「遠くも近くも変わりなく、遠くも近くも区別なく、百発百中、銃身は鋼鉄、銃口はダマスカス鋼、硝煙は濃霧、銃床はイスファアン製、照星は恐怖の的、弾丸は死、これぞ聖なるアクケルテ」として、この一斉射とともに大砲、小銃の射撃が続いたのち、騎兵が突撃する。(若松 2003)随所に叙事詩らしく、英雄の突撃や魔法などが織り込まれているものの、この戦法は17・18世紀のジューンガルのそれである。

 これらの叙事詩が記録された年代とウラーン・ブトンの戦いは200年の時を経ていて、これらの出来事が叙事詩の中に定着していてもおかしくはない。以上のさまざまな情報をから、ウラーン・ブトンの戦いに北京遠征のモチーフがあるのではないか、と私は考える。

 

 以上、「マナス」というミクロの視点から中央ユーラシア史的事実を見出し、その深い理解を行うために4つの点を指摘し、これを検討した。

 

○参考論文・文献

史料

三国志」魏略 西戎

「周書」異域伝

「北史」突厥

新唐書」回鶻伝下

 

論文

 西脇隆夫「中国におけるキルギス族英雄叙事詩「マナス」の研究」『中国』 (8) pp.268-276  1993-06 中国社会文化学会

奥村剋三「キルギスタン叙事詩『マナス』と辺境の知識人」『立命館経済学』44(4・5)  pp.653-661 1995-12 立命館大学経済学会

 高橋庸一郎「中国北方少数民族伝承文学概説(六)-キルギス族英雄叙事詩「マナス」(上)」

『阪南論集 人文・自然科学編』Journal of Hannan University Humanities & natural science 36(4) pp.1-8 2001-03

 高橋庸一郎「中国北方少数民族伝承文学概説(七)-キルギス族英雄叙事詩「マナス」(下)」『阪南論集 人文・自然科学編』Journal of Hannan University Humanities & natural science 37(1・2) pp.29-38 2001-09

 ジュマトゥルディ・アディル 西脇隆夫訳「翻訳 英雄叙事詩「マナス」の特色」『名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇』47(1) pp.71-82 2010-07 名古屋学院大学総合研究所

 坂井弘紀 書評「若松寛訳, 『マナス 壮年篇-キルギス英雄叙事詩-』, (東洋文庫 740), 平凡社, 二〇〇五・七刊, 全書判, 四一二頁, 三一〇〇円」『史學雜誌』115(2) pp.242-243 2006-02

 西脇隆夫「キルギス族英雄叙事詩「マナス」第一部(一)」『名古屋学院大学論集 言語・文化篇』THE NAGOYA GAKUIN DAIGAKU RONSHU; Journal of Nagoya Gakuin University; LANGUAGE and CULTURE 22(2) pp.98-112 2011-03

 

書籍

護雅夫 岡田英弘編(1990)『民族の世界史4 中央ユーラシアの世界』山川出版社

宮脇淳子(1995)『最後の遊牧帝国―ジューンガル部の興亡』講談社

若松寛(2001)『マナス 少年篇―キルギス英雄叙事詩平凡社

若松寛(2003)『マナス 青年篇―キルギス英雄叙事詩平凡社

若松寛(2005)『マナス 壮年篇―キルギス英雄叙事詩平凡社

今谷明(2010)『中国の火薬庫—新疆ウイグル自治区の近代史』集英社

 

 

学園祭の話2

2. 学園祭実施に向けた学生自治組織の結成

 学園祭実施の機運が高まった1974年の段階においては、大学側の非政治化方針とわずか742人という学生の少なさから、他大学では往々にして学園闘争の中心となった学生の代表機関としての自治会的組織を持たず、各学類・専門学群ごとに設けられたクラス単位における担当教官と学生間の意見交換をもって学生の意見を集約するという簡素な形式をもって学生と大学側の交渉がなされていた。

 しかし、一方で学園祭実施を望む学生たちは、全学的な学園祭を実施するための準備組織として有志によって、まずサークル代表の有志たちが学園祭の実施の検討を始め、学園祭の全学化のためにクラス代表にも学園祭実施検討への参加を呼びかけ「クラス代表者会議」が10月14日に組織され、「サークル代表者会議」と「クラス代表者会議」の合同機関である「サークル・クラス代表者会議」と実務機関として「学園祭実行委員会」が同年中に組織された。これらの経緯を踏まえ、第一回学園祭実行委員長は筑波大学学園祭の当初の目標として、

1、全学生参加による交流ある学園祭

2、クラブ・サークルの活躍を公表する学術文化の場

3、現在大学の置かれている複雑さに対し、新しい、新しい構築すること

の三点を掲げ、第一回学園祭実施に向けての実務を取り持った。

 実行委員会設立時点においては「クラス代表者会議」は学園祭を実施するための連絡機関としての色合いが強かった。しかし、1974年末、二期生入学を控えて学生宿舎の空き部屋が不足したことにより、一部一期生の退去が強制されたことを発端として起こった「宿舎問題」においてクラス代表者会議は学生側の「4年間希望者全員入寮」要求の運動の中心となり、大学側との折衝、署名活動を行った。

 この当初は学園祭実施のための学生のサークルを基礎とした自主組織だったクラス代表者会議は「宿舎問題」を契機として、大学に対する学生自治組織としての性質を帯びるに至ったのである。これに対して、従来の非政治化方針を継続しえなくなった大学側は1975年3月20日に「クラス制度に対する申し合わせ」と「筑波大学学類(専門学群)連絡会議要項」(旧綱領)を決定し、4月に「75学生綱領」を発表。これまで学生による非公認組織であったクラス代表者会議を公認し、交渉のレベルを2段階に分割し、学生側には全学レベルの「全学類等代表者会議」と従来の学類レベルの「クラス代表者会議」を組織させ、大学側はそれぞれ全学レベルの「厚生補導審議会(教育審議会)」と学類レベルの「学類教員会議」を対応させ、それぞれの間で「懇談会」、「学類クラス連絡会議」を意見交換、折衝の場として設定したのである。また、開学以来のクラスと担当教官による意見交換、折衝の場も並存させ、現在まで継続するクラス・学類・全学の三段階からなる学生組織は完成した。以降、この「学生」と「大学」を対立するものではなく、共同するものであるとする建学の理念に基づく「まったく新しい考え方にたつ学生の自主的組織及びこの学生組織と大学運営責任者との連絡、交流の場」とされる従来の大学の学生自治会とは大いにその性質を異にする学生・大学関係を基礎とする「代表者会議体制」は以降の筑波大学の学生と大学の関係における基本的な枠組みとなった。

 この代表者会議体制成立によって全学類等代表者会議(以下、全代会)はクラス代表者会議(以下、クラ代)の上部組織であるだけでなく、実務機関である学園祭実行委員会の大学側との折衝の役割を担うこととなった。また、代表者会議体制において「サークル代表者会議」は全学・学類・クラスの系統とは別に、1976年に学生サークル自治組織として総称して「三系」と呼ばれる「文化系サークル連合会」「芸術界サークル連合会」「体育会」が正式に発足し、それぞれ団体間に関わる問題や後援組織である紫峰会に関する問題を討議する「課外活動団体会議」と大学側との折衝を行う「課外活動連絡会」による学生・大学関係のもう一つの基礎的枠組みとなり、この体制もまた現在にいたるまで継続している。この「代表者会議体制」における学生・大学関係においては、大学側との折衝が主要な役割である全代会と学生自治組織としての役割が強い三系の二重性が存在し、これらは併存し現在に至っている。

 

3. 第一回筑波大学学園祭「紫桐祭」

 

 一方、「宿舎問題」が表面化するなか、学園祭実行委員会(以下、学実委)は1974年12月10日に大学側から正式な組織として認められた。しかし、翌年75年の「代表者会議体制」発足に伴って、全代会は小規模な実務組織であった学実委に対する監査委員(後の学内行事委員会)を設けることで学実委の全学性を担保し、大学側は学園祭を大学の正式な行事として公認する条件として、

1、筑波大学の建学の方針に沿い、建設的な内容のものとすること

2、単なる遊びや祭り騒ぎに終わらないこと (のちに、単なる娯楽に終わることなく創造的で知性に富んだ学園祭であること、に変更)

3、最終的な企画を決定する前に、大学側と十分な協議をおこなうこと

の「三条件」を掲げ、大学側の「教育的指導」を受け入れることを求めた。

 この開学当初以来の非政治方針をもって、政治性が現れる可能性の高い学園祭実施に対して強硬に対応した大学側に対して、学実委はこれらの「三条件」に抵触すると大学側から企画中止を求められた「文教政策についての五党討論会」「福田信之副学長と生越忠氏による大学問題に関する討論会」「歴史学者和歌森太郎と生物学者江上不二夫氏による講演会」の学実委実施企画(以下、本部企画)の実施を巡って、全代会と共に連日に渡る交渉を行ったが、大学側は学園祭に関する事務を一切受け付けないという強硬方針をとった。そのため、学実委は「学園祭実行」の方針の維持のため、これら3企画を中止・内容変更を行い、これをうけ大学側も学園祭の実施を承認した。この学実委の大学側への妥協は学生の自治管理による学園祭実施に対する要求あるいは妥協した学実委への批判を強め、そのため翌年以降学生・大学ともに強硬化し、1980年を頂点とする学生・大学間の対立の契機となった。

 第一回学園祭は1975年11月1日から3日にかけて開催された。この第一回学園祭のみは例外的に「紫桐祭」(しとうさい)と校章をモチーフとした仮の名称が付けられた。第一回学園祭の予算規模はおよそ100万円(この歳に関して決算書の存在を確認することができない)で、その大部分は学生の分担金の収入に依拠していた。また、当時の企画数は40程度であり、学生の総数も現在の10分の1程度であり、予算規模、企画数などおよそすべての面において、第一回学園祭は現在の学園祭の10分の1程度の規模であったことがわかる。企画の特徴としては、これは70年代80年代に共通する特徴ではあるが、学類主催の学術的企画の比率がサークルなどによる模擬店企画に比して、現在と比べて非常に大きかったことが挙げられる。

 このような紆余曲折の末に開催された「紫桐祭」は「死闘祭」と当て字され、中止に追い込まれた諸企画に対して、学園祭後一分間の黙祷が捧げられた。また、この後、正式な学園祭の名称として筑波山をモチーフとした「雙峰祭」が、1976年以降2016年の第42回学園祭に至るまで採用され、「紫桐祭」の名称はただ一回のみのものとなった。

学園祭のはなし1

  1. はじめに

 1974年最初に筑波大学が入学者を迎えたその年から現在にいたる40有余年の伝統をもつ筑波大学学園祭は、実にそれぞれの時代の世相あるいは「新構想大学」たる筑波大学とこれをとりまく「研究学園都市」という特殊な立地条件を反映した様相を呈してきた。従来の大学教育に対する国家の教育行政による「壮大な実験」のために生まれた筑波大学の歴史はすなわち、この建学の理念にも色濃く反映されている「壮大な実験」の結果に他ならず、2004年の国立大学の法人化以降、大学における網羅的で重厚な学術研究、特に基礎科学といわれる部分の今後が取りざたされるなか、建学の基本計画に「創造的な知的生産を目的とし、諸科学の調和をとれた研究・教育体制のもと、総合的な研究開発に重きをおく」とし、基礎応用を融合した学問的総合を目指して建学された筑波大学の歴史の反省はすなわち、情報通信技術の進歩、特に個人用コンピューターやスマートフォンの普及によってインターネットが大衆の手のもとに開かれたことによって「教養」が持つ権威が失われつつある現代において次第にその影響力が強まる即物的な「実学主義」に対する検証なのである。

 この筑波大学の歴史を語るうえで、大学の教育機関という側面、すなわち「大学と学生」という側面から歴史を見ることは、大学の研究機関という面に目を向け、その成果をはかることと同程度に重要な要素であるということは、大学というものの研究教育の二元性から見て当然である。この「大学と学生」の視点から見た筑波大学の歴史は「大学と学問」という視点から見たそれと、時代、土地、ヒトを同じくするものであり、両者は実に密接な関係を持っている。その「大学と学生」の筑波大学史を記すにあたって学園祭に対して触れずにいることは不可能なほどの重要な要素である。

 無論、このわずか40年あまりの伝統しか持たない筑波大学学園祭を歴史的叙述に対象とすることを適当であるとみなすことは困難である。しかし、10年後、20年後にこの学園祭の歴史を記そうと試みる人の問題意識の一端として、この試論がある意味において史学史的な意義を持つということを期待し、さらにはこの伝統について知ろうと欲する人に対して完全に網羅的ではないにしろ、体系化された叙述をすることで、ある程度の便を与えることができるだろうと思い、これまでに集めた資料をまとめ、これをもとに学園祭の来し方を概観することを試みる。

 

  1. 開学当初の問題と宿舎文化

 1973年に開学式典が開かれ、翌1974年に最初の学生を迎えた筑波大学は実質的に開学したが、当時の筑波山麓地域は未だ開発の手がほとんど入っていない「開拓地」と呼べる状態であったと当時の学生は記録している。この「開拓地」に入った筑波大学の学生は、東京など大都市に住む学生のように大学周辺に下宿することが、大学周辺の受け入れ先の少なさのため困難な状況であり、学生のほとんどは大学が設けた学生宿舎に入居することとなった。大学内においてすら、多くの施設が未完成であった1974年の段階において、大学周辺には娯楽施設どころか身の回り品をそろえるための商業施設すらまともにないという状況であった。この当時の学生をして「工事現場」と言わしめた開学当初の筑波大学の学生にとっての最初の一年を象徴する存在は「学生宿舎」であった。都市部に基盤をもつ他大学には見られない濃密なコミュニティーは「筑波」独自の学生文化を生む素地となった。「生活共同体」である学生宿舎において生まれたこの独自の学生文化は、初代学長三輪知雄の示した筑波大学の「政治運動の禁止」方針とあいまって、当時吹き荒れていた「学園闘争」の嵐は、開学直後の筑波大学とはまるで縁のないものとなっていった。「アジとビラ」に象徴される当時の一般的な大学生活は、筑波大学においては「土と緑」に象徴されたのである。この開拓地生活における学生たちのエネルギーは、政治運動と隔離と周囲における娯楽の欠如から、サークル活動あるいは「祭り」の開催へと向かっていった。当時の学生のサークル加入率は149%であり、現在と比較してもその高水準がうかがえる。そして、この学生たちのエネルギーは1975年の第一回学園祭、翌1976年の第一回宿舎祭、1974年から始まった体育会結成の動きを嚆矢とする文化系、芸術系、体育会の三系と呼ばれるサークル連合の発足、体育会発足と連動して生まれた学生保護者による後援会である紫峰会の発足へと向かっていったのである。これらの現在の筑波大学の学生文化の基礎を築いた宿舎文化は、周辺地域が発展した現在では失われてしまった文化であるが、この文化の象徴たる宿舎祭は、入学間もない一年生をはじめとする学生と地域の住民たちとの交流親睦の機会となり、毎年の年中行事として定着している。

 そして、学生にとって最大の年中行事といえる学園祭は、宿舎文化の最初の結実であり、その開催に至るまでの道のりは当時の学生活動の一典型とみることができる。しかし、この学園祭へ向けた動きは、その当初から「政治性」の問題が生まれる萌芽が存在し、このために開学当初の宿舎文化はしだいに変質を余儀なくされたのである。 (つづく)

ハザールの西進とブルガールの分裂(ブルガリア史③)

 ここまでアヴァールについて語ってきた。

 ここで、ブルガールに話を戻す。

 アヴァールを西に追ったクプラトは、本拠をシルクロード世界の交易との接続に有利な北コーカサスからアゾフ海沿岸に置き、友好国であるビザンツの支持もと西のアヴァール、東の突厥と対抗し、周辺の遊牧民を糾合した。

 このクプラト率いるブルガールを中心とする政治集団を「古き大ブルガリア」あるいは「オノグル・ブルガール」もしくは単に「大ブルガリア」と呼ぶ。

 一時は突厥アヴァールと並ぶ大勢力となったブルガールであるが、クプラトが死没する前後から東の突厥から分離した突厥可薩部、すなわちハザールが西進、ブルガールに圧力を与えるようになっていった。ハザールはクプラトという強力な指導のもとにあったブルガールにとっても脅威ではあったが、それはブルガールを崩壊させる決定的な要因となることはなかった。

 クプラトが死没すると状況が一変した。東方のハザールへの対応において、クプラトの5人の息子たちの意見が対立したのだ。

 5人の父親はその死にあたって、息子たちにこう語った。

「危機に団結せよ」

 その言葉を忠実に守るべく、クプラトの領民を分割相続した5人の息子たちは一つのユルタ(遊牧民のテントのこと)に集まって、ハザールの圧力に対抗するべく議論を重ねた。

 長子バトバヤンは、たとえハザールに服属することとなっても、父祖の地を守って、ハザールと戦うべきだ、と主張した。

 次子コトラーグは、争いを避けて北東へのがれ、再起を図るべきであると主張した。

 三子アスパルフは、ドニエストル川の南岸まで西進し、ドナウ川の南側にある友好国ビザンツと連合するべきであると主張した。

 四子アルツェクは、「グレク(ギリシア)人たちは信用ならない」として、かつての宗主アヴァールを頼るべきだと主張した。

 五子クベールは、アヴァールビザンツのいずれも頼ることができるよう、両者の国境付近にのがれようと主張した。

 議論はついに一つに決せず、父の遺訓を破ることもやむなし、として各々がそれぞれの部民を率いて、信じる最良の方策をとることを定めるにいたった。

 以下、簡潔に5人の息子たちのたどった道筋を見ていく。

 分裂したブルガールのうち、黒ブルガールと呼ばれるバトバヤンの集団はハザールとの抗争に敗れ彼らの従属民となり、歴史の表舞台から姿を消した。

 コトラーグの領民たちは争いをさけて、ヴォルガ川の上流へのがれ、ハザールに緩く従属し、やがて従来の遊牧生活を放棄し、牧畜農耕に従事し、シルクロード世界と北欧を結ぶヴォルガ川水運を支配し、そこから利益を得た。彼らの政権を一般に「ヴォルガ・ブルガール」と呼ばれ、13世紀ごろまで繁栄し、彼らの子孫は現代のチュバシ人とされ、彼らが話すチュバシ語はブルガール語の唯一の末裔として、学者の注目を集めている。彼らに関する記録としては、ハザールが衰退の兆しを見せ始めた10世紀前半に彼らの支配から脱却しようとこころみた首長アルムシュが新たな同盟相手としてアッバース朝との関係を模索し、アッバース朝からの使者として派遣されたイブン・ファドラーンが記した「報告書」(日本では『ヴォルガ・ブルガール旅行記』として知られている)がある。その「報告書」のうちには、ヴォルガ・ブルガールやルーシ人、ハザール人など周辺の民族の風俗などの情報があり、当時の黒海北岸草原からヴォルガ川流域の状況が明らかにされている。

 アスパルフ率いる領民は、現在のトランシルバニアあたりに移動し、やがてドナウ川を渡り、681年、同地のスラブ人と連合してビザンツ領内に政権を確立した。これが現在のブルガリア国家の原型である。

 アルツェクの領民たちはアスパルフたちよりも早い時期にビザンツ領内に入り、アドリアノープルの城壁に迫ったが、彼らの軍事力ではビザンツの都市を陥落させることができず、やがて周囲のスラブ人たちと同化していった。

 クベールは、アヴァールを頼って西進したが、結局アヴァールの本拠地であるパンノニアからランゴバルト人たちともの南イタリアにのがれ、9世紀ごろまでは独自の文化を維持した。

 彼らのうち、もっとも成功したのはアスパルフ率いる集団であった。以降、彼らがブルガールで最も強力な勢力として、アヴァール、ハザールそしてビザンツと対等に渡り合い、ヨーロッパにおいて、フランク、ビザンツに次ぐ第三の勢力となっていくのである。

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図 大ブルガリアの分裂とアスパルフとコトラーグ(コトラグ)のブルガール集団の移動

 

孔子以前の儒教

 以前から何度か言及している秋山好古の名前である「好古」は以下の論語の一節に由来している。

子曰、述而不作、信而好古、竊比於我老彭(述而)

 この有名な一節は、現代ではその重点を「述而不作、信而好古」の部分に重点を置いて解釈されているが、この一節を儒教というものの歴史を明らかにするという立場で見た場合、この一節の重点はその後半におかれる。すなわち、孔子が私淑したという「老彭」とは一体何者なのか、孔子が創始したとされる儒教とそれ以前のプロト儒教の関係はいかなるものであるのか。すなわち、中国思想の主要な潮流をなした儒教孔子を前後としてどのように変わっていったのか、これをこの一節から明らかにしていこうというのである。

 我々は常識として儒教孔子がはじめたものである、と考えているが、この一節から孔子は明確に自ら以前の伝統の後継者であることを意識していたということがわかる。それでは、一体、孔子はどのような存在の後継者であるというのか。

 孔子は「儒」という伝統のうちにある多くの人の一人であったと考えれる。その孔子の伝記から分かることとして、孔子の母は「儒」であり、彼が若い時代からおよそ40代に至るまでのほぼその前半生ともいえる長い期間、孔子は「儒」として生きてきたのであり、その後も「儒」としての伝統のもとに生き、それを基礎として自らの教えを祖述している。

 それでは、「儒」とは何者か。

 「儒」とはシャーマンである。

  白川静、あるいは加地伸行によれば、「儒」のうち「需」とは頭蓋骨を被った人間の意味であり、許慎の「説解文字」によれば「雨を而(ま)つ」、つまり雨乞いの意味であり、どちらにしても「儒」とはシャーマンと呼ぶことのできる性質をもっていた人物であるということがわかる。

 昔、歴史に残らない時代、すなわち先史時代から存在していたシャーマン的な伝統に従事していたシャーマンを「原儒」という。この「原儒」は葬儀や占いなどといったことを取り扱っていた。しかし、身分が分化し、支配層と被支配層が発生すると、「儒」は、それぞれについて二層化していった。それらを指して、巫(ふ)と史(し)祝(しゅく)という。

 「巫」は主に祭儀に従事するシャーマンであり、巫の字は、呪具(工)を持つ人という形を示す。彼らは主に、民間の祭儀と関係をもっていた。

 「史・祝」は占いに従事するシャーマンであり、史の字は、祝詞を収める器(口)を持つ人という形を示す。彼らは主に、支配者と関係を持っていた。

 

 「巫」はその性質として需要が大きかったために「史・祝」と比較すると比較的多くの人口がいたが、「呂氏春秋」によると共通の祖神として医を創始した「巫彭」、筮を創始した「巫咸」を想定し、一つの擬似的血縁関係を持っていたとされる。この「巫彭」「巫咸」の伝統を直接継ぐ、「彭氏の巫、咸の巫」と呼ばれる巫が春秋戦国時代にも存在していることは、「書」すなわち書経や「荘子」が伝えている。

 孔子の母は巫であった。これを踏まえると「比於我老彭」の老彭は伝統的な巫である「彭氏の巫」のことを示しているとみることができる。「老」とは尊称であり、「老彭」とは「彭氏の巫」のうち優れた「巫」の尊称であるとみることができる。

 これらのことは、孔子の出生以外からもその教えから見て取ることができる。巫のうち、葬礼、祖先祭祀に深くかかわった人物、あるいは家系を「儒」と呼ばれ、これらの伝統は儒教の「礼」に色濃くのこっている。「礼記」の記述の多くは「葬礼」にかかわるものである、ということもこれを示唆しよう。                     

 

 一方の「史」は、もとは占いなどに従事していたシャーマンであると考えられるが、政治を行う階層と結びついた一種の知識人へと変化していった。史と同様に扱われていた「祝」も、占いに従事していたシャーマンであるが、孔子の時代にはすでに衰え祭儀を行うシャーマンとなり(巫祝)、祝の役割は史が担っていた。

 周代の金文には「大史・大祝」とあり、これらは周王朝創業当時の最高聖職者をしめしている。このうち大史は召公の家系がこれを継ぎ、大祝は周公の家系がこれを継いだ。すなわち、かの有名な周公旦は実際には、周王朝における「大祝」と呼ばれる最高聖職者であったということなのである。

 この史は、支配者層にあって有職故実や故事、神話に通じ、その保護を担った集団・人物として記録に現れる。この史が保持した記録を「書」、「詩」と呼び、これらの記録が後世の学者によって整理され「書経」「詩経」という形になったのである。

 これらの記録を残した史の意識というものは激烈なもので、記録・伝統の保持のためには自己投棄すらおしまないほどのものであった。以下の記録に関するエピソードは、史の記録にかけた激烈な自己犠牲精神を表すものである。

 「斉の崔杼、その君、光を弑す」(春秋 襄公25年)

 この記録を残そうとした斉の大史は崔杼に殺され記録を抹消されかけたが、その弟がさらに記録し、この弟も殺されたが、さらにその弟が記録を残し、しかし、その弟も殺されてしまうが、4人目の弟にいたって記録を残すことに成功した。

 この史が残した記録群を取りまとめたものとして、「春秋左伝」「国語」などがある。そして春秋戦国以降も、さらにこの伝統は漢代の司馬遷を経由し、やがて儒者の営為と一体となっていった。しかし、この史の伝統は儒教をはじめとする諸子百家とは別に現代まで継続している。今年(2016年)、北京において「清史」の初稿が完成し、イデオロギー的に大きく変革した中華人民共和国においても、そのような伝統が続いているという事実は現代中国を考える上で有意なことであろう。

 

 孔子の出身は巫であった。巫の習俗から発し、それを一種のハイ・カルチャーである史の伝統(文)によって補強し、人為的に作られた伝統実践形態(つまり伝統そのものというより「伝統の理想」に基づいて再構築された伝統)としての「礼」を周公・老彭に「仮託」し、それを実践することによって、伝統の原点に回帰することによって、現代的な意味を見出し、さらにこの両者をその伝統と現代に共通するイデア的な(向こう側の)状態に付会させる、この三者が統一的に実現される場を「仁」と孔子はいうのである。つまり、仁とは個別具体的な実践の場である。そして、最も強調したいこととして、仁とは現代の状況、伝統の状況によって、如何とも変化しうる、それどころか個人個人によって異なるものであるのである。

 

○参考文献・論文など

白川静孔子伝』1972 中央公論社

宮崎市定史記を語る』1996岩波書店

加地信行『沈黙の宗教 儒教』2011 ちくま学芸文庫

秋山好古「本邦騎兵用法論」をよむ① (序文)

 司馬遼太郎が軍事論文としては類を見ない名論文であると絶賛した秋山好古(1897年)「本邦騎兵用法論」を現代語として読めるよう書き換えを施した。今回は、本論のうち序文の現代語訳を示す。

 本論は「坂の上の雲」関連資料にてネット上において読むことができる。本文はこれに沿っているが、原典を見ることのできる機会があれば、校合していきたいと考えている。なお、本文は太字で示し、現代語は本文の段落ごとに示した。

 

本邦騎兵用法論

(我が国における騎兵の運用方法について)

 

本文 本邦の騎兵用法に関しては、未だ戦時編成条規の確定せざると、戦役上の経験少なき為め、一定の方針を定ることを困難なりとす。現行操典並に野外要務令に就て研究するも、同じく精確に之を断定すること能はず。是れ多年国内戦を基礎とせし結果に他ならず。

現代語 我が国の騎兵運用方法に関しては、まだ戦争に備えた軍隊の編成を定めた規約が完成していないことと、わが軍が戦争において騎兵を用いた経験が少ないため、一定の方針を定めることが困難である。今用いられている騎兵の戦場での行動の原理原則を示した「操典」や、戦場における勤務や戦闘の方法の方針をしめした「野外要務令」について研究したとしても、やはり騎兵の運用方法についてはっきりとした方針を得ることができない。これは、日本陸軍が戦争の研究の基礎として、(騎兵が活動することが困難な)国内での戦争を想定していた結果に他ならない。

 

本文 騎兵の盛衰は古来より屡々(しばしば)変遷を来せしと雖も、其隆盛を極めしは、多くは用兵上に卓絶せる名将出でし時にあり。之を歴史に徴するに、成吉汗(チンギスハン)、亞歴山(アレキサンダー)、フレデリック大王、拿破崙(ナポレオン)一世、近時モルトケ大将の如き、騎兵の教育及び其用法上に深く意を用いたり。是れ戦略上の勝利を全うするは騎兵に超ゆべき他の兵種なければなり。

現代語 騎兵が歩兵や砲兵といったほかの兵種に対して有利になったり、不利になったりすることは歴史上何度も繰り返されていることであるが、これが最も有利になる時の多くは、騎兵の運用方法に卓絶した名将が現れた時である。歴史に実際にあたると、チンギスハーンやアレクサンドロス大王、フリードリッヒ大王、ナポレオン一世、最近では大モルトケという名将は、確かに騎兵の教育や運用方法に気を配っていた。その理由は、戦略上の勝利を手に入れるという能力という点において騎兵は他の歩兵や砲兵よりも高い能力を持っているからである。

 

本文 我が国に於ける騎兵は、其の進歩常に遅滞し、言うべからざるの悲境にありて、其編成典範すら、屡々動揺し、従て其用法上に就ても、確定の方針定むること能はず。然れども二十七、八年戦役以来、軍備の拡張に伴い、我騎兵にも大に変革を来す時期に際会せり。今遂に他国と平和を破る患なしと雖も、静心熟慮、宇内の大勢に鑑み、隣邦の兵力、其他を考究し来れば、騎兵の進歩を企図するは、刻下の最大急務なりとす。

現代語 日本騎兵の進歩は、他の兵種が拡大・近代化していくのに対して、非常にゆっくりとしたものであり、言葉では言い尽くせないほどの悲惨な状況にある。その編成の規範ですら、しばしば揺れ動き、それのために現実の軍隊における編成を基礎として研究されるべき騎兵の運用方法も、その方針を定めることができない。しかし、日清戦争以来、軍備拡張が進み、中国大陸での作戦が可能性として現れた今、騎兵も他の兵種とならんで変革を行う時期が来た。今は戦争の可能性はないとはいえ、将来の来たるべき戦争について熟慮し、世界情勢を考慮して隣国ロシアの兵力やその他の要素を考えれば、騎兵の拡張・近代化を計画し、実行するのは、目下最大の急務である。

 

本文 強兵を以て名のある普国は、戦勝に傲らず、騎兵戦術の未だ完全ならざるを確認し、今やフレデリック大王の遺訓を再興し、騎兵の馬術を奨励し、用兵上の学識を増進せしむるに深く注意し、大に騎兵用法上に変革をなせり。大王は騎兵の奨励に最も意を用い、騎兵将校をして日々厩舎を巡視せざるもの日曜日と雖も乗馬をなさゝ゛るものは厳罰に処し、又乗馬学校を各所に設立し、馬術を奨励し、且つ騎兵の青年将校は、他兵科上長官よりも用兵上の学識を有しせざるべからずとし、其学業を督励するや、実に至れり盡せり、名将の訓戒は、諸君と共に学術研究上の基礎となさゝ゛るべからず。

現代語 強力な軍隊を持っていることで有名なプロイセンは、1871年の普仏戦争の勝利に傲慢になることなく、他国と比べて自らの騎兵戦術が完成していないことを自覚し、フリードリヒ大王の残した教訓をもとに、騎兵に対して乗馬技術の向上を奨励し、騎兵運用の学問的知見を深めることに重点を置き、騎兵運用の変革を大いに今、行っている。フリードリヒ大王は騎兵を奨励することに最も気を配り、騎兵将校が厩舎を日々巡視しなかったり、日曜日だからなどといって乗馬しない者には厳びしい罰則を科し、乗馬学校を各地に設置することで馬術を磨くことを奨励し、若い騎兵将校に対しては「(騎兵将校は)他の兵種の階級が高い者よりも軍隊運用に関する知見をもたねばならない」として騎兵運用の学習を奨励するなど、騎兵運用に対して至れり尽くせりといえるほどまでに注意を注いでいた。このような名将の残した教訓は、他の名将のそれと共に騎兵運用に対する学術研究の基礎としなくてはならない。

 

本文 本邦に未だ騎兵の名将なし。蓋し無きを哀れむを要せず、無きが至當なればなり。欧州各国と雖も、幾百年来、幾千の騎兵将校ありと雖も、眞の騎兵名将と称すべきものは、実に僅々一、二に過ぎず。騎兵良将校たるは難しとす。

現代語 我が国に騎兵の名将といえる人物はいない。しかし、これを他国より遅れているなどと哀れむ必要はない。騎兵の名将など、いないほうが至って当然であるからである。先進国であるヨーロッパ各国を見ても、数百年の間に騎兵将校は何千人もいたが、本当の騎兵の名将はわずかに一人か二人といってもよいだろう。良い騎兵の将校であるということは難しいことなのである。

 

本文 彼の一敗地塗りし仏国も、七十年戦以来普国の編成条規に模倣せしが、近時に至り、漸次昔時ナポレオン帝の施行せし戦術的に於ける騎兵戦術(この点やや不可解にして、原典との校合の必要あり)を、再び採用せんとするの傾向ありて、敵国をして多少危惧の念を生ぜしむるに至れり。然れども騎兵の本旨とする所は、昔時と多少異なる所あり。昔時は騎兵を主として本戦に用ひ、彼我両軍決戦の用に供せしと雖も、今日に於ける騎兵用法上の目的は、まったく作戦地境内を専制するを第一の要務となし、其本戦に参與するを決戦攻撃、追撃、退却援護の如きを特別の場合とせり。故に欧州騎兵第一任務とする所は、敵を発見するまで捜索を為し、敵騎兵に遭遇せば、之を撃攘蹂躙して滅亡に至らしむるを、確乎不抜の定義とし、此一事は死を誓へるの決戦にして、一意断行苟(いやしく)も猶予躊躇することなく、断乎としてとして(本文ママ、校合の必要あり)決行すべきものとせり。是れ勝者は作戦地境を専制し、本軍をして充分の勝算を以て、利を戦場に擅(ほしいまま)にするを得せしめんが為なり。

現代語 あの一度プロイセンに敗れたフランスも、普仏戦争以来、プロイセンの編成をさだめた規約をまねていたが、最近になり、昔、ナポレオンが行った騎兵戦術を再び採用する傾向があって、当時の強勢であったフランスが復活するのではないかと周辺の対立国に多少の危惧を抱かせている。しかし、現代の騎兵の活動における主要な点は、昔とはいくらか異なる点がある。昔は騎兵を主に主要な戦いに用い、敵味方両軍の戦いを決するために用いられていたが、今日の騎兵運用は、作戦が行われる地域に先行し確保することを第一の任務として、敵味方の主力が戦っている時に敵主力に突撃をしかけるなどして攻撃し、逃げ散る敵を追い討ち、退却する味方を攻撃する敵を追い払うなどという、過去の騎兵の主要な任務は、現代ではその本分ではない特別の任務となっている。なので、ヨーロッパの騎兵が最も優先する任務は、敵を発見するまでは敵軍の捜索を行い、同様の任務を行う騎兵に対しては、これを全力で撃破し、壊滅させることを、動かすことのできない騎兵の定義的な任務とし、この任務の達成は騎兵にとって決死の覚悟で臨むべき決戦であり、決心したからにはいささかも躊躇することなく、これを行わねばならない。敵味方のうち、この騎兵活動の勝者は、作戦地域に先行することが可能になり、主力の戦闘の勝算を大きなものとし、戦場における地の利を最大限利用することができるようになるのである。

 

本文 以上は殆んど一般の定論にして、「軍其の為す所を知れば、必ず勝つ」との金言を騎兵の責務とせしにすぎず。

現代語 以上のことは一般的な常識的な議論に過ぎず「それぞれ自分が戦場において果たすべき役割を自覚した軍隊は必ず勝つ」という金言を騎兵にはてはめたに過ぎないのである。

 

本文 猶ほ騎兵は以上の任務を遂げ了らば、其任務尽きたりやと言ふに、決して然らず、とす。現時に於て欧州諸国各兵訓練の度は殆ど同一の程度にあるを以て、彼我勝敗の決する所は、作戦計画の良否に最大関係をなすものとす。若し騎兵をして敵の動員を妨害し、倉庫を焼夷し、電線を切断し、鉄道を破壊して、以て敵軍の作戦計画を妨害するを得ば、全軍の勝敗に至大の影響を及ぼすものとす。現時欧州諸国非常の大軍を用ゆるに至りしを以て、其集中に関する作戦計画は極めて至難なりとす。若し騎兵にして敵の最も至難とする作戦計画を妨害するを得ば、本軍をして勝利の基を開かしむるを得べし。

現代語 「騎兵が先述の任務を達成すれば、その任務はすべて達成され、もうほかの任務はないのか」と言われれば、「決してそのようなことはない」と答える。現在、ヨーロッパ各国の軍隊の練度はほぼ似通ったもので、戦争の勝利を決するものは作戦計画が良いか悪いかという点にかかっているといえる。もし、(敵地に深く突入した)騎兵によって敵の軍隊の移動を妨害し、倉庫を焼き払い、(電信のための)電線を切断し、鉄道を破壊して、敵の作戦計画の円滑な実施を妨害することに成功すれば、戦争の勝敗に絶大な影響を与えることが可能であろう。現代のヨーロッパ各国は全土から総動員した兵力を戦場へ動かすための計画は極めて複雑で、運用は困難なものである。もし、騎兵がその困難な作戦計画を妨害することができたならば、主力が勝利を果たすための基礎を築くことができるだろう。

 

本文 欧州諸国が今日其槍騎兵、胸甲騎兵を増加して、其戦力を増大するは、多くは前述に基けるが如し。

現代語 ヨーロッパ各国が現在、槍騎兵、胸甲騎兵を増加して戦力を増強していることは、先ほど述べた理由によるのである。

 

本文 然れども軍備は、自国並に隣国の状況に基くものにして、従て各兵種の用法を多少異なる所なかるべからず。今や露国は騎兵を拡張して二十四師団に至らしめ、其亜細亜地方に駐在せしむるものを、三師団に至らしめんとす。運輸交通の便未だ開けずと雖も、遠からずして東部亜細亜に於いて此三師団(十八連隊)を運用し得るに至らん。

現代語 そうはいっても軍備というものは、自国と隣国の軍備などの状況によるもので、各兵種の運用方針も多少は異なる点があるほうが当然である。しかし、現在、ロシアは騎兵の規模を拡大して二十四個師団とし、東アジアに駐屯する騎兵師団も三つにしようとしている。ヨーロッパ・ロシアと東アジアの交通運輸の便は悪いといっても、近い将来、東アジアにおいてロシアは3個騎兵師団を運用することができるようになるだろう。

 

本文 往年、帖木兒、鐡木眞の満州より起こり、欧州に侵入せし事跡より判断するも、大兵の運用困難なりとして、断じて安意すべからず。今や隣国に対し、本邦騎兵の戦時編成は如何に増大するべきや、其馬匹武器は如何に改良すべきや、其教育は如何なる方法を以てすべきやに就ては、議論極めて多しと雖も、本論に主旨に非ざるを以て、主として本邦現時の典令に準拠して騎兵の用法を論ぜんとす。

現代語 昔、ティムールやテムジン(チンギスハーン)は満州(この点事実誤認か)から勢力を拡大してヨーロッパに侵入したことから判断して、大兵力の運用は困難であるとして軍事的危機はヨーロッパから直接は来ないと安心するようなことは決してあってはならない。仮想敵国である隣国に対する戦争において我が国の騎兵はどのような戦時編成を取り規模を拡大するべきか、我が軍騎兵の馬匹あるいは武器をどのように改良するべきか、我が国の騎兵の教育はどのような方法をもってするべきか、などという点については当然ながら多様な議論が行われているが、本論はそのような議論を行うことは主旨とはせず、主として我が国の現行の騎兵運用の基礎を定めた典令を前提において、戦場において騎兵をどのように運用するべきかについて論じることとする。